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第6話 夜明け前の水音

 広場を横切る冷たい風が、紫の空とまだ眠っている石造りの家々をなでていった。

 木桶を担いだ青年――村長はミレイに視線を定めたまま無言で立ち止まる。金色がかった短髪の下、灰色の瞳は警戒とも苛立ちともつかない光を宿している。


「えっと……おはようございます。私はミレイ、旅の――」


「余所者が神殿に寝泊まりとは、ずいぶん肝が据わってるな」


 低い声が石畳に落ちた。ノアが石板を胸に抱え、少し身を引く。

 ミレイは笑みを作りながら腹の虫を押さえ込んだ。


「昨夜、許可は取りました。記録係さんから」


「記録係、ね……奇跡を数えたところで腹は膨れねぇぞ」


 その言い草に、ノアのまつげが小さく震えた。

 ミレイは咳払いし、視線をパン屋の方へ向けた。焼き窯から淡い香りが漂い始めている。


「じゃあ、まず腹ごしらえですね。働くにも計算するにもエネルギーが要りますから、村長さん」


 青年の眉がぴくりと動く。ノアが石板を掲げる。


『パン屋 残り物 受取 急ぐ』


「ほら、広場を掃除してるおばさんに挨拶すれば昨日のパンが一本は貰えるって」


 腹の虫が遠慮なく鳴き、ミレイは笑って頭をかいた。青年はため息をつき、木桶を地面に降ろした。


「リアムだ。……ついて来い。余所者に道を教えず怪我をされても面倒だ」


 背を向けたリアムの肩越しに、ノアが石板へ 『ありがとう』 とだけ書いて見せた。



 パン屋の軒先には夜明け前から窯の残熱が残り、硬くなったパンが籠に積まれている。

 リアムが無言で籠を差し出し、ミレイは礼を言って一本受け取った。歯に力を入れるとちょっとした武器になりそうな固さだが、噛むたびに麦の甘さが染みてくる。


 そこへ、遠くで角笛のような短い音が上がった。

 リアムが顔色を変える。


「水門か――!」


 水路の方へ走り出す背中を追って広場へ戻ると、水門の板が外れかけ、茶色い水が石畳に溢れていた。夜通しの小雨で水量が増え、劣化した止め板が耐えきれなかったのだ。


土嚢(どのう)を持って来い! まず西側を塞ぐ!」


 リアムが村人に指示を飛ばす。泥水は農地へ向かって流れ、畑の若い苗を押し倒そうとしていた。

 ミレイは足元を見ながら呟く。


「昨夜の記録……たしか“北風 弱”って」


 ノアが石板を繰り、数時間前の行を書いたページを示す。


《風向 北西 小雨 水位+2》


 ミレイは泥水の流れを見比べ、唇をかみしめた。


「水の勢い、東側が強い。西を塞いだら圧が逃げなくて決壊する!」


 リアムは土嚢を抱えたまま振り向く。


「素人が口を出すな!」


「素人でも分かります! そっちは低くて広い、先に東側を誘導しなきゃ!」


 目がぶつかる。息を呑むノアの横で、ミレイは一歩も退かなかった。

 泥水が石畳を叩く音が大きくなる。リアムは舌打ちし、顎で昼間用の木板を指す。


「――5分で証明しろ。失敗すれば神殿からも村からも叩き出す」


 ミレイは頷き、ノアと板を引きずって東側へ回り込む。

 木板を溝に差し込み、石片と泥で隙間を埋めると、水流は抵抗を得て速度を落とした。

 西側の土嚢が間に合い、濁流は水門内に留まる。農地への被害は最小で食い止められた。


 胸を上下させながら振り返ると、リアムが静かに息を吐いていた。鋭い瞳に読めない光が揺れる。


「……助かった」


 わずかに絞り出された言葉。

 ミレイは安堵で膝が笑うのを感じながらも、笑って手を差し出した。


「朝ごはん、半分こしましょう。まだ固いけど、働いた後の味は絶品ですよ」


 リアムは戸惑いながらも手を伸ばし、固いパンを折って受け取った。その指の脇で、ノアが石板を掲げる。


『記録 追加 水門 東側 成功』


 リアムの眉が動く。ノアは続けて書く。


『偶然 か 奇跡 かは 後で』


 青年の喉がわずかに動いた。ミレイはパンを囓り、泥に濡れた空を見上げる。

 雲の切れ間で、朝日が少しだけ覗いていた。


(偶然か奇跡か。答えはまだ怖い。でも――今日も書き留めよう)


 神殿の奥で揺れた青白い灯は見えない。けれど、胸の奥で微かな鼓動が呼応していた。

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