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第四章・第四話:アンタの体って温かいのね

「よし、今日の稽古はここまでとする。夕食まで好きに――――」

「それでは遊んできまーす!」

「……」


父の声がかかると同時に金太郎は駆け出して行った。その速さと言えば、今までの稽古を遥かに上回るもので、公時はその様子を呆然と見ていた。


「なあ、金剛。金太郎は毎日毎日どこに行っておるのだ? 稽古が終わればすぐに駆けだして……あんなに元気なら稽古の量を増やそうか……」

「やめてくださいよ、父上。金太郎にも都合というのがあるのですから」

「都合? 都合とは如何に?」

「“逢引”ですよ。父上」

「……ああ、なるほど……」


公時は得心いった。

そういえば何カ月か前に金太郎に許嫁を決めたのであった。その少女の名前は楓といったはずだ。なるほど、愛の力は素晴らしい、と公時は思った。


「あの楓っていう子と出会ってから金太郎は変わったんです。どんなに厳しい稽古でも泣かなくなり、それに他人と違うという劣等感がなくなった。彼女のお陰ですよ。それにアイツももう十歳。一人で物事を決められます」

「うむ……そうであるか」

「……父上。いくら寂しいからといって稽古は増やさないでくださいよ」


公時の体がピクッと動いた。


「バカ者! そんなことするわけなかろう! ……金剛、私は少し部屋に籠る。少し調べ物があった。その間の稽古、お前に任せたぞ」

「はい。……食事はどうされますか?」

「いらん。三日ばかり籠るが、その間誰も私の部屋に近づけるなよ。それじゃあ、頼んだぞ」


そう言って公時は立ち去っていく。その背中をずっと目で追いながら、父が部屋に入ったことを確認した瞬間、金剛は叫びだした。


「ヤッホー! 鬼の居ぬ間の洗濯だ! おーい、皆。サバゲの準備だ――――」


坂田家次期当主、坂田金剛。真面目で器もある彼の唯一残念なところは、この常軌を逸脱したサバゲ大好き人間であること。これさえなければなあ、と分家の者どもは常日ごろから思うのであった……。


▽      ▽        ▽


そのころ一方、金太郎は走っていた。今日はいつもより遅くなってしまった。楓を待たすわけにはいかない。

金太郎は険しい山道を難なく走り抜け、ようやくそこに着いた。夕日が奇麗な楓との秘密の場所。息を少し整えてから、金太郎は楓を呼んだ。


「お~い、楓!」


返事はない。

不審に思って、辺りを見渡すとようやく彼女を見つけた。楓は夕日に背を向け蹲っていた。


「おい、楓。こんなところにうずくまってどうした? 何か辛いことでも――――」

「――――……いで」

「ん? なんて言ったの?」

「来ないで!」


楓の荒げた声に金太郎は驚いた。彼女は怒るにしても、泣くとしてもこんな声など聞いたことがなかったからだ。

苦しそうに、辛そうにしている彼女を見て金太郎も悲しくなった。しかし何故か足が動かなかった。


「う、ぐぐ……」

「ど、どうしたの? どこか体が――――」

「――――ぐ、グアアアアアアアア――――――!!」


彼女の体が蠢いた。

まるで寄生虫に喰い破られたかの様に彼女の皮膚は黒く染まり、まるで銀色のようだった彼女の髪は荒んだ灰色へと変わる。爪は長く、牙も現れ、体も一回り大きくなっただろうか。どれにせよ、もはや人間の面影はない。

金太郎は目の前のそれが何か、本能で分かっていた。


「な、何で、楓が、魔に……」

「――――――!!」


声にならない叫び声を上げ、こちらに向かってくる。その姿は獲物を捕える肉食獣のよう、さながら熊と言ったところか。

金太郎はその姿を見て動けなかった。速いがその直線的な攻撃を目で捉えながらも、体が言うことを聞かなかった。ただ呆然とするしかなかった。


「くっ……」


爪で皮膚が抉られた。血が滲みだし、あまりの痛さで地に膝をついた。しかしそれ以上に絶望が彼を追い込んだ。

間違いなく次の攻撃でやられる、そうは思いながらも金太郎は動けない。恐怖や畏怖ではなく、ただ絶望によって。

金太郎はその光景を見たくなくて目を閉じた。後に来るのは自分の首がもぎとられるであろう痛み。それを覚悟していたのだが、いつまでたってもその痛みが伝わってこない。

金太郎は恐る恐る目を開けると、そこには化け物が、目の前で止まっていた。


「……止まった?」


金太郎がそう呟くと、化け物の体がまた蠢き始めた。

また変化するのか、と思っていたが、その予想は裏切られた。化け物は本来在るべき大きさに戻り、異形の部位は縮小していく。

全てが終わった時、残ったのは倒れこんでいる少女の姿だけであった。


「か、楓――――!」


金太郎は楓に駆けよった。幸いにもまだ息はある。金太郎は楓を背負い、急いで家まで走って行った。涙がこぼれそうになる目を必死に拭いながら。


▽       ▽         ▽


「魔染病ですね」

「魔染、病? ……」


医者からそう告げられた楓の病名は聞いたことのないものだった。


「はい。退魔師や魔術師の方にだけ見られる病気です。魔力は本来人間には備わっていない力。いわば不必要な毒です。少なければ命には問題ありませんが、魔力を多く保有している人間はその全ての魔力を回路によって正常に動かして命が汚染されないように生きています。ただこの魔染病にかかると、体のどこかの回路が切れてしまうのです。そうして漏れ出した魔力が命を汚染しているのです」

「それで、楓は助かるんですか!?」

「……この病気にかかったものは99パーセント死にます。そして後の1パーセントは……魔になります」

『っ!?』


医者の口からゆっくりと発せられた事実は、金太郎の希望を断つには十分であった。


「魔力に汚染された命が何らかの原因で変革、進化し、より優れた命を望むようになります。人間よりはるかに強靭ですからね、魔の命というのは。そして、先程の証言……金太郎様の証言から判断して、間違いなくこの子は魔になります」


そんな言葉信じたくはなかった。

今別室で安らかに眠っている楓が、あんな醜いものになるなんて考えたくはなかった。しかし、自分の見た光景は紛れもない魔。信じないという方が無理だ……。

金太郎の中を様々な思いが交錯している時、もう一人絶望にうちひしがれている男がいた。それは金太郎もよく知る、楓の父であった。


「そ、そんな……。娘は、娘はどうにかならんのですか?」

「無理ですね。今こうして眠っているだけでも奇跡なんです。一度魔に反転したものがまた人間に戻るなんて聞いたことがありませんよ。今は人間です。それでも、また近いうちに反転するでしょう。おそらく今度は戻れないでしょうね。……では失礼します。今回ばかりはお手上げですよ」


医者は逃げるように立ち去って行った。

障子がトンっとハッキリした音と共に閉められると同時に、分家の者どもが騒ぎだした。もちろん、議題は楓のことである。


「それで、どうするのだ? 楓の件は……」

「今までこんな事例なかったからな……。何故こんな時に公時様はいらっしゃらないのだ」

「金剛様。公時様は何処へ?」

「……父上は今自室で籠っておられる。絶対に入るな、ということだ」


腕を組み今まで会議を傍観していた金剛が立ち上がる。その顔は軍事オタクとしての顔ではなく、坂田家次期当主の顔であった。


「父上がいない今、俺の意見を無理に通すことは出来ぬ。ここは皆の意見を聞こうと思うが、それでよいな? ……それと熊谷、お前の意見は受け付けぬぞ」

「……はい。承知しております」


楓の父が皆から一歩下がる。公平さのためには仕方ないことだ。

金剛は皆に問いかける。

「では、反転した楓を処罰するということに―――――」

「――――ちょっと待って、兄さん」


金剛は初めてしまった、と思った。まだ公平さを乱すものが一人いたのではないか。


「何だ、金太郎? 何か意見か?」

「うん。楓は僕が救うよ」


金剛は思わず出そうになるため息をグッと堪えた。


「……金太郎、確かにお前は楓の許嫁だが、この問題は坂田家全体の問題。お前一人だけの我侭は通らんぞ」

「……それでも僕は楓を救う」


金太郎は金剛を睨みつける。

この時、金剛は初めて弟から拒絶というものを受けた。今まで自分についてくるばかりの金太郎が自分を拒絶した。それは兄としては嬉しいが、坂田としては面倒な、複雑な気持ちにさせた。


「あの時、楓は僕を救ってくれた。どん底で、ただただ沈むだけの僕に手を差し伸べてくれたんだ。あの日から僕は変わった。楓のお陰なんだ。……今度は僕の番。僕が彼女を救うんだ!」


金太郎に圧倒されかけている時、金剛は一人手が挙がっているのを見た。少し、助かったと思った。


「何だ、稲穂? お前も意見があるのか?」


相馬稲穂そうまいなほ。坂田分家の相馬家で、若くして当主となった優秀な退魔師である。金剛はその腕を見込んで仕事を頼むことがあるのだが、自己顕示欲が強く、少々傲慢な男であった。

深々とお辞儀するその様はなんとも演技くさく、大袈裟に問いかけるように喋りだした。


「はい。恐れながら申し上げますと、金太郎さまはまだ子供。いくら宗家の人間だとはいえ、一人の人間を救うだけの度量が備わっているのか疑問でございます」

「……」

「確かにな。お前の意見は正しい」


稲穂の言葉は否定することは誰にも出来ず、金剛は頷いた。


「それにどのようにして病魔と闘うのか甚だ疑問がありますな。所詮は子供、発想が幼児くさい。気合いでどうにかなるものではないのですよ。やはりここは楓を処刑した方が―――――」

「―――――煩いぞ、お前」


稲穂の動きが止まった。


「今何と? 金太郎様」

「俺は煩いと言ったんだ、稲穂」


稲穂はいつも金太郎を見て思っていた。

――――あんな人間より俺の方が上だ。

いつも泣いてばかりで異端の金太郎。稲穂はいつもそれを見下していた。

しかし今はどうだろうか。今自分の目の前にいるのはそんな弱い金太郎ではなく、坂田家宗家の血を引いた退魔師。紛れもない、純粋な力に稲穂の足は自然と震えていた。


「俺が楓を救うと言ったんだ。それは誰にも変えることはできない。部外者は引っ込め!」

「は、はひ!」

「いいな、お前ら。今後一切楓のことで俺に意見を出そうとするな。もし口出しした時は、その時は間違いなくお前たちを、殺してやる……」


稲穂の恐怖は他のものにも伝わった。在る者は金太郎から眼をそらし、在る者は前にいるものの背中に隠れている。

金剛はこの事態に収拾をつけるために言う。


「……と、言うことらしい。楓のことは金太郎が面倒をみる。これでいいな。……それでは、解散」


その言葉とともに分家の者どもは蜘蛛の子を散らすように去って行った。特に稲穂は真っ先に部屋から出ていき、どこかの壁にぶつかった音がした。

金剛は今まで溜めに溜めた息を大きく吐き出し、隣にいる問題児に問いかけた。


「……おい、金太郎。どうするつもりだ?」

「別に。さっき言ったことは変わらないよ。でも兄さんと姉さんには迷惑かけるかもしれないな」

「もう迷惑かけられとるわ……」

「別に私はいいわよ。楓ちゃんのお世話、手伝うわ」


今まで鬼のような形相だった金太郎の顔が少し柔らいだ。


「ありがとう。姉さん。……ちょっと楓を見てくるよ」


金太郎はゆっくりと部屋から立ち去り、蓮華もそれについていく。ただ一人残された金剛は呆然と呟いた。


「あのバカ……親父にそっくりじゃねえか……」


▽       ▽         ▽


11月13日:この日より楓の治療を開始。楓の部屋には宗家の人間以外誰にも近づけさせず、金太郎と蓮華のみで世話をすることとする。

11月15日:父、坂田公時事情を聴く。金剛と蓮華の説得により、楓の件は了承。この日よりまた公時は部屋に籠り始める。

11月21日:楓が目を覚ます。医者から絶対安静と言われているので、まだ起き上がれず。

12月1日:医者からの助言で、魔力を感知できる人間がいれば溢れ出る魔力を止められるかもしれないと聞く。この日より、魔術師の捜索、また金太郎の修行が始まる。

12月24日:金太郎、魔力の吸引に成功する。またこの時の試験体、金剛は魔力の吸引のされすぎで倒れる。

1月17日:第一次魔力吸引。楓の中に残留する魔力の10パーセントを回収。

2月3日:何故か今年より豆まきを禁止になる。

2月26日:第二次魔力吸引。楓の中に残留する魔力の26パーセントを回収。

3月3日:金太郎の誕生日。この日から楓が起き上がることが許される。

3月29日:第三次魔力吸引。楓の中に残留する魔力の40パーセントを回収。

4月15日;第四次魔力吸引。楓の中に残留する魔力の58パーセントを回収。

5月4日:第五次魔力吸引。楓の中に残留する魔力の78パーセントを回収。この日から楓の魔力回路の傷が奇跡的にふさがり始める。

6月7日:第六次魔力吸引楓の中に残留する魔力の90パーセントを回収。

6月18日:魔力回路の傷が完全回復する。

7月7日:全ての魔力が回収完了。念のために体を動かさず、安静を保つ。

8月14日:楓リハビリ開始。


そして10月10日……。


▽       ▽         ▽


「楓、本当に外に出るのか?」

「当然よ。こんな秋晴れ、外に出ない方が失礼ってもんだわ」

「……誰に失礼なんだ?」


金太郎は呆れた表情を浮かべながら笑っている。走り回る楓を見失わないために、その背中を追いかけて行った。

結論から言うと楓は魔染病から回復した。全力疾走や魔力の使用などいくつかの制約はあるが、日常生活には問題はない。リハビリも順調に進み、ようやく今日外出許可が出たのであった。


「まだ医者からあまり動き回らないようにって言われているんだろ? そんなに走りまわっちゃダメだって」

「だって久しぶりに機嫌がいいのだもの。寝てばかりで力が有り余っていたからちょうどいいわ!」


楓はクルクルと回り始める。本当に楽しそうに、嬉しそうにはしゃいでいる彼女の姿を見て、金太郎も胸から何かが込み上げてきそうだった。


「キンタ、私あそこに行きたい!」

「あそこ? ……ああ。あそこね。でも今のお前の体力じゃ少々きついと思うが……」

「大丈夫よ。私が倒れそうになったらキンタが助けてくれるんでしょ」

「……ああ。そうだったな。じゃあ行くか!」

「うん!」


二人の言うあそことは、もちろんあの崖のことである。

山を下り岩を越え森を抜けてようやくたどり着くその崖。そして、二人が初めて出会った場所……。


「ここは変わらないわね! ああ、やっぱりここに来ると落ち着くわね」

「あんまりはしゃぐなよ。何かあったら困るのは俺なんだからな」

「大丈夫よ。しばらくは景色を眺めているから」


そう言って楓は静かに腰を下ろす。金太郎もその隣に座り、空を眺めていた。

――――じきに日が沈む。


「ねえ、キンタ……」

「ん? どうした?」

「どうして自分のことを俺って言うようになったの?」


金太郎はその質問にすぐに答えられなかった。以前は僕と言っていたはずの金太郎、そんな彼が何故俺と言い始めるようになったか。

それはいつも俺と言った方が強そうに思えたからだ。そして何故強くなりたいからというと……。

――――楓を守りたかったから。


「な、なんとなくだよ。なんとなく。ただ兄さんが使っているのを真似しただけだ!」

「ええ? 本当かな?」

「ほ、本当だ! 他意はないぞ!」


これでは本当のことを言っているようなものではないか、と金太郎は後悔していた。そしてきっとそのことを言及されるのだろうと身構えていた。

しかし楓は何も言ってこない。ただ微笑んでこちらを見るばかりであった。


「楓……どうした?」

「……キンタ。私今まで言ってなかったけど、結構なロマンチストなの」


首をかしげる金太郎を見て楓が少し笑う。


「お姫様には白馬に乗った王子様が迎えに来てくれる。囚われのお嬢様は忠実な騎士に助けられる。そういうことを思っちゃう女の子なの。そして……それらに憧れたわ」

「……」

「だから私はあの頃毎日ここに通っていたの。ここから見える夕日を一緒に眺めてくれる素敵な人がいつかきっと現れることを待ち望んでいたわ。そしてアンタが現れた」


金太郎は黙って聞き入るしかなかった。


「最初アンタを見たとき、なんてひ弱な男と思ったわ。軟弱そうで、すぐ泣きそうだし、私より弱そうだったし」

「悪かったな。そんな俺が現れて……」

「フフ……だからすぐに追い返そうとした。少し強く出れば、すぐに言うことを聞くと思ってた。でも違った。アンタは私に反発してきたわ。その時私は何か起こりそうな予感がしたの。そこからはアンタも知る通り、毎日毎日喧嘩をしたわね」


楓は金太郎から目をそらし夕日を見る。今にも落ちそうな日の光はいつもはとても奇麗と思っているのに、何故か今日だけはとても切ないものに思えた。


「あの時は楽しかった。アンタと喧嘩した後に見る夕日はとても奇麗だった。また見ることができるなんて思ってもいなかったわ。ありがとう、キンタ」


楓の微笑みを見て、金太郎の口は自然と動いていた。


「何かあったのか、楓……?」

「ん? 何が?」

「とぼけんなよ。何年一緒にいると思ってんだ? お前は俺に礼なんか言う奴じゃねえだろ」

「フフ……やっぱりキンタには隠し事ができないわね」


楓は立ち上がる。夕日に照らされる彼女の姿は、彼女を初めて見た凛とした強さではなく儚さを感じさせるもの。そしてその彼女の口から紡ぎだされるのは衝撃的な言葉。


「私死ぬわ。多分、今日中には」


時が止まった気がした。


「……はっ?」

「だから死ぬの。私」

「どうしてだよ……。魔染病は治ったんじゃねえのかよ!?」


楓の魔染病は治った。医師からそう言われたし、治療した自分もそう確信していた。楓はこれから回復していき、また一緒にこうして遊べると思っていた。なのに何故……。

日は完全に落ちたらしい。辺りは真っ暗になった。


「確かに魔染病は治ったわ。汚染されることもなくなった。でもね。私を犯そうとしている奴がまだいたの」

「だ、誰だよ? 誰なんだ!?」

「私」


またもやの衝撃に金太郎は息をのんだ。


「魔という遥かに強靭な命に魅せられてしまった私は、それを望むような別の人格が誕生した。それは魔染病よりはるかに遅いけれど、確実に私を蝕んでいった。今もこうして話している間もね……。そして今、アンタを殺したいとまで思っている」


楓は隠していた自分の右手を見せる。その腕の色は黒、爪は長く恐ろしいというよりおぞましい。あの時金太郎が見た魔の腕と同じものだった。


「その腕は……」

「魔になりかけている証拠。魔になりたいという私はどんどん私を侵食していった結果がこれよ。そして私はそんな私を殺し続けていた」


そう言って楓はナイフを取り出す。そして楓は自分の反転した右手をナイフで切り落とした。黒色のそれは地に落ちたと同時に消え失せ、跡形もなくなった。


「っ!?」

「驚かなくていいわ。数日すればまた生えてくるんだから……。こうやってアンタ達に見られないように殺し続けていたの。……でももう限界。どんどん膨れ上がったその願望を殺すのが間に合わなくなってきたの。いつ魔になってもおかしくないほどにね」

「そんな……嘘だ……」

「だから私は自分を殺す。魔になんて制覇されない。私は人として、死ぬ」

「ちょっと待て、楓! 早まるなよ。まだ何か方法があるかもしれねえじゃねえか! 諦めんなよ! 今まで我慢できたんだから絶対に―――――」

「―――――ごめんね。キンタ。早まるんじゃなくて、遅すぎたのよ」


楓の口から何かがこぼれおちる。それは真っ暗な闇の中でも分かるほどの鮮やかな赤色――――楓の血だった。


「これで……ようやく、終わり……」

「楓! 今助けを―――――」


楓は金太郎を引き留めた。


「そんな、ことより抱きしめてよ。キンタ。さっきも言ったとおり私はロマンチストなのよ。愛しの男の中で死ねるなんてロマンチックじゃないの」

「楓……」

「早くしなさい、キンタ! いつも我侭を聞いてくれたじゃない!」


少し戸惑ったが、金太郎は彼女の言うとおり抱きしめた。

初めて抱きしめた彼女の感触は、予想以上に柔らかくて小さくて、そして冷たかった。


「アンタの体って温かいのね……。今まで気づきもしなかった。……キンタ、アンタは私を―――――」


その言葉は最後まで紡がれなかった。楓は笑いながら、金太郎の腕の中で果てていった。


「あ、ああ……」


金太郎は楓の体を力いっぱい抱きしめる。彼の口から漏れるのはただ嗚咽のみ。暗くなった空に向けて彼は吠えた。


「楓―――――!」


……その後のことはよく覚えていない。どうやって帰ったのか、楓をどうやって供養したのかさえ。

しかし一つだけ分かっていることがある。楓の異変にもっと早く気づいていればこんな悲劇は起こらなかったのだ。ただ自分の都合だけで楓は苦しんでいたのだ。

楓を殺したのは自分。もう誰かが死ぬところなど見たくない。だから自分は強くならなくちゃいけないんだ。皆を助けられる、強い人間へと……。






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