【10】魔王国の医療
『どうしてこんなことを……妹は実験体なんかじゃない!』
怒りと悲哀に震える声。涙を流し、苦痛に顔を歪めている。
『感謝するよ。我が国の医療の発展にとって素晴らしい貢献をしてくれたね』
高らかな笑い。罪を罪とも思わぬ嘲笑は、その苦しみを踏みつける。
――ああ、これは僕だ。
腹の底から湧き上がる笑い声が、無情に響き渡る。不快さすら感じさせた。
『こんなことのために、あなたに仕えていたわけではない……!』
『私の役に立つことが何よりも歓びだろう? これで多くの民を救えるんだから』
残虐さを湛えた瞳は輝き、その言葉が心から溢れ出るものだと証明している。
――そう、未来の僕だ。
顔にかかっていたもやが消える。その顔は確かに自分だった。
『あなただって同じように妹を失ったはずだ!』
『私と同じ気持ちを味わえてよかったね。これで深く私を理解できただろう?』
そっと手を握る。優しい指先は、まるで温もりを伝えるようだった。
『私を理解してもらえたことを心から嬉しく思うよ、フィリベルト』
なんとしても、この未来を変えなければならない。
誰も絶望しなくて済む魔王国を。小さな光を。
* * *
薄っすらと開いた目がカーテンの隙間から射し込む陽の光を認識すると、ようやく解放されたような気分になった。ベッドに体を起こし、リベルは大きく伸びをする。
(フィリベルトか……)
王に忠誠を誓う騎士フィリベルトは、病気の妹を人質に取られ、厳しい任務を課される。しかし、無事に任務を遂行して帰還した頃には、妹は治験に利用されて亡くなっていたのだ。
悪の大魔王は、誰に対しでも、いつでも絶望させる準備をしている。誰かの絶望が、レクスの心の糧だった。
(キングがいないから、好き勝手にやるんだろうなあ……)
姉の原作では、すでに現時点でキングは勇者に討伐されている。最大と言える歯止めがないことで、魔王の暴走は止まらなかったことだろう。
ベッドから降りてまた伸びをしていると、寝室のドアがノックされた。静かに顔を覗かせるのはイーリスだった。
「おはようございます、リベル様」
「おはよう、イーリス」
挨拶を終えると、イーリスの手付きは急激に加速する。あっという間にリベルの着替えは済み、あとはイーリスが満足するまでリベルの髪を整えれば朝の身支度は万端だ。リベルは特に気にしていないが、イーリスはリベルの浅葱色の髪をつやつやに整えることに心血を注いでいた。
その優しい手付きをぼんやりと眺めながら、リベルはなんの気なしに言う。
「フィリベルトの妹の病気は治療が進んでるの?」
リベルの言葉を聞いた瞬間、イーリスは目を見開いた。
「なぜそのことをご存知なのですか?」
その意味を悟り、しまった、とリベルは心の中で呟く。城に来たばかりのリベルが、フィリベルトの妹のことを知っているはずがないのだ。それでもイーリスはすぐに冷静な表情に戻る。
「それも“未来視”ですか……。確かに、フィリベルトの妹は難病を患っています。その病気の治療法は、王宮の医療機関が研究を続けていますが、いまだ特効薬はありません。病気の進行を食い止めるだけの対処療法しかないのが現状です」
「そう……。うーん……」
リベルは首を捻る。もしかしたら、前世の頃の現代医療が何か役に立てることができたかもしれない。と言っても、リベルは医療とは無縁だった。知識は当てにできないだろう。
「その病気について知りたいんだけど……」
「では、研究室に報告書の提出を依頼しておきます。難病はこの国に長く根付くものです。それを知れば、民に対して支援できることもありますね」
「うん」
リベルの妹も、同じ病気だった。長い闘病の末、妹は亡くなっている。それが、リベルの心を壊したのかもしれない。
寝室を出ると、おはよう、と明るい声が聞こえた。軽く手を振るのはミラだ。おはようの挨拶を返し、辞儀をするイーリスに見送られてダイニングへと向かう。
「そういえば」リベルは言う。「ここから執務室まで護衛はミラだけだね」
「私も割と強いのよ。デュラハンの家系だから。実力で言ったらフィリベルトと同じくらいかしら」
「へえ。それは心強いね」
やはり自分との実力差は歴然のようだ、とリベルは考える。ポケットラットとデュラハンでは、あまりに戦力差がありすぎる。ミラもその気になれば、リベルを捻り潰すのは造作もないことなのだろう。
「フィリベルトの夢を見たわ」
静かな声で言うミラを見上げると、真剣な表情を浮かべていた。
「あなたの夢を覗いたのでしょう?」
「うん。本来のレクスの記憶を夢で見た」
リベルとミラは魔力回路が繋がっている。その繋がりがミラにリベルと同じ夢を見せたのだろう。
「フィリベルトの妹はいまどこでどうしてるのかな」
「まだ故郷の町で暮らしているはずよ。こちらから接触しなければ、接点はないはずだわ」
「病気の治療法を見つけられるといいんだけど……」
「残念ながら、私たちは医療に関しては素人も素人。できることはあまりないかもしれないわね」
「そうだね……」
せめて王宮の医療機関に支援を出せば、研究を進めることができるかもしれない。民のために必要な機関を支援することは、王にとって当然の責務である。金銭的な援助や機器の整備など、いくらでも支援することはあるだろう。イーリスが依頼した報告書が来れば、医療機関の把握もできるはず。王として必要な支援は惜しまないつもりだ。
突然に背後から抱え上げられるので、わっ、とリベルは小さく声を上げる。リベルを腕に抱えたのはキングだった。
「おはよう、私の可愛いリベル」
「キング……」
目を逸らして口ごもるリベルに、キングは優しい視線で首を傾げる。
「あの……魔王族の主食が人間だというのは本当ですか?」
ひえ、とミラが小さく呟いた。彼らはかつて、人間だったのだ。
「大昔の話さ。まだ魔王国が国になるより前、食糧の限られていた頃だ」
「人間が魔族を敵視しているのはそういう理由ね」ミラが言う。「いまだに魔族が人間を食うと思っている人間が、一定数いるということね」
「だから魔王は討伐対象なんですね」
ゲームでは、なぜ人間の勇者が魔王を討伐するか、その詳細な理由を考えたことはなかった。魔王は人間の世界を滅ぼそうとする、ただそれだけのことだからだ。この世界の魔族と人間は、明確な敵対関係にあるらしい。キングが人間の平和を脅かすとは思えない。人間が一方的に敵視しているだけなのだ。
「その誤認さえ解ければ、人間との和睦は難しい話ではないよ。魔王国の発展のため、人間と手をと取ることも考えたほうがいい」
「魔族は人間を受け入れるでしょうか」
「いまは難しいだろうね。紛争が終わったばかりだから。時期を見るのが大事なのは何に関しても言えることだ」
ただ和睦を目指すだけで話が終わるなら、きっと王は必要ない。いまの魔族はきっと人間を受け入れない。最適なタイミングを見極めるのが、王に必要な責務となるのだろう。
* * *
朝食を終えてレクスとキング、ミラが執務室に行くと、珍しくブラムとカルラがばたついていた。首を傾げていたレクスの足元で、何かの影がちらつく。あっ、とルドが声を上げると、それはまたどこかに離れて行った。
「どうしたんですか?」
「野良のポケットラットが紛れ込んでいるのです」
カルラが息をついたとき、また何かの影がレクスの足元に来る。それは確かにポケットラットだった。足に擦り寄って来るポケットラットを、レクスはむんずと掴み上げた。
「うわ、素手で捕まえた……」
ルドが上がる息を整えつつ呟くと、ミラが小さく笑う。
「さすがポケットラットの家系ね」
「どうしましょうか」
レクスの手の中で、ポケットラットは暴れることなく大人しくしていた。動きが素早いため、三人では捕まえられなかったのだ。
「そのまま逃がしてやりましょう」ブラムが言う。「野良ですし」
「はい」
頷いたレクスは、小さなネズミを見て考える。
「ポケットラットは医療の治験に使えたりしないのかな」
「あー、ラットだものね」と、ミラ。「生態系の根底と考えると、薬の研究に使えたり――」
「……正気っすか?」
ルドが低い声で言うので、レクスとミラは顔を上げた。ルドは苦々しい表情でふたりを見ており、キングとブラム、カルラは困ったように笑っている。
「いくら医療の発展のためと言えど、魔獣を治験に使うんすか?」
「その発想はありませんでした」ブラムが言う。「しかし、同じ種族を見てそれを考え付くとは……」
魔獣も魔族の一部。それに気付いたレクスとミラは、顔を見合わせた。
《 人間の発想、ってこと? 》
《 魔獣と動物は違うのね。確かに、魔族として同じ種族ではあるものね 》
《 仲間を治験に使う残酷な魔王になるところだったよ 》
レクスが小さく息をつくと、キングが呆れたように目を細める。
「またふたりで念話しているな」
「いえ……」
レクスは窓を開け、ぽい、とポケットラットを投げ出す。ここは三階だが、どこかに上手く着地できるはずだ。
「医療の発展に興味があるのですか?」
執務机に着くレクスに、ブラムが問いかけた。
「イーリスから報告書の依頼が来ておりましたが」
「医療の発展は国にとって重要なことです。把握しておくに越したことはないかと思ったんです」
「そうですね。近いうちに、薬学研究室の視察に向かわれるとよろしいでしょう」
彼らはきっと、レクスの妹のことを把握している。フィリベルトの妹と同じ病気で亡くなったことも知っているだろう。そのレクスが医療の発展に興味を持つことを、彼らが止めることはないはずだ。
レクスは、フィリベルトの妹を救えるなら救ってやりたいと思っている。フィリベルトの心を守るためにも。




