閑話休題:我が名は犬である、名などもうない~後編~
これはほんの十二年ほど前の記憶……。
「百十一! 百十二! 百十三! ……」
辺り一面草原、まるで海さえ思い出させるようなその平原に一人の少年がいた。
その少年がその体に似つかない木刀を振り下ろしている。一心不乱に、ただ真っ直ぐに刀だけを見つめ何度も何度も振り下ろしていた。
まだ年端もいかないようなこの少年が何故このようなことをしているのか、それは彼の主人のせいに他ならなかった。
「ふわあ……。よく寝たわ……」
「桃太郎様!」
木にもたれかけ、先程まで眠っていたこの少女こそが彼の主人、桃太郎。男の名前だが性別は女。拾われた先の気紛れによってこの名前が名づけられたこの少女もようやく歳が十五になったばかりで、この少年とあまり歳は離れていないように見えた。
「お前はいつでも頑張るな……。そんなに気負いしているといつか壊れちまうぞ」
「大丈夫です! 僕はまだまだやれます!」
「ふ~ん……」
再び刀をふり始めた少年を見て、桃太郎がポツリと疑問を投げかけた。
「なあ、お前の“最強”って何だ?」
「えっ……?」
「お前にとっての“最強”。お前が思い描く強さと考えてくれてもいいぞ」
それはポツリと、何気なく投げかけられたわりには難しい質問であった。桃太郎は教育を受けてないにしても頭はよい。きっと彼女なりに考えがあるのだろうと思い、少年は自分の最上を答えた。
「僕にとっての強さは……“速さ”です」
「……というと?」
「敵より速く動ければ、敵より反応が早くなれば、敵の攻撃を見切れれば、そうなれば敵に何もさすことなく戦いに勝利することができます。だから僕が極めるのは“速さ”。それが、僕の“最強”です」
桃太郎は何も答えない。その代わりに今までもたれかかっていたその木から離れ、傍に置いてあった日本刀を拾いあげた。
「今日は特別だ。アタシが相手してやろう」
「えっ……?」
「ホラ、どこからでも来い。攻めないと戦いは終わらんぞ」
こんな経験はじめてであった。桃太郎は旅をする間は黙々と歩き続け、暇があれば寝ることに費やすような人間であるからだ。今まで稽古をつけてもらったことなどない。
しかしそれは少年にとって好都合。自分の目標としている人物と戦えるのだ。これほど嬉しいことはない。
少年は木刀を捨て、腰にある日本の真剣を抜く。訓練でさえ、彼らにとっては常に殺し合いだからだ。
「では、参ります……」
「……本当の戦いではそんなこと言っとれんぞ」
桃太郎の小言を耳にしながら、少年の姿が一瞬で消える。
狙うは一撃。そう、首の頸動脈―――――。
「――――もらった!」
「甘え!」
桃太郎はその太刀をかわすと、少年の腹めがけ、力いっぱい拳を振りぬく。少女の力とは思えないその怪力。少年の軽い体は成す術もなく、先程まで桃太郎が寝ていた木に衝突した。
「オラア! 追撃が入るぞ!」
「――――くっ!」
桃太郎は腰にある日本刀を抜く。黒い黒い、夜のように漆黒の日本刀。自分とあまり変わらないはずの背格好をしている桃太郎なのに、何故これほどまでにこの日本刀が似合うのか。例え敵であっても、戦場で見かければふと動きを止めてしまうに違いない。
とにかく、あの刀は真剣。さらに桃太郎の力が加われば間違いなく殺される。
――――と思った時には桃太郎は自分の目の前にいた。
「……速い」
「―――――潰れろ」
容赦なく小年にその漆黒が振り下ろされる。
もうダメか、と少年は目を瞑った。
「……ってそこであきらめんなよ。バカ」
「えっ……?」
少年が目を開くと、目の前には怒った顔の桃太郎。
そして振り向くと先程までこの平原に唯一そびえ立っていた大木が真っ二つに割れていた。これが桃太郎の力か、と思うとゾッとした。殺されるというより、本当に跡形なく潰されていただろう。
「オメエ、最後まで勝負は諦めんなって言ってんだろ? わざわざ大振りにしてやって逃げるチャンス与えてやったのに……これで一回死んでんぞ」
「す、すみません……」
「後な……本当にこれがお前の求めている“最強”か?」
先程までとは打って変わって、桃太郎は少し悲しそうな目で少年を見た。
「お前がさっき言った強さはな。……確かに戦いにおいて重要だが、それは絶対ではねえ。速さだけ追求した奴は、それは確かに強いが同時に弱いということなんだ」
「……」
「もし自分より速い奴が目の前に現れたらどうする? すぐに魔術を遠距離から使える魔術師が敵だったらどうする? お前はそれらに対応できるのか? 死んでから後悔しても遅いんだぞ」
少年は黙るしかなかった。誰よりも、何よりも強さというものにとり憑かれている彼女には何も言い返せなかったからだ。
「求めるならば、“速さ”ではなく“疾さ”を求めろ。誰よりもどんなものより疾さを求めて、最速を目指せ。それが、お前の強さとなるんだ」
「……はい!」
少年の返答に、桃太郎は満足したように笑みを浮かべた。
「よし、じゃあそろそろ出るか。今度はどんな奴に会えるかな?」
少年はその言葉を聞くとすぐに旅の準備をし始める。今度は山を越える。それも迷いの竹林とか言われている物騒な森を通るらしい。
しかしそんなもの彼らにとっては何の障害にもならない。目指すは鬼が島。立ち止まってなどいられないのだから。
少年がせっせと動き回っていると、桃太郎がこんなことを言い出した。
「でもさ。……速さを求めるっていうのもいいもんだよな」
「へっ?」
先程とは真逆の言葉に、少年の口から間抜けな声が漏れる。
「だってさ……もし約束をしていたり、誰か困っていたりしたら、すぐに駆けつけて安心させられるじゃん」
「……そうですね!」
「よし、じゃあ行こうか、犬――――」
▽ ▽ ▽
「――――い、起きろ。もう昼だぞ、犬」
「……?」
我の名を呼ぶ声が聞こえる……。
うっすらと目を開けるとそこにあったのは四つの頭。それは知人の如何にも能天気そうな表情が浮かんでいた。
「おお、やっと起きた。おはよう、犬」
「もう昼だから、こんにちはじゃないかな?」
「いや、待ってください、ウラシマ。今日初めて会った人には“おはようございます”が使えるとどこかの本で読んだことがあります」
「えっ! 本当ですか、鬼丸さん?」
坂田金太郎、鬼丸童子、浦島竜胆、四方院かぐやの四人……。中身も能天気か……。
「……何故こんな場所に?」
「それはこっちのセリフだぜ。ウラシマにケーキ奢ってもらった後にここを通りかかったら、ここでお前が寝ていたんだよ。何やってたんだよ、本当に……」
金太郎は後ろに目を向ける。そこに広がっていたのは魔術により舞い上げられたゴミや箱が散乱としていた。我の髪の毛にもクモの巣が引っ掛かっていて見るも無残である。
……なるほど、確かに只事とは思えないだろうな……。というよりも―――
「――――そうだ……音子、音子は知らないか!?」
「ネコ?」
「私、ネコって嫌いなんですけど」
「違う! 人だ、人。お団子頭の目がクリクリしていて十歳ほどの子供だ!」
こんなところで倒れている場合ではない。早く音子を助けに行かなくてはいけないのだ。
しかし我の問いに答えられるものはここにはいない。知っているはずなどないのだから。
ここまでか……。
「ふ~ん……音子、ねえ」
「何だ? 何か知っているのか、浦島竜胆」
「いやあ。ただうちの社長と仲がとってもよろしいどっかの会社の重役さんの娘さんの名前が確かネコっていう名前だった気がするなあ、って思ってね」
……なるほど、そういうことか。
「お、おい、そんな体でどこに行くんだよ?」
「……無論、音子を迎えに行くのだ」
「ちょっと無理じゃないかなあ? ここに残留する魔力を見るに、敵は魔術師。風に催眠の魔術でも組み込んだのかな。相当強力だね。そんなものをマトモに喰らった君がまだ戦えるとは思えないけどね」
「それでも……我は行かなくてはいけないのだ。約束を、果たすためにな。……浦島竜胆、魔力が把握できるというならば敵の居場所もわかるだろ。教えてくれ」
「あっち」
浦島は端的に東の方を指さす。確かあそこには貿易関連で使われなくなった倉庫がたくさんあるはず……。
今はこのいけすかないニヤニヤ顔に感謝しよう。
「感謝する。では――――」
「ちょっと待ってください」
我を呼びとめたのは四方院かぐや。あまり面識はないはずだが……。
「何だ、小娘? 何か用でもあるのか?」
「……今は特別にその暴言を許してあげましょう。ただ、戦いは気合いで何とかなるものではありませんよ。月光・癒華」
そう小娘が唱えると、金色の光が我を包み込んだ。回復系の魔術か。猿の戦いを見ていても分かったが、なんでもできるのだな、こいつは。
「おお……その技、久しぶりに見ましたね」
「ええ、正直私も忘れていましたよ。確かこの技で、鬼丸さんの怪我を治したんですよね」
「ふふ、いつもありがとうございます。かぐや……」
「鬼丸さん……」
『バカップル爆発しろ!』
鬼丸とかぐやが手を取り合い、互いに見つめあう。残りの輩はそれを見て叫んでいる。
なかなか愉快なメンバーじゃないか……。面白い、それでこそ桃太郎様を倒した奴らだ。
……と、我の傷も完全に癒えたようだ。体が軽い。
「私の女神如きの慈悲深さに感謝しなさい、犬っころ」
「……礼を言うぞ、月姫。では、さらば」
我はすぐさまここから飛び去った。早く行かなくては。
目指すは東、音子のもとへ。
▽ ▽ ▽
(……ここはどこ?)
音子は目を開けるとそこには自分の知らない光景が広がっていた。
散乱する物、無機質な壁、そして厳重な扉。ここがどこだかは分からないが、一つ言えることがあった。
こんなところに一人でいたくない。
ここから出ようとしてもダメ。扉には鍵がかかっているし、何より自分は縄で縛りつけられていることが今分かった。あまりにも孤独で、泣き出しそうになった時に、不意に声をかけられた。
「へへっ。ようやくお目覚めかい。音子お嬢様」
「!」
その声はあまりに下品で、もう二度と聞きたくないような声であった。
「貴方たち……誰なの?」
「単なる賞金稼ぎのですが、何か?」
「賞金稼ぎ……?」
「そう。大金を夢見るしがない賞金稼ぎ共。そんな俺らに捕まっているのさ。藤吉コーポレーション社長、藤吉総一郎の一人娘の音子ちゃんよ」
音子はその名を聞くと、顔をしかめた。
その名前のせいで今まで家族にも、友達にも、仲間にも恵まれなかったのだ。そんな名前などいらなかった。
「あんたが一人で歩いていたら俺らみたいなのに狙われることは分かっていただろう? これはもう必然といってもいいよな。まっ、何人か邪魔が入ったみたいだが」
「そ、そうだ。犬さんは? 犬さんはどこなの!?」
「犬だ? ……そんな奴は知らんが一緒にいた男なら雇った魔術師が始末したらしいぞ」
一瞬で血の気が引いた。
あの犬が死んだという絶望と、自分のせいだという自責の念。その二つが音子を襲い、その幼い精神は今にも壊れそうになっていた。
「へへっ……身代金が届くまでもうちょっとある。その間、少し俺たちと遊ばねえか」
「い、いや……」
「家族と別れたかったんだろ? 俺がいいところ教えてやるよ。お前さん、顔はいいし結構いけると思うぜ……」
呆然とする音子に追撃をかけるように男が近寄ってくる。
気味が悪い……。寒気がする……。こんな奴に手籠めにされることだけは御免だ。
音子は思わず助けを叫んでいた。
「た、助けて、犬さん!」
「だから、そいつは死んだって―――――」
「――――勝手に人を殺すな。このウスラボケ」
その声と同時に厳重に閉まっていたあの重厚な扉が突如断ち切られる。ものすごい轟音とともに現れたのは、白い髪の、まるで感情を感じさせないような眼をしている男。そして、今音子が最も待ち望んでいた人物―――――
「犬さん!」
「悪いな、音子。こんなに遅くなってしまった。お陰でこんな暗い場所に……。さあ、今すぐ帰ろうか」
「おっと、待てよ。お帰りはお一人にしてくれねえかな? まだこいつには用があるんでね。それとも、この人数を相手にするのかい?」
その声と同時に、倉庫のあらゆるところから男たちが湧いて出てくる。なるほど、これだけの人数ならばまさか自分たちが負けるとは思わないだろう。
賞金稼ぎはニタニタ笑いながら犬を促す。
「さあ、お帰りはあちら――――」
「帰るか、音子」
「うん!」
『っ!?』
いつの間にか、犬は入口にいた。先程まで賞金稼ぎが捕まえていた音子を抱えて。
そう、ほんの一瞬だ。自分たちは犬から目をひと時も離さなかったし、第一犬と音子との距離は十数メートル離れている。
賞金稼ぎたちはわけも分からず、ただ叫ぶしかなかった。
「オ、オメエ! い、一体今何やった!?」
「だから帰ろうと……」
「ふざけんじゃねえぞ! 折角の金づるをみすみす見逃すわけねえだろ! 野郎ども、行くぞ!」
『うおおおおお!!』
怒声を上げながら迫りくる男たちを見て、音子は不安げに呟く。
「い、犬さん……大丈夫なの?」
「……安心してろ、音子。我は犬といっても吠えることしかできない負け犬ではない。あの“桃太郎様”の犬だからな」
そういった瞬間、犬の姿が消える。いくら犬でもこの人数を一瞬で倒せるほど器用ではない。だから犬は効率的に戦うことにした。
「俺たちを!」
「踏み台にして!?」
障害物たちを踏み台にして、飛び上がる。狙う目標はただ一人、敵の大将のみ――――
「――――って俺!?」
「当たり前だ。敵の頭を取った方が早いだろ?」
敵の後ろに回り込むと、間髪いれずその首に手刀を叩き入れる。
賞金稼ぎは、うっ……、と言い面白いように気を失い地面に倒れこむ。もう少し頑張れよ、大将、と同情の目線を送りながら犬は立ち上がった。
「さて、後何人――――」
「―――――我に宿りしは風、その力は全てを切り刻む」
「む?」
突如発生する真空の刃がここにいるものすべてに襲いかかる。敵味方問わないその魔法を、犬は最小限の動きでかわしながら音子を抱き抱え、守り抜く。
風が収まった後、残っているのは気絶している大将、犬と音子、そして黒いローブの男だけであった。
「ほう……避けたか。やはり二度も不意打ちをくらうほど間抜けでもないようだな」
「お前……あの時の魔術師か」
「いかにも。魔術師故真名は答えられんが、“the fast”と答えておこう」
魔術師には二つ名、というものがある。人の名前を使ってその人を召喚したり操ったりできる魔術が存在する以上、自分の真名を知られるのは大変危険だからである。故に魔術に関する出来事、研究の際にその二つ名を名乗る。
多くは自分の師である人間から授かるのだが、自分でも名づけることができるらしい。浦島竜胆はその典型だ。奴にもちゃんと二つ名というのが存在するらしいが、師なんてそもそもいないので自分で決めたらしい。
犬は忌々しげにその名前を呟いた。
「the fast(最速)……。なんともけったいな名前をつけたな、魔術師」
「ふん。当然だ。私が極めたのは速さ。風よりも何よりも速い“光”。それが私の本当の魔術だ」
「随分と親切じゃないか。余程己の魔術に自信があると見える。油断しているとガキにも負けるぞ」
「……依頼内容は計画を邪魔するものの排除。故に……お前を排除する」
「――――上等」
両者が対峙する。その距離数十メートル。だが敵が最速と名乗る以上、こんな距離は意味を為さない。敵は魔術師、自分は剣。遠距離戦は不利なのは決定的に明らか。
犬が駆け出した時、魔術師は同時に術を唱え始めた。
「我に宿りしは光、その力は……最速」
「――――む!?」
犬が反応した時はすでに遅かった……。
焼きつくような熱さと衝撃が、反応できなかった犬を襲いかかった。犬の戦い方も速さに頼るもの、防具のない彼にとってこの一撃は致命傷であった。
「い、犬さん……大丈夫!?」
「私の力に及ぶ速さなどこの世には存在しない。小僧、あきらめろ。そんな刀では私には勝てんぞ」
「ふむ……確かに分が悪いな。キョウ様の言うとおりだ……」
昔の出来事を思い出し、苦笑する。あの頃は何も分からないまま速さを求めていた。ただ強くなるために、桃太郎様に少しでも追いつくために。そう、この魔術師と同じように―――――
「……ところで最速。お前はどうして速さを極めたのだ?」
「愚問だな。速きことは強き如し。敵よりも速ければそれだけ強いということだ。」
「―――――はっ!」
犬は笑い出す。笑いながら立ち上がる。笑いながらその日本の刀を手に取る。辺りに犬の笑い声が響きわたる。これでは負けようがない。昔の自分と戦って負けるわけもない……。
「……何を笑っている、小僧?」
「くっくっく……これは失礼。あまりにお前の速さが滑稽だったのでな……。我もな、速さを求めたのだ。何故だと思う?」
「……」
魔術師は答えない。狂人のような笑い方をするこの男の言葉に耳を傾ける必要を感じなかったからだ。
「我はな、“強さ”ではなく“速さ”を求めた愚か者だ。戦士としての強さを捨て、それでも速さを追求した。何故だと思う?」
「……分からん。お前という人間が分からん。強さではなく、速さと? 速きことは強きことだ。それなのに――――」
「――――我が主に仕えるために」
犬は両手に持った刀を構える。
「強くなくとも構わない。ただ主に言われたことだけは最速にこなす。主との約束を確実に果たす。そのためだけに速さを求めたのだ。今ここで証明してやろう。お前の“最速”は我の“最速”に劣ることを」
「戯言を……。我に宿りしは光……その力は最速!」
先程までとは段違いの光が襲いかかる。速さも、威力も今までを上回っている。
―――その光を、犬は紙一重でかわした。
「な、何!?」
「……飼い犬が主に似るとは良く言ったものだ。とうに我は、速さにイカれている」
魔術師の目から犬の姿が消える。今まで、賞金稼ぎと犬の戦いぶりを見ていて一つ分かったことがあった。
――――こいつはそこまで速くない、と。
犬の姿が消えたのは敵の死角に潜り込んだため、または進行方向とは逆に動くことによって敵の視界から消えたことだと魔術師は睨んでいた。
しかし今は違う。気配も、まるでそこには始めから誰もいなかったかのように犬の姿がない。視界から外れたようなこともない。敵が捉えきれない純粋な速さ、犬はそれを体現していた。
「ちっ! プリズム!」
魔術師はその左手を握り締める。すると、その左手から発せられていた光が拡散し、ここにいるもの全てに襲い掛かる。
なるほど、目で捉えきれないから全体攻撃に頼る。最速の誇りも感じられなかった。
「無駄だアアアアア!」
拡散する光を避けるのではなく、逆に向かっていく犬。上空から叫びながら、その刀を自分の前で交差させる。
「ひ、光を切り裂いただと!?」
「だから言っただろう。お前の最速は我に劣る、と。……覚悟はいいな。強くなりたいのならば速さではなく“疾さ”を求めるべきだったな」
「ひっ!」
「疾風、正の陣!」
犬の剣戟が魔術師の光を裂き、その体を捉えた。高速に切り裂かれた五つの刃は犬の最速は“最速”を破ったのだ。
――――しかし殺しはしなかった。全て峰打ちである。
そして魔術師が倒れこんだと同時に、サイレンの音が聞こえてきた。犬はその眉をしかめた。
「……後は警察の方に任せるか。まったく、遅いんじゃないか……」
犬は刀を納め、この場から立ち去ろうとする。国家権力というのは基本的に嫌いだからだ。と、そんな犬を止めるものがいた。もちろん音子である。
「……い、行かないで。まだ帰りたくない……」
「音子……」
「まだ犬さんと別れたくない……。犬さんのところに行きたい……。もう、こんな目に会いたくないから! 犬さんがいればいつでも私のこと守ってくれるんでしょ! だから……だから……」
音子の目から何か輝くものが零れ落ちた。犬はしゃがみこみ、その頭に手を置いて喋りかけた。
「音子……確かに我はお前の味方だ。しかしいつでも、都合のいい時に助けに行けるのほど我も暇ではない。我が桃太郎様に救われたのも偶然。いつでも助けに来てくれる、そんなヒーローみたいな存在はいないのだから」
「……」
「だが、ヒーローはいなくとも絶対にお前を守ってくれる人たちがいる。――――家族というものがな」
「ね~~~こ~~~!」
突然呼ばれた自分の名前に飛び上がった。この声には聞き覚えがある。
「パパ? ママ?」
「大丈夫だったかい、音子? 怪我は? ……ああ、良かった……。お前が怪我でもしていたらと思うと……本当に、本当に良かった……」
「パパ……」
「もう、本当に卒倒しそうで……貴方が無事とわかって本当にホッとしたわ」
「ママ……」
両親に抱きかかえられている音子に、犬は声をかける。
「音子……お前にはまだ家族がいる。お前をいつでも守ってくれる家族がな。我に頼らなくとも、お前は生きていける。ただどうしても厄介事に巻き込まれた時は我を呼べ。誰よりも早くお前を助けてやる」
「犬さん……」
「では、じゃあな」
次の瞬間には犬の姿は見えなかった。きっとあの女の人のところに帰ったのだろう。もう会う機会などないかもしれない。
しかし、きっといつか会えるだろう。音子がその名を呼べば、きっと助けに来てくれる。そう約束したのだから。
――――だから今は、自分達の家に帰ろう。
「さあ、そろそろ私たちも帰ろうか。音子」
「……うん!」
音子は笑って、元気よく頷いた。
▽ ▽ ▽
「随分と遅かったじゃないか、犬」
「キョウ様……」
もう日が暮れかかった頃、キョウ様は桃の木の玄関先で立っておられた。マズイ、待たせていたとしたら大変マズイ。
「すみません。少々厄介事に――――」
「本当に厄介事と思っているのか? 随分とモテるじゃないか? ん?」
「……見ていたのですか?」
我の口から思わずため息が漏れた。
「はあ……見ていたならば助けてくださいよ。魔術師相手にするのはなかなか大変なのですから」
「お前……アタシがあの場に行ったら全員跡形もなく消し飛んでたぞ」
「……やっぱりいいです」
容易にその惨状が想像できて、我は身震いした。
「はあ……今日は早く寝よ」
「おいおい。今日の主役がそんな様子じゃ困るぜ」
「はい?」
「だって今日はオメエの誕生日だろ?」
今日は確か…………あっ。
「本当にバカだな、オメエは。まあいい。とにかくオメエのために祝いの席と特製ケーキを作ってやった。感謝しろよ」
なるほど、あの買い物はそのためのものだったのか。キョウ様は基本的に妥協を許さない。今回もその手と顔を見れば明らかであった。
顔に小麦粉が付いておりますよ……。
「おっ、犬君が帰ってきたのかい? じゃあスピリタス開けちゃおうかなあ?」
「おじいさんや、それは世界最強のお酒じゃよ……」
「ホラ、犬。早く行くぞ。今回のケーキは自信作なんだ。蝋燭もついているぞ」
家の中から愉快そうな声が聞こえてくる。それは我が一度失ったもの。我は急いで家の中に入って行った。
「はい! 今行きます!」
▽ ▽ ▽
「あっ、そうだ。明日鬼ヶ島いくから」
「へっ?」
やっと終わった、犬のお話!
いやあ、本当に犬君には苦戦させられました。何でこんなに書きにくいんだろ、と思うほど苦戦しました。いやあ、本当に完結できてよかった。
というわけで、ウラシマ編は完結です。後一話書いたら新章に入りたいと思います。主役はあの金髪かも……。
ここまで読んでくださいありがとうございました。walterでした。