第10話 泥の跡と、背中の距離(リアム視点)
村は音で動く。
夜明け前、最初に耳に入るのは水門の水音だ。濁りが重く鳴れば、今日は忙しい。軽ければ、別の仕事に手を回す。そうやって毎日を回してきた。奇跡じゃ腹は膨れない。段取りと腕力、それが村長の道具だ。
数日前、神殿に余所者が泊まったと聞いた。
子どもたちは面白がり、年寄りは顔をしかめる。俺は眉をひとつ上げただけで、水位を見に戻った。(神殿の屋根は抜けたままだ。雨宿りにもならない場所に、何を好き好んで)
翌朝、広場で会った。
やせた女がパンをかじり、記録係――ノア――が横に立っていた。女は名をミレイと名乗り、よそ者らしい軽い笑みを浮かべた。俺は余計な会話を避け、いつものように水門へ向かった。運が悪いことに、板が鳴いていた。
水は濁り、止め板は古く、雨は増える。
先に西を塞ぐつもりだった。そこがいつも弱い。そこへミレイが口を挟んだ。
「そっちじゃない、東から先に」
素人の言葉だ。だが、流れの肩が東に寄っているのは俺も感じていた。西を先に塞げば、圧で割れる可能性は――ある。
舌打ちしたのは、彼女に従うためじゃない。決断が一つ増えたからだ。
「5分で証明しろ」
結果は見ての通りだ。東に板を立て、隙間を泥で塞ぎ、西の土嚢が間に合い、被害は最小で止まった。
運がよかった? そうだとも。だが“運がこちらに傾く角度”というものは、確かにある。彼女はそれを読み、俺は許可した。それだけの話だ。
昼、彼女は倉庫を片付けた。
釘は缶へ、板は寸で束ね、杭は長さで分け、紙切れに番号を書いて貼っていく。少年たちが「見やすい!」とはしゃぎ、年寄りは「あんたは誰の娘だ」と笑った。
俺は在庫表を受け取り、黙って頷いた。こういう紙は嫌いじゃない。紙は口を出さないし、嘘をつかない。
夕方、空き家の前で交渉になった。
ただで貸せるわけがない。村に“ただ”は無い。彼女は仕事を差し出した。対価としては妥当。だから条件を出した。「今日一日、俺と歩け。出来栄え次第だ」と。
結果、屋根はふさがった。
夜になると雨が落ちてきた。点検に行くと、梁は乾き、釘は真っ直ぐで、板の合わせは甘くない。上等だ。簡単に褒めるのは好きじゃないが、事実は事実だ。
囲炉裏の火の前に座ると、息が詰まった。
ノアは黙って帳面を開き、ミレイは薬罐を吊るし、俺は座布の置き場が決まらない。奇跡の話をする気はない。だが、雨脚の音は静かな自慢みたいに屋根を叩いている。
しばらくして、ベルダがスープを持ってきた。倉庫が歩きやすくなった礼だという。
(礼は作業に言え、それで十分だ)
そう心の中で返し、口には出さなかった。ミレイの胃が正直に鳴ったのは聞かなかったことにした。
「記録も役に立った」
気づけば口が勝手に動いていた。
雨量と風向を合わせて測った表。ノアが昔からつけていた数字だ。俺はあの数字を嫌っていた。何も変わらない日々を、ただ積み重ねるための印に見えていたからだ。
だが今日は違った。数字が段取りに変わった。紙が、道具になった。
ミレイが湯気越しに言う。
「星を見る約束が、ほんとうに叶いそう」
「……約束?」
「昼間、倉庫を手伝ってくれた子たちとね。屋根が直ったら星を見に行こうって」
火かき棒が手の中で軽くなった。
星の丘は知っている。雲が割れるのが早い場所だ。昔、何度も通った。
(覚えている。)
「あの丘なら雲が抜けた後が早い。……晴れたら案内してやる」
ノアが石板に《星丘 晴れ待ち》と書いた。ノアは相変わらず口を開かない。俺も余計なことは言わない。
気まずいか? ああ、気まずい。
神殿に用があっても、あの柱だけは正面から見ない。視界の端に刻線が入る前に、別の仕事を思い出して外へ出る――そんな癖が、まだ抜けない。
だが、仕事は一緒にできる。橋を渡す順番も、棚を作る順番も、紙と木と釘で決められる。言葉が足りないなら、手で埋めればいい。
屋根は雨を弾き続けた。
しずくは落ちてこない。火は丸く、湯気は静かに天井へ消えていく。ミレイは茶碗を両手で包み、安堵の息を吐いた。ノアはページを閉じ、今日の記録を一行で締める。俺は火をもう一度いじって、棒を置いた。
(奇跡は要らない。だが――)
扉の隙間風が、少しだけ甘い香りを運んできた。雨上がりに混じる、どこか懐かしい匂い。
必要なのは、明日の仕事の段取りと、人手と、わずかな運。
それから、こうして湯気を分け合える夜だ。
「明日は倉庫の棚だ。午前で片づける。午後は橋をやる」
「了解」
ミレイが即答し、ノアが小さく頷く。
屋根修繕一日目、雨漏りゼロ。
数字で言えばそれだけのことだ。だが、数字の裏にあるものくらいは、俺にも分かる。
(この屋根の下でなら、少しくらい話してもいい)
火は静かに小さくなり、雨音は遠のいていく。夜はまだ長い。けれど、長いだけの夜ではなくなった。




