第4話 声を持たない祈り
神殿の扉を押した瞬間、ひんやりした空気が肌を包んだ。
月明りと、あの青白い灯が薄く混ざり合い、瓦礫だらけの床に水面のような光を落としている。
石の匂い。砂の匂い。そして、どこか甘い香草のような残り香。
廃れているはずなのに、不思議と息苦しくない。
(……ほんとに、廃神殿?)
足音が吸い込まれていく。砕けた祭壇の先で、人影が膝をついていた。
年は自分と同じくらい。長身痩躯、灰がかった外衣。
肩まで届く銀灰の髪は光を受けて淡く揺れ、伏せた睫毛の奥に、夜空みたいな深い青の瞳が隠れている。
静かな顔立ち。けれど、頬にはうっすら石粉がついていて、長い指先にはインクが滲んでいた。
――祈っている。
唇が微かに動くが、声はほとんど漏れない。
指先だけが石板の上を走り、細いペンで短い文字を刻む。
「……こんばんは」
呼びかけると、青年はゆっくり顔を上げた。
光を映した瞳が、ミレイを映す。表情は薄いまま、ペンを止めると石板を差し出した。
『旅人?』
角ばった文字は、ところどころ欠けた石面に整然と並んでいた。
「うん。少し、休ませてもらえないかな」
青年は一拍置き、こくりと頷く。
そして石板の反対側にさらさらと追記する。
『ここは君の敵ではない』
不思議な言い回しに、ミレイは小さく息を吐いた。緊張がほどける。
「ありがとう。……あなたは、この神殿で何を?」
青年はペンを置き、胸元で両手を合わせた。
祈りの姿勢から、紙ではなく石で綴じた厚い帳面を取り出す。
表紙には細い字で《記録》とある。
『ここに起こる事を 書き留める』
「記録係……ってこと?」
頷き。
それだけで会話が終わりそうになり、ミレイは慌てて続ける。
「名前、聞いてもいい? 私はミレイ」
青年は少しだけ目を瞬かせ、石板に新たな一行を書く。
『ノア』
「ノア……いい名前だね」
その言葉に、彼の唇がほんのわずか――気付かなければ消えてしまいそうなほど――ゆるんだ。
そして、祭壇横の灯がふっと強く瞬く。青白い粒子が空気の中で踊り、ふわりと温度が上がった気がした。
(偶然、だよね…?奇跡なんてあるはずない…)
ミレイの胸がわずかに高鳴る。けれど、すぐに現実が顔を出す。
信じたい。でも、怖い。
それでも――目の前の青年は、この光景を当たり前のように受け止めていた。
ノアは帳面を捲り、最後のページを指さす。
そこには整った文字で、今日の日付と短い一文。
《月下 微光 弱 来訪者アリ》
筆先が止まると、彼はミレイを見て、小さく石板を傾けた。
まるで「次の行は君の番だ」と言うように。
ミレイは胸に手を当て、ゆっくり息を吸う。
青白い灯は揺れたまま、けれどどこか暖かい。
(少しくらい、信じてみてもいいかも)
「……じゃあ、書かせてもらおうかな」
受け取ったペンは軽く、インクの匂いがほのかに甘い。
ミレイは震える指で、一行だけ記す。
《灯を 見た 美しかった》
書き終えると、心の奥でコトリと何かが鳴った。
ノアは静かに頷き、祈りの姿勢に戻る。
ミレイも隣に膝をつき、しばし石畳の冷たさを感じた。
「……少しだけ、ここで休ませて」
囁くと、青白い灯がまた優しく瞬いた。