桃章:オメエラがいなくなっちゃ意味ないじゃん
時がさかのぼること、数日。金太郎が実家に帰る頃の話である。
ここは月の都。
地上からは見ることが出来ない月の裏側。まるで空気まで統制されたように冷たく、静かなこの地には地上の生命の常軌を逸した存在、天人が暮らしていた。
喧騒を好まず、ただ静かに地上を傍観している彼ら。ただ永遠の命を持て余し、何をするわけでもない彼らも、今日ばかりは動かずにはいられなかった。
――――月の都の象徴とも言えるこの屋敷に侵入者が現れた。
「早く扉を閉めよ! 絶対にツクヨミ様のところへ行かせるな!」
その屋敷の主がいる部屋の前で、必死に部下に指示を出している彼の名前はカナモリ。普段は赤と青のオッドアイ、そして優美な金色の髪を持つ、都の中でも指折りの美男子に入るほどだ。しかしそれは今では見る影もなく髪は荒んでいて、さらに彼の紅眼は刃物で切られたような跡が付いていた。彼の部下達も同様で、むしろ彼が一番まともと言えるほどである。いつか地上に鬼と人間にやられた時でさえ、ここまでにはならなかったというのに……。
断っておくとこの屋敷の主の側近で、月の姫の教育係でもある彼はもちろん弱いということではない。この月の都の兵も皆屈強ぞろいで、地上の者では刃も立たないだろう。
しかし残念。今回の侵入者は、地上の者ではないのだ。
「おやおや、その傷は痛そうだね。カナモリ君」
『っ!』
兵達が皆驚き、振り返るとそこに侵入者がいた。重力が逆転したかのように、天井に足をつけて逆さまにこちらを見下ろしていた。
この侵入者はどこから入ったのか、という疑問は今では意味を為さない。カナモリはすぐに動き出した。
「黙れ、侵入者! 貴様を排除する!」
カナモリは飛び上がり、侵入者に彼の愛刀を振り下ろす。
カナモリが空を飛ぶ人間ならば、その侵入者は密林に潜む獣だった。壁を這いずりカナモリの斬撃をかわすと、すぐさま反対側の壁に飛び移りカナモリを見る。
数ある獣の中から、カナモリはその男の中に大蛇を見た。
「おお、まだ戦力があるのか。てっきり未来を視る目が無くなったから諦めると思っていたが、案外往生際が悪いんだな」
「貴様……どこで先見の魔眼のことを……」
男はニヤリと嗤い駆けだす。
壁を蹴り、地を這いずって高速で移動する。地上にいる兵士は成す術もなくそれを見送ることしか出来ず、男は瞬時にカナモリのいる場所に到達した。男の右手に見える歪な形の剣を防ぐべく、カナモリも刀を振り下ろした。
「やっぱり先見の魔眼がないと人並みだな」
―――――刃物が曲がった……。
まるで生き物のように蠢き、その刃物は形を変えてカナモリの刀をかわす。そして、容赦なく彼の肩を貫いた。
「が……!」
「羽を失った天使は人間と一緒。堕落しろよ、天人」
カナモリは地に堕ちていく。
永遠の命を持つ彼らとは言えど、それは何も起こらなかったらの話。致命傷となる怪我や傷、爆発などに巻き込まれてしまえばそれは地上の人間と同じように死ぬ。そしてこの高さからの墜落は、カナモリを殺すのには十分な物であった。
カナモリはその目を閉じた。
「……ツクヨミ様、お許しを……。命を果たせず逝く自分をお許しください……」
「貴方にはまだやってもらわねばならぬことは山ほどあります。勝手に死なないでください」
……衝撃が来ない。死を覚悟したカナモリはその目を恐る恐る開ける。すると、目に入ったのは自分の最も慕う顔であった。
「ツ、ツクヨミ様!?」
「はい、私です。カナモリ。良く今まで頑張りましたね」
カナモリを今お姫様抱っこ(?)をしているのは、この屋敷の主、そしてこの国の三貴神が一柱、月詠尊、その人である。彼女は母性的な笑みを浮かべながら、カナモリをそっと下ろし、そして侵入者の方を見た。その余りに洗練された動きに誰もが目を囚われた。
侵入者も目を奪われ動くことが出来なかったが、それも一瞬の事。すぐに再起動して、待ってましたと言わんばかりの嗤いを上げた。
「ようやく来たか、ツクヨミさんよ。一体いつまで雑魚の相手をさせられるかと思っていたぜ……」
「……流石の私でも獣畜生と話す言葉はありませんよ。早急にこの屋敷から立ち去りなさい」
「黙れ!」
侵入者は動きだす。その獣のように移動はまさに捕食者。刃物を構え、蛇行しながら彼女の首元狙って突き出した。
対してツクヨミは動こうとしない。侵入者がすぐそこまで来ても、まったく動じなかった。しかしそれで良かった。
―――――彼女は動く必要などないのだ
『跪きなさい』
彼女の口から短く発せられたその言葉で、皆の動きが止まった。一様に地に足をつき、頭を下げる。侵入者も、兵士も、カナモリでさえ皆一様に。
まるで自分の体で無くなったかのように力が入らなかった。
「何だ、コレ……? 体が、動かねえ……」
「貴方は神というのを舐めすぎている。神は不可侵。貴方のような身分の人が私に触れようなどおこがましいですよ。……カナモリ、貴方まで何をやっているのですか? 貴方にはそこまで影響はないでしょうに」
「すみません……。力が弱まっていたものでつい……。ツクヨミ様、コイツは何者なのですか?」
「……この者の名前はヤ――――」
「あ~あ、やっぱりお前には無理だったか……。まっ、ここまで来ただけでも上出来か」
カナモリは驚いて振り返る。自分は確かに先見の魔眼は使えない。しかしまだあらゆる場所を見通す遠見の魔眼はまだ健在なはずだ。しかしそこには、自分が気づかないうちに赤い髪の男が腕を組んで立っていた。
カナモリはすぐさま、刀を手に取る。
「こいつ……いつの間に!」
「おっと、そこまでにしろよ、カナモリ。いくら神のお付き人だからと言っても、やっていいことと悪いことがあるんだからよ」
「……そうです、カナモリ。剣を下ろしなさい」
「ですが……」
ツクヨミは目でカナモリを命ずる。しかしそれだけではなかった。この赤い髪の男から発せられる圧力に自分の手は自然に下りていた。ツクヨミと同等の圧力をかけるこの男は何者なのか、カナモリには分からなかった。
赤髪の男はけだるそうに歩きだすと、ツクヨミの前で止まる。ツクヨミの術も関係なしに立ち止まると、長年の旧友と話すかのように喋りだした。
「よう、久しぶりだな。アンタと会ったのは何年振りだ?」
「……ええ、そうね。ざっと二千年は経っているかしらね。……それで、今日は何の用なのかしら?」
赤髪の男が後ろを振り向き、手のひらを天井に向ける。余裕綽々に、ツクヨミの問いに答える。
「別に大した用事じゃない。ここまで大した事にしたのはコイツのせいだ。それで要件なんだが、地上に行く門を通らしてくれるだけでいいんだ。なっ、簡単だろ」
「……なるほど。地上に行って何する気なのかしら?」
「別に大したことはない。ただ……“世界を救おうかな”と」
そんな馬鹿げた内容を当然のように口にする。しかしツクヨミは知っていた。この男は本気であるということを。
赤髪の男の腰にある剣がその存在感を現していた。
「どうぞ。別に私は構わないわ。あれは元々姉上から預かったもの。私がとやかく言うものではないわ」
「あんがとさん。じゃあ、早速俺は行くわ……おい、いつまで寝てんだ! 早く起きろ、このボケが!」
今までひれ伏していた侵入者の腹を容赦なく蹴りあげる。そして宙に浮いたその体を乱暴に肩に乗せ、その門があるところへこんな言葉を残して向かって行った。
「じゃあね、大好きな“お姉ちゃん”」
不敵な笑みを浮かべて、その姿が消えていく。この部屋を包んでいた圧力が消えると、ようやくカナモリはその口を開いた。
「ツクヨミ様、今の者は一体……」
「口を慎みなさい。カナモリ。貴方がそのような口を利ける者ではありません。それよりも怪我人の治療の指示を。貴方も少し休みなさい」
「……承知つかまりました」
渋々ながらカナモリはこの部屋から去っていく。自分は天人で、ツクヨミは神なのだ。自分が触れてはいけない事もある。少し無常観を漂わせ、カナモリは自室へ帰っていった。
カナモリが去ったことを確認すると、ツクヨミはポツリと呟いた。
「……スサノウ、貴方は何をする気なのかしら?」
カナモリに自分の気持ちが分からないように、自分も彼の気持ちは分からない。せいぜいあの乱暴な弟が、何もしない事を祈るばかりであった。
時は同じくして、ここは鬼ヶ島。
金太郎たちが今まさに帰ろうとしているところに、鬼ヶ島を訪れる二人の人間がいた。
「おい、鬼丸、金髪。遊びに来て―――――」
「スマン、キョウ! 俺実家に帰らなくちゃいけないんだ! 適当に遊んで帰ってくれ!」
「お、おい。ちょっと待―――――」
「そうそう、キョウ。私たちがいない間、鬼ヶ島の事を頼みましたよ!」
「それじゃあ、キンちゃんの実家に……」
『レッツゴー!』
目にも止まらない速さで、ウラシマのボートが発進する。あっという間に見えなくなり、残るは自分と、ついてきた犬だけであった。
桃原キョウは呆然として、ポツリと呟いた。
「……お前らいなくなったら意味ないじゃん」
ですね、と言う犬の相槌が余計空しさを加速させていた。
▽ ▽ ▽
いやいやいや、人が折角訪ねてきているのに、あいつらがいなくなったら意味ないだろ!
アタシの名前は桃原キョウ、別名桃太郎だ。どちらで呼ばれるかは人による。アタシは、桃原キョウの方が気に入っているけどな。
「それで、どうしましょうか。桃太郎様? あいつらがいなくなってしまってはここに来た意味はないのですが」
こいつの名前は犬。本名は忘れた。でも別に私もこいつも困っていない。だってこいつはアタシの飼い犬で、こいつはアタシの番犬なんだから。
アタシは頭を搔きながら、その問いに答えた。
「いや、別に遊びに来たわけであって、特に理由なんかないんだけどな……。ここで帰ってもいいんだが……」
ここは鬼ヶ島。悪の具現とも言える鬼が住まう場所。そして、かつて桃太郎が滅ぼした地――――。
ここでアタシは罪を犯したんだ。たった一つの、大きな罪を。この島の中央にそびえたつ巨大な塔を見つめて、私は決心した。
「そういうわけにはいかないか。ケジメをつけないとな……。よし、行くぞ、犬」
「はっ? どこに?」
「お前、そんなもん決まってんだろ」
――――鬼ヶ島の中央、塔へ。
▽ ▽ ▽
「いやあ、よく来たな、桃太郎。儂は君を歓迎するよ」
「……」
鬼ヶ島中央塔最上階、長老の間。そこにいたのはたった一人の人間、いや、鬼か。名前は確か……鬼珠童子と言ったはずだ。かつて鬼の三頭と言われた、長老の一人。アタシはこいつを知っている。
でも、あれ? こいつ、こんなにも老けていたっけ……?
「……そんな陳腐な挨拶はどうでもいい。そんなことより――――」
犬の肩がわなわなと震えている。いつもアタシの二歩下がってついてくるこいつにしては珍しいこともあるもんだ。でも仕方ないか。だってここ……
「歓迎しているというのならこの結界を解かんか!」
そうなのだ。ここに入った瞬間、アタシたちの周りに見事なまでに結界が張られ、アタシたちは入り口付近で拘束されているのだ。
なるほど、こりゃ見事な結界だ。四重、いや、五重結界まで張られているか。これを壊すのはアタシでも数分はかかるだろう。
犬はガミガミ怒っているが、鬼珠の方はのらりくらりとそれを笑ってかわしていた。果てには、用心深さが長生きの秘訣じゃよ、とまで言っていた。
「それで、何用でここまで来た? もはやここはお前の根城ではないぞ、桃太郎」
突如、ガラリと空気が変わった。鬼珠が座りなおしたせいだ。鬼珠は見るだけで人を殺せそうな眼光でこちらを睨んでいた。
犬が押し黙ったのも頷ける。これほどの威圧感は、流石鬼の長老と言ったところか。アタシはそいつに向き合って、話し始めた。
「……別にアタシは何をしようって気はない。ただあの時のケジメをつけに来ただけだ」
「ほう、ケジメとな。一体何のケジメじゃ?」
「あの時戦ったんじゃなくて、お前らを壊したことだ」
アタシは続ける。
「アタシはさ、どうしようもない奴なんだ。生まれてから初めて覚えたことは物を壊すこと。自分の周りに物があるのが許せなかったんだ。だから物でも、魔物も、人でさえ壊し続けた。そんな生活が六年続いた時、アタシはとある最強と出会ったんだ」
―――――おじいさんはその拳を難なく受け止めました。
「……そいつは強かった。ただ壊すだけしかできなかったアタシの拳を受け止めたんだ。そして、何を思ったのかアタシを拾ったんだ」
―――――名がないのか? ならば儂がつけてやろう。お前の名前は桃太郎、今日から儂の子じゃ!
「ただ壊すだけだったアタシに爺は戦うことを教えてくれた。互いの尊厳をかけて戦う大切さを教えてくれたんだ。アタシはそいつに育てられた」
「……それで、戦うことの大切さを知ったお前は何故鬼ヶ島を壊した? お前が戦っていれば、あんな結末にならなかっただろうに」
鬼珠の言葉が容赦なく突き刺さる。
……そうだ。アタシが戦うことを思い出していれば、あの鬼は死ぬことはなかったんだ。
「……爺は死んだ。今までアタシを止めてくれた奴がいなくなったから、アタシは止まらなくなった。アタシは次第に戦うことと壊すことの境界が分からなくなって、アタシは狂っていった」
「お前は止めてくれる人がいないから狂ったと言うのか? そんなもの、子供でも通用しない我侭だぞ」
犬の表情が明らかに暗くなっていく。
……ああ、そうか。こいつはアタシの近くにいたんだ。アタシを止められなかったんだ。
「犬、お前のせいじゃない。ただアタシがバカだったんだ。……アタシはお前らを壊した罪がある。だからその罪を償わなくちゃいけない」
アタシは地に膝を付き、頭を下げる。そして奴の目の前に自分の刀を置いた。
犬が慌てて止めようとしているが、邪魔をするなと睨んだ。これはアタシの業なんだ。
「――――すまなかった。アタシは償いきれない罪を犯した。本当にすまなかった」
俗にいう土下座という物だ。もちろんこんなことで許してもらえるとは思っていない。しかしこれをしなくては何も始まらないんだ。桃太郎にケリをつけて、桃原キョウを始めるために。
アタシのそんな姿を見て、鬼珠は何をしようとはしなかった。ただ冷涼に、冷ややかにアタシのことを見つめていた。
「頭を上げよ、桃太郎。お前は今償えない罪を犯したと言ったな。当然じゃ。お前の罪は償えきれず、いくら転生しようとその罪からは逃れられぬぞ」
鬼の言葉がアタシに容赦なく突き刺さる。アタシはそれを耐えるしかなかった。
「泥水にいくら水を加えようとそれは泥水に過ぎず、人はそれを飲むことは出来ぬ。……お前が犯した罪はたった一つ、とある鬼を壊したことじゃ。しかしそいつを壊したことは、数えきれないほどの鬼を悲しませることになった」
そう、アタシが実際に壊したのはたった一人だ。
アタシはそいつを忘れないし、この島にいる全員も忘れることはないだろう。
――――たった一人、茨木童子という存在を。
「立ち去れ。お前の罪を償う方法はない。金太郎たちのお陰で人間への恐怖はだいぶ薄れたが、それでもまだ消えぬ。またお前を殺したいと思っているものもまだいることは事実。早く立ち去って、己の巣へ帰るがよい。それが儂たちにとって最も良い道じゃ」
触らぬ神に祟りなし、ということか……。そりゃそうか。この爺だって変な騒ぎを起こしたくないもんな。
アタシは桃花を手に取ると、ゆっくり立ち上がった。
「……犬、帰るぞ」
「えっ……よろしいのですか?」
「いい。たった一日で償える罪とは思っていない。……じゃあな、鬼珠。また来る」
桃太郎はそう言い残してその部屋から立ち去って行った。ピンと張りつめた空気は消え去り、ようやく鬼珠は一息つくことができた。
鬼種は椅子の背に身を預け、ポツリと呟いた。
「はっ、忌々しいことをいうもんだ。老人のいうことは聞くべきなのにの……」
茨木童子を亡き者にした罪は重い。だから変な意地は張ることなく奴は来るべきではなかったのだ。
――――でなければ、あの童子は爆発しないというのに……。
鬼珠は本日何回目か分からないため息をついた。
▽ ▽ ▽
「うー……」
この日、幽鬼童子は朝から不機嫌だった。
別になんという日でもない。空はどんよりと曇り確かに気分は落ちこむ日ではあるが、いつもと代わり映えしない普通の日であるはずだ。
しかし、何故だろうか。自分の気分が優れず、何かに押し潰される様な感覚があるのは確かだ。一体何があるというのか、それが分からないことがさらに幽鬼の不機嫌さを加速させていた。
「どうしたの、ユウちゃん? そんな唸り声を上げて……。栄鬼君がいないことがそんなに不満なのかしら?」
「煩い! 栄鬼は関係ないやい!」
「はいはい。そういうことにしときましょ」
そういう幽鬼を担当するのは決まって彼女、妖鬼であった。彼女は母性的な笑みを浮かべて、幽鬼の隣を歩いている。幽鬼が何を怒鳴ろうが、何を言おうが彼女は笑って応えるだけであった。そういう寛容さが、幽鬼のお守りという最も難しい仕事を任されている所以なのかもしれない。
事実彼女といることで、幽鬼のイライラも少しは収まっていた。もし彼女がいなければとっくに爆発していたことだろうに……。
「なあ、よっちゃん。今日誰か来ているのか?」
「いや……そんなことは聞いてはいないけど。あっ、怪鬼なら何か知っているかもよ。ほら、あの人フットワーク軽いし」
幽鬼があからさまに嫌そうな顔をする。
怪鬼、というのは彼女らの同僚でとにかく謎という言葉が似合う女性であった。いつも図書館にいるくせに、自分たちの弱みは握っていて、さらには同僚の中で唯一の既婚者。
感情がストレートな幽鬼にとって、謎な彼女は最も苦手とする人物であった。
幽鬼はイライラをため込んだまま、塔の窓から外を見やった。
「どう考えてもおかしい……。こんなに圧迫されたことなんかないのに。誰か他の誰かが来ているとしか思え――――」
幽鬼が止まった。
ある存在を見てしまったからだ。幽鬼はその人間と十三年も前から会いたかった。会いたくて、会いたくて殺したいほどに。
ああ、血液が逆流してしまいそうだ。震える右手を抑えながら幽鬼は聞いた。
「どうしたの、ユウちゃん?」
「―――――おい、妖鬼。あれ誰だか分かるか?」
「えっ、誰ってどこに――――まさか、そんな……」
妖鬼もその存在に気付いたようだ。
当然だ。鬼である者ならば忘れるわけもない。死に装束を思わせる白い着物、肩口に短く切りそろえられ漆黒の髪、そしてそれよりも黒いその日本刀。……かつて鬼ヶ島を侵略した憎き存在、そして――――。
「現れたか、我が仇敵。ふふっ、本当ならすぐにでも会いに行きたかったんだけどな。でもいいさ……お前が来てくれたんだからな」
「っ! ダメ、ユウちゃん、復讐なんかしちゃ! 貴方あの時約束したじゃない。復讐なんかしない――――」
「――――黙れ!」
縋り付く妖鬼を容赦なく投げ捨てる。壁に叩きつけられた彼女を心配するようでもなく、ただ目標はただ一つ。冷酷なまでにその目標を見ていた。
「今、会いに行くからな、桃太郎。―――――鬼闘術・白」
幽鬼は左手で空を握る。
この塔は、鬼の長老である鬼珠の結界が張られているはずだ。並みの攻撃では傷がつくことすらない。そんな長老の自慢の結界が、この幽鬼の手によって容易く破られた。当然だ。こんな結界で、幽鬼童子を止めることが出来やしない。
「くっく……あはっはっはっはっは!」
幽鬼は笑いながらその穴から飛び去っていく。楽しそうに、愉快そうに。幽鬼の姿が消えると、ハッと我に返った。
「……いけない。栄鬼を呼んでこないと」
彼女を止められるのは彼しかいない。幽鬼のことを誰よりも分かり、同じ童子の名を持つ彼しか……。