第五章・第五話:これこそ凶鬼
満月、鬼にとってこれほど戦うのに適した環境はない。
人間を圧倒的に超える五感を誇っている鬼にとって闇夜の暗がりは昼同然、さらに月という無限のバックアップがある。こちらから仕掛けるのならば、満月は理想的であった。
しかし、今では少し後悔している。というのは月の微かな明かりだけでは蛇の蛇行を捉えきれないからだ。
「鬼闘術・白!」
幽鬼は左手で空を握りしめ、空間を圧縮させる。目標はもちろん、自分の故郷を奪った憎むべき相手、オロチだ。
幽鬼はあまりこの攻撃に期待していなかった。なぜならこの攻撃は敵が視認できないから意味がある必殺の一撃である。一度この技の仕組みを分かってしまった相手にはあまりに効果的ではないからだ。もちろん、獣じみた反射神経を誇るオロチには言うまでもない。
「ヒャッハ―! 甘えぞ、幽鬼童子!」
影が蛇行し、歪む空間から抜け出す。
今まで戦ってきて一つ分かったことがあった。オロチは強いということが。
獣じみた動きで敵に忍び寄り、変幻自在の剣で敵を襲う。まさに肉食動物というべき悍ましさだった。
蛇は嗤いながら幽鬼に向かう。獲物を目にした捕食者の姿を見て幽鬼は身構える。その瞬間、獲物と捕食者の間に入る影が直行した。
「オラァ! テメエの相手はこのアタシだ、蛇野郎!」
破壊快楽者が殺人鬼に襲い掛かる。桃太郎が殴ればオロチがかわし、オロチが剣を振れば桃太郎はそれをかわす。そのやり取りが高速で行われていた。
桃太郎は幽鬼の眼から見ても“規格外”と呼ぶのにふさわしかった。鬼でも捉えきれない獣の動きと対等以上に競っている彼女は一体何なのだろうか……。少なくとも人間というレベルには収まらない。
とは雖も幽鬼も黙って見ているだけではない。獣は獣の戦い方があるように、自分には自分の戦い方がある。
「幽鬼、アタシごと潰せ!」
「んなこと分かってる!」
幽鬼は言われる前に潰す。
たとえその範囲が特定されたとしても、接近戦しか出来ないバカ共にとっては“鬼闘術・白”は脅威的だ。
舌打ちしながら双方は後ろに飛び去り、距離を取る。オロチはいまだ嗤っている。
「いいね~。やっぱりオメエらは最高だ! 最高の殺し合いだよ!」
「……別に。アタシはそんなに楽しくねえよ」
「おいおい。自分に嘘つくのは良くないぜ。お前は確かにこの争いを愉しんでいる。愉しんでいないんだったら、どうしてお前は嗤っているんだ?」
「―――っ! 黙れ!」
桃太郎が飛ぶ。この戦い、一番キレているのは彼女かもしれない。
そういう意味では幽鬼は至って冷静である。今までオロチを確実に必殺するタイミングを計っていた。そして今、桃太郎とオロチが競り合っているこの時、それは来た。
――――鬼闘術・凶鬼
この術は一度使えば止まらない。だからこそ一撃で仕留めなければならない。幽鬼は精神を集中させ、凶鬼を起動させようとした。
「鬼闘術・凶鬼!」
……何も起こらない。幽鬼は目をパチパチさせた。
「ど、どうして……?」
「がら空きみ~っけ!」
戸惑っている幽鬼を桃太郎から抜け出したオロチが襲う。
蛇のようにうねる剣を至近距離でかわすのは至難の業。明らかにゴリ押しのパワータイプの幽鬼にとってこれほど厄介な敵はいない。一振りで確実に皮膚を抉られ、苦痛で顔が歪む。
しかし、これは同時にチャンスだ。オロチが攻撃しているときは奴の背後はがら空き。桃太郎がすぐに攻撃に転ずることが出来る、幽鬼はそう思っていた。
――――しかし桃太郎は幽鬼の予想を裏切る行動を取った。
「ぐ……」
「桃太郎、何故……?」
幽鬼に突き刺さるはずの剣先が、何故か目の前に現れた桃太郎の肩に刺さっている。何故、と疑問に思っている暇はない。変幻自在の剣はすぐに自分に向かってくる。
幽鬼は全滅覚悟で空間を圧縮させ、この場から抜け出そうとした。
「はぁ……はぁ……」
「いいね~。仲間を巻き込んでまで自分は助かろうとするなんてなんだかとっても生物っぽいぜ。見た目に似合わず残酷だな」
「っ! 桃太郎、返事しろ!」
返事はない。ただ肩に穴が開いているボロボロの人間の形をしたものが突っ立ているだけだ。
幽鬼はそれを見て、同情だとか悲しみは湧いてこなかった。あるのは激怒だけだった。
「桃太郎! どうして私ごと攻撃しない!? お前ならさっきぶった切ることぐらいできただろ! ためらわず攻撃しろと言ったのはお前だろうが!」
「……ちっ」
「私を可哀そうだと思っているのか? そんな心配は要らん。早く奴をぶっ潰すためなら手段を選ぶな!」
幽鬼は激昂する。
彼女は桃太郎のことを今でも許さない。しかし桃太郎の“戦いにおける積極性”だけは認めていたつもりだった。あらゆる状況において敵を倒すことだけを考え、攻撃の手を休めない。手加減など存在せず、常に全力。それが桃太郎の強さであり、彼女の証明であったはずだ。
今の桃太郎は弱い。守るということは彼女にとって不純物だ。それを覚えてしまった桃太郎はもはや桃太郎ではないのだ。
今までピクリとも動かなかった桃原キョウが叫びだした。
「出来るわけねえだろうが!」
「っ!?」
「お前はアタシみたいに一人じゃねえんだ! お前が傷ついて悲しむのはオメエだけじゃねえんだぞ!」
「おいおい。こんなところに来て仲間割れかよ。ま、三つ巴っていうのも面白いかもな」
こんな状況でも、いやだからこそオロチは嗤う。
彼にとってみれば三つ巴など最高の戦いの場でしかない。ただ殺し合えればそれでいい。そんな彼に向けて、キョウが爆ぜた。
「言ってんだろ! アタシと幽鬼は仲間じゃねえ!」
桃花がオロチの剣と火花を散らす。
奴の剣は変幻自在とはいえど力ではこちらの方が上。奴のか細い剣では受け止めることなど出来まい。キョウは強引に押し切ろうとした。
「ああ、そういえば言い忘れてんだけどさ……」
「アァ?」
「これさ、ただの剣じゃないわけよ」
剣が桃花に巻きつき、獲物を絞殺さんとする蛇の如く圧迫する。
……確かに、ただの剣ではないことは分かっていた。
「これ俺の尻尾なの」
「―――はっ?」
「八岐大蛇って聞いたことない? これ八本まで生やせるの」
そういった瞬間、オロチの皮膚から七つの針のようなものが突き出てくる。それらはうにょうにょと不気味に動き、本体の指令を待っていた。
キョウの眼が大きく見開かれる。マズイ、と思った時にすでに遅かった。
「それじゃあ、バイバイ」
その言葉と共に、七つの針が一斉にキョウに襲い掛かる。
抜け出そうとしても無駄だ。最初の剣が桃花を伝って、自分の腕までロックされている。
為すすべなく、全ての針がキョウの皮膚を突き破った。血の帯が宙に浮かび上がる。
「も、桃太郎―――――!」
力なく倒れていく彼女を目の前に、幽鬼はすぐさま彼女に駆け寄った。
▽ ▽ ▽
「おい、桃太郎、しっかりしろ! おい、返事を……」
返事はない。当然だ。体のあらゆる場所を突き破られ血は止まる気配を見せない。特に貫かれた左目の損傷がひどい。もしかしたら連動して右目も見えなくなっているかもしれない。こんな様子で微かに息をしているのだけでも奇跡と言えるだろう。
しかしこれではもう桃太郎は戦うことは出来ない。幽鬼は一人で、目の前で嗤っている蛇と戦わなくてはいけないのだ。
「おい、幽鬼童子。いい加減そんな木偶放っておいて俺と戦おうぜ」
「木偶……だと?」
「だってそうだろ。戦えなくなった戦士は塵同然。そんなの死んだ方がましだ。あっ、今ここで殺しておいた方が感謝されるのか?」
そう言ってギャハハ、と下衆な笑い声が聞こえる。
体が熱い。血が沸騰しそうなくらい、怒っているのが自分でも分かった。
「テメエ……仮にも一度戦った敵だろうが。敵には敬意を示すべきじゃないのか……」
「そんなの知らないね。言ったろ、俺たちは似た者同士だって。似た者同士の俺たちが戦ってどうして俺が勝ったかなんか言うまでもない。俺の方が残虐で、殺戮的で、外れているからだ」
オロチは歪んだ表情でそう言い放つ。狂気が彼の顔を包んでいた。
「この世界の生物全ては生の中に存在している。当然だ。生きていないものは動かないからな。しかしどうして俺らみたいな死の中でしか存在することが出来ないような異常者が現れたかって考えると、それはな、俺たちの方が正しいんだよ」
「外れている方が正しいだと? 何をバカなことを言っている。私たちは生きている。だからこそ死の中でしか存在できないお前は外れているというのだろうが」
「違うね。あらゆるものは全て零に行きつく。これは世界が決めた秩序だ。俺たちはそんな零に帰ろうとする運動を体現しているに他ならないんだ」
この世界には当然終わりがある。永遠に生きるかぐやでさえ、この世界が終わる時にはおそらく機能が停止するだろう。
確かにオロチの言うことには納得できるものがある。だが、こいつの言うことを素直に聞くのは癪であった。
「殺し合いの時は興奮するだろ? それは零に帰ることが当然の運動だからだ。なあ、お前もそう思うだろ、幽鬼童子」
「思わん。私は外れてなどいない!」
「いい加減素直になれよ。……なあ、さっきから俺の周りでぶんぶん飛びまわている犬さんよ。お前の主がこんなになっているのに助けなくていいのか?」
オロチの呼び声と共に風が止まる。もちろん、本物の風ではなく先ほどからスサノウによって操られている駒を片付けている犬である。
犬は一瞬止まると、興味なさそうに言う。
「我はキョウ様の犬だ。キョウ様は我に“手を出すな”とおっしゃった。だから我は手を出さん」
「……つまんね。じゃあいいよ。そこで大人しく見物してな。負け犬」
それ以来興味が失せたのか、オロチは剣を構え幽鬼と向き合う。それと同時に彼の皮膚から突き出ている七本の触手も蠢き、本体の命令を待っていた。
さて、どうするべきか。一つでも捉えきれないものが一気に八本まで増えてしまった。圧倒的不利なのは決定的に明らかである。幽鬼にはあれらを止める術などない。幽鬼が冷や汗を流していると、オロチがその手を動かした。
「やれ」
短くそう言い放つと七つの触手が襲い掛かる。それと同時幽鬼も動きだし、それをかわそうとする。
七つの触手の間を縫って移動し、時には空間を圧縮させて避ける。しかし、完全にかわせるわけでもない。数に違いがあり過ぎるのだ。まるで弾幕のようなそれをかわそうとする度に、自分の皮膚が傷ついていった。
「ぐ……」
「ほらほら、どうしたよ、幽鬼童子? お前の力はこんなもんじゃないだろ? ほら、あれやってくれよ、あれ。あの……鬼闘術・凶鬼だっけ? あれを使えばかわせるんじゃねえの?」
出来ることならすでにやっている、そう幽鬼が睨みつけると、オロチはニヤリと嗤った。
「ああ、そうか。お前使えないんだな。な~んだ。じゃあどうして使えないか、俺が教えてやろうか?」
「何……?」
「それはお前が自分の本質に嘘をついているからだ。お前の本質は“爆発”。全てを巻き込む大爆発だ。俺を憎め。その存在を抹消しろ。桃太郎の時を思い出せ。お前が俺を殺したいと思えば、凶鬼はその力を発揮するだろうよ」
まるで知っているかのようなオロチの口ぶりに幽鬼は顔をしかめる。
違う。凶鬼はそんな為にある技じゃない。そんな為にあるのだったら、父はそもそも作らなかったはずだ。凶鬼には別の意味がある。
……しかし残念ながら、それが思い出せない。桃太郎と戦って以来、何も思い出すことが出来ない。
明確な否定も出来ず、ただ悔しい思いをしている幽鬼に追い打ちをかけるように、オロチは言い放つ。
「鬼闘術はお前の父親、茨木童子の業だ。茨木童子は鬼の三頭の中でも残虐非道。そんな奴が作った業が、恐ろしくも残虐じゃないわけもないだろ。さあ、その父親の後を継げよ。お前があの悍ましい童子になるんだよ」
幽鬼はただ首を横に振る。そんな幽鬼を見て、落胆したかのようにオロチは彼女を見た。酷く冷たく、気味の悪い目だった。
「……こんなけ言ってもまだ分からないか。だったらあそこに眠っている馬鹿よろしく、お前も死ねよ」
触手が再び蠢きだす。
あれをかわす術は幽鬼にはない。うねうねと蠢く触手を見て、それを受け入れるしかなかった。
「が……ふ……」
「あ~あ。つまんね。折角スサノウに連れてきてもらったのに、始めて殺し合う相手がこんな腰抜けどもだとは……。またどっかの村を乗っ取って、退魔師が来るのを待つか。いや、それだと――――」
だんだんと、オロチの声が遠くなっていく。薄れ行く意識の中で、幽鬼はただ自分の死のことを自覚していた。
死ぬということになると、どうも他人事のように思えて仕方なかった。それならば、今自分が思っているのは走馬灯ということか。凶鬼によって失われた景色まで鮮明に思い出されるのだからそれはそれで面白かった。
しかし、どうしてだろう。どうして父親の面影が“あいつ”と重なるのだろうか。優しくて強かった父、そんな父を殺した憎いあいつ、何故その二人が重なるのか。
焦ることはない。この出血量ならばすぐに死ぬことはないだろう。自分がいなくなる前に、走馬灯と共に思い出していこう。
―――――お前は何のための強さということを忘れている。
これは栄鬼の言葉だ。自分の強さとは何だっただろうか……。
―――――お前が傷ついて悲しむのは、お前だけじゃねえんだぞ!
先ほどの桃太郎の言葉。何故奴がそんなに言うのかは分からないが、それを言った奴の顔が何だかとっても悲しそうだったのは覚えている。
―――――幽鬼は優しいからね。この技を教えておこう。
今は亡き父の言葉だ。私が優しい? 父の言葉はいつも正しかったが、この言葉だけは賛同できなかった。
―――――それでこそ、俺の娘だ。その力はね、仲間を助けるためにあるんだよ。
―――――お前は自分の日常を守っていればよかったんだ。
「お?」
オロチは何か後ろで物音がしたので振り返った。
急所を外したのか、と面倒くさそうに頭を掻き毟り今にも倒れそうな鬼に話かける。
「何だ、まだ立てたのか? そのまま大人しく寝ていれば、楽に死ねたのによ」
「……思い出したぞ」
「アアン?」
不可解な幽鬼の言葉を聞いて、オロチは首をかしげた。
「凶鬼は人を傷つけるためにあるんじゃない。仲間を助けるために、日常を守るために存在しているんだ。仲間を助けようと思えば、仲間がいれば何を失っても立ち直れる。帰る場所がある。そう思ってお父さんは私に凶鬼を渡したんだ!」
「まだそんなことをほざくか! いい加減自分の本質を認めやがれ!」
「そんな本質なんて捻り潰してやる。私は、お父さんの意志を継ぐ―――――鬼闘術・凶鬼!」
その瞬間、幽鬼の姿が四散したように消えた。決して比喩ではなく、まるでそこに誰もいなかったかのように、幽鬼の姿が見えない。
オロチは呆然として、先ほどまで鬼がいたところを見ていた。この俺が捉えきれないわけがない、そう思って周りを見渡すもやはり幽鬼を発見することが出来ない。
しかし死は、確実に自分の背後にいた。
「鬼闘術・絶!」
オロチの左肩が抉られる。咄嗟に身をかがめなかったら、その躰に穴が開いていただろう。
久々に感じた命の危険を感じて、オロチは幽鬼と距離を置こうとする。しかし動き出した爆ぜる鬼はそう簡単に止まらない。
「いちいち視界の外に……」
「返してもらうぞ、鬼ヶ島を! 私の仲間を、私の日常を。鬼闘術・白!」
「ちっ……いい加減うぜえぞ、オメエ! 鬼風情が俺に勝てると思うなよ!」
七つの触手が蠢き始める。
しかしその七つを以てしても、幽鬼の動きを止めることが出来なかった。爆ぜる鬼・幽鬼、本気で動き出した彼女を止める術など、オロチにはない。
実は使える魔術を用いても、右手に握る自分の体の一部を振るっても、幽鬼は止まらない。確実に自分に死が近づいてきているのを、オロチは肌で感じていた。
――――これが凶鬼の力か……。
さっさと止めを刺さなかった自分を後悔した。
「当たれやあああぁぁぁ!」
「お前なんかに止められるか……。お前は何もないから、私すら止められないんだ!」
幽鬼はさらに加速する。ここまでの領域に達すると、オロチはその位置ですら把握しきれなかった。
絶により地面が抉れ、戒により雲が裂ける。そして幽鬼がオロチの背後を捉えたとき、彼女の腕が勢いよく突き出された。
「ぐふ……」
ついに幽鬼の腕が蛇の心臓を貫いた。どんな生物でも、心臓を貫かれてしまえばその機能を停止する。幽鬼はそう思い、勝利を確信していた。しかし――――
「―――残念」
「なっ……?」
オロチが再び動きだし、幽鬼の左手を持って投げ飛ばした。不意と驚愕により幽鬼は対応できず、数メートルの距離を舞い岩石に当たってようやくその勢いが止まった。
何が起こったのか分からず、幽鬼は激痛よりも何が分かったのか分からない衝撃の方が大きかった。
「ハア……ハア……ちっ、面倒かけさせやがって、この女。体ボロボロじゃねえか」
「な、何で?」
「ん……ああ、俺の躰は特別でな。俺の本体はこの躰じゃなくて、あの触手たちなの。あいつらの中にいるたった一つの本物が消えない限り、俺は死なねえんだよ。悪いな」
全く悪気のなさそうな顔でオロチは謝る。そう言う蛇の胸は、周りの肉が覆うように埋められていった。それと同時に、七つの触手も再び蠢きだした。
「さて、ここまでやっといて何だが、お前にも飽きちまった。というわけで、ここらで死んでくれや」
「ふざけるな……私はまだやれる……」
「無理だろ。もうその躰は限界だよ。――――ああ、安心しろ、苦しまないように楽に逝かしてやるから」
オロチの言うとおり体の自由が効かない。まるで鉛を背負っているかのように、重く動かなかった。
凶鬼を使った時から幽鬼の躰はすでに死にかけていた。そんな状態から酷使すれば、機能しなくなるのは日の目を見るより明らか。幽鬼はそれが分かっているからこそ、倒れている今というのが悔しくてたまらなかった。あと一歩でたどり着けるのに、あと一歩で取り戻せるのに動かない。その一歩が絶望的に大きくて、幽鬼は泣き出しそうだった。
オロチはそれを見下し、嘲笑って剣を振りかざした。
「それじゃあ、バイバイ」
「―――――誰を逝かしてやるって?」
声がした。女の声だ。決してそこに突っ立っている犬の声ではない。犬はそこに立って、何故か満足そうな顔をしていた。
オロチは大きく目を見開いて振り返る。その声はもう決して聞こえるはずがないと思っていたから。あり得ない、そう思ってもその凛とした声は確かに続く。
「花は散るからこそ美しい、とは誰が言ったかは知らないがアタシはあんまり賛同出来ないね。どんなけ踏まれたって、どんなけ刈られようが諦めずに立ち上がる姿の方がアタシは好きだ。だってそうだろ? アタシたちはそんなに美しくもないし、静かに自分の身が死んでいくのを見るほど達観することが出来ないんだ」
「ど……どうして、お前が……」
「死んでいくのは怖いよな。だから――――アタシが一緒に殺してやるよ」
―――白い着物を身に纏う、死神が悠然とそこに佇んでいる。