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第15話 戸口の静けさ、言えなかった言葉(リアム視点)

 縄を干し場に掛け、濡れた外套を戸口の釘に吊るした。

 掌に残る麻の匂いが、少しだけ甘く感じる。橋は持った。手すりも足した。札は立てた。胸の中のざわめきは、まだ完全には静まらない。


 囲炉裏の火は落としてある。薬罐の底がほんのり温かい。

 柱の根元に、古い木箱。蓋を開けると、使い込んだ布切れと、崩れた札束。誰かが結び直そうとして途中でやめた、ほどけかけの結び目。


 親指の腹で結び目を押さえた瞬間、奥歯が噛み合う音が耳の内側で響いた。

(あの夜だ)



 あの日、家は静かすぎた。息をする音が、床板に吸い込まれていくみたいだった。

 香草の匂いが強すぎて、何も味がしなかった。戸外の雨音だけが確かで、祈りの言葉は途中で途切れた。


 ノアが来た。

 扉のところに立って、小さな声で呼んだ。あの頃のノアは、口で話していた。


「……外、空気、冷たい。少し、歩こう」


「要らない」


 声が自分のものじゃないみたいに荒れていた。ノアは構わず、短く続ける。


「覚えてる? 丘。——星、たくさんの夜。

 今は、何も変えられないみたいに見えても」


「やめろ」


「でも、明日の段取りを、いっしょに——」


「やめろって言ってるだろ!」


 喉から出た声は、勝手に大きくなった。

 胸の奥で何かが切れ、止まらなくなった。


「うるせぇ! 俺の気持ちなんて知らねえくせに、喋んじゃねえよ!」


 言葉が壁に当たって跳ね返り、家の中が一拍遅れて軋んだ。

 ノアは目を見開いた。肩がわずかに揺れて、それきり静かになった。


 しばらくして、彼はひとつだけ頷いた。

 何も言わず、扉の外へ下がった。雨音が強くなったのか、遠くなったのか、もう分からなかった。


 それから、ノアがほとんど声を出さなくなったのは、誰もが知っていることだ。

 知っている——はずなのに、あの日の一言を、俺が知っているのは俺だけだ。



 木箱の蓋を閉めた。

 囲炉裏の灰をかき混ぜる。白かった灰が少し色を取り戻すみたいに、胸の奥が熱くなる。嫌な熱だ。誰に向ければいいかも分からない熱だ。


(あれは——最低だった)


 言葉は戻らない。やり直しもない。

 分かっているのに、指はまだ、ほどけかけの結び目を押さえたままだ。


 戸を叩く音がした。軽い、小さなリズム。

 子どもの声が重なる。


「村長ー! 約束、約束!」


 戸を引くと、子どもたちが3人。手を取り合って跳ねている。

 その後ろで、ミレイが笑って手を振り、ノアが石板を抱えて立っていた。


「リアム、準備できてる? 星、見に行こうって」


 ノアが石板を掲げる。


《星丘 晴れ 子ども達 待》


 視線が一瞬だけぶつかった。ノアはすぐに目を伏せる。

 胸の中の嫌な熱と、戸口から入る夜風がぶつかって、どちらも弱くなる。


「……俺なしで行け」


 言って、扉を閉めようとした。その縁を、子どもの手がぐいっと押さえる。


「やだ! リアム兄ちゃんも来るって言った!」


「言ってない」


「言った!」

「言っ……てない」


 ミレイが苦笑して肩をすくめる。


「子どもたち、期待しちゃってるからさ。もし嫌じゃなければ、ちょっとだけでも」


 “嫌じゃなければ”。

 嫌だ——と即答するための言葉が、喉の途中で止まった。ノアが石板に一行、ゆっくり書く。


《一緒に 並ぶ》


 呼吸が引っかかった。

 柱の線。丘の夜。言い損ねた“ごめん”が、舌の裏で重くなる。


 俺は外套を取り、子どもの手から戸の縁を外した。

 戸を閉める前に、囲炉裏の灰が静かに沈むのを確かめる。道具置き場の鍵、よし。札、よし。

 どうでもいい確認を、いつもより丁寧に繰り返す。


「……行く。早く戻るぞ。夜の冷えが強い」


 子どもたちが喜びの声を上げ、ミレイが親指を立てた。ノアは小さく頷く。

 戸口を出る時、ノアが半歩だけ俺の後ろに回る。昔と同じ立ち位置。

 何も言わない。俺も言わない。


 路地には夜の匂い。川の方から涼しい風。遠くで人の笑い声。

 星は、まだ薄い。けれど、雲の切れ目は広がっている。


(並ぶ、か)


 足音が4つ、路地に重なる。

 俺は正面を見た。子どもが引く手が軽い。ミレイの足取りは速い。ノアの呼吸は静かだ。


 丘へ向かう角を曲がる時、家の戸口に一度だけ視線を返した。

 ただの暗がり。何も言わない。何も戻ってこない。


 それでも、今夜は行く。

 言えなかった言葉は、星の下で探す。言えるなら、少しでも。

 並んで——それから、前へ。

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