第3話 名前のない村に、灯るもの
ミレイは、地図も持たずに歩いていた。
神殿都市オルステリオンを出てから、どれだけ経ったのか分からない。朝が来て、夜が来て、それだけの繰り返し。
国境の石碑には《イザレア王国領》と刻まれていた。けれど胸は動かない。国が変わっても、私の明日は変わらない。
行商人や警備隊に声をかけられても、「旅の途中で」とだけ言って通り過ぎた。
行き場はない。でも、戻る場所ももう消えている。
(“私のいた場所”なんて、最初から無かったのかもしれない)
靴底はすり減り、石に引っかかるたび踵が痛む。頼りの魔信端末は落として割れ、時刻も方角も映らない。
(この体、ほんとに私のだったっけ……)
立ち止まると涙が出そうで怖かった。でも結局、涙は出なかった。心も体も空っぽだった。
夜風が頬を撫でても温度が分からない。
(私は、何かを信じたかっただけなのに)
たった一度の「ありがとう」を待っていただけ。
その言葉は、最後まで届かなかった。
だからせめて、歩く。
(“ここじゃないどこか”に行けば変われる? ……もう期待はしないけど)
雲の重たい夕暮れ。
小さな峠を越えると、木々の隙間に寂れた村のようなものが見えた。
石造りの門。傾いた鐘楼。草に埋もれた広場。名札を失った立て札が斜めに揺れている。
「……ここ、どこ……?」
荷車を直していた老人が肩をすくめる。
「ファレナだよ。知る人なんて、もうほとんどいないがな」
《ファレナ》
昔、神の奇跡があったと噂された村。今は地図の余白にさえ載らない。
観光客もおらず、残るのは空っぽの神殿と少しの家、人影だけ。
それなのに、足は止まらなかった。
門をくぐり、無人の広場を抜ける。
ふと見上げた神殿の階段。閉ざされた扉の隙間から、細い光がこぼれていた。青白く、小さく、揺れている。
(……こんな村にも、まだ灯りが残ってる)
奇跡なんてもう信じない。けれど、その光は私を引き寄せた。
石段を上がり、扉に手を置く。古い蝶番がかすかに鳴く。
(ここで、少しだけ息をついてもいい?)
「……ちょっとだけ、休もう」
誰に聞かせるでもなく呟く。
(休んだら――もう一歩だけ、進めるかな…)
物語はここから動き始める。
イザレアの最果て、名を失くした村と、立ち止まる場所を失くしたひとりの女。
薄闇に浮かぶ青白い光が、その新たなページを静かに開こうとしていた。