7 月夜の物思い
天頂に月が昇る頃、蓂抄は自室の窓から空を見上げていた。夜空を照らすその光がいつもより明るい気がしたからだ。そして彼女はすぐに納得した。ああ、今夜は満月だ。
「后妃様。お客様がお見えです」
侍女が厳かな声で報告する。
……ついに来たか。
侍女の声がいつもより浮ついていないことが気にはなったが、蓂抄は窓辺に頬杖をついて外を見つめたまま溜め息混じりに答えた。
「劉藍ならば通さなくともよい」
大体こう言うと侍女達は残念がるのだが、蓂抄としてはそうもいっていられない。以前のように何時間も居座り、自己否定を語られては堪ったものではないのだ。
「いえ、劉藍様ではなく……」
「后妃様、私です」
決めつけてかかった蓂抄に侍女が戸惑っていると、部屋の外から嗄れ声が上がった。
そうか、今日はもう一人来訪者がいてもおかしくはなかった。
蓂抄は、片手を上げて侍女に扉を開けるよう合図をした。
「貴方でしたか、伯濯」
曲がった腰を庇いながら部屋に入って来たのは、総白髪の老爺、伯濯だった。
蓂抄が自分と向かいの椅子を勧めると、伯濯は一礼してそこに腰掛けた。
俯きがちで目を泳がせている彼の様子がいつもと違うことに気が付いた蓂抄は、侍女に言って人払いをさせた。人の気配が完全に感じられなくなってから蓂抄は口を開いた。
「どうしたのです、伯濯。……太子の腕はそんなに酷い状態だったのですか」
悄然とした伯濯の様子に、負傷して帰城した我が子を思い起こした。こうなる可能性があったから、兵士の真似事をするのには反対だったのだ。
「幸い命に別状はありません。しかし右腕はもう動かないでしょうし、当然剣を握ることもできません……。そのことについてなのですが、その……」
「なんです」
歯切れの悪い伯濯に蓂抄が徐々に苛立つ。強い口調で言われると、ついに伯濯は顔を上げた。その表情は硬く、青ざめていた。
「太子が、白凰のことについて私に尋ねてきたのです。后妃様、私は一体どうすれば……」
伯濯はついには頭を抱えてしまった。苦悩する伯濯に対して、蓂抄の方は毅然としていた。
「悩むことはありません。今まで通りでよろしい」
「しかし、太子の腕は……」
「伯濯、私はこういう事態になって悲しいと同時に安心もしているのです。これであの子が武術ばかりでなく、政にも目を向けるようになると」
蓂抄は波紋一つない水面のように静かな調子で語った。
晄黎が剣を振るうたびに、いつも感じていた不安や恐怖から解放されたからだろうか。我が子が重症を負ったにも関わらず、蓂抄は非常に落ち着いていた。
「あの子はとても真っ直ぐで、優しくて、自分のことはいつも二の次にしてしまう。だから取り返しのつかなくなるまえに、戦場から遠ざかってくれるのならば私はそれでいいと思っておる」
「しかしこの乱世において、武勇に優れた君主は必ず必要になりましょう。なにより太子はそれを望んでおいででした」
真っ直ぐに訴えかける伯濯の瞳を正面から受け止めつつも、蓂抄の心が変わることはなかった。
「知っています。あの子は武芸に秀で、それに従事する者達の心を掌握している。顔は私に似たけれど、中身は完全に父親と瓜二つ。だから尚のこと見ていられないのです」
蓂抄はかつての記憶を思い出しそうになってこめかみを押さえる。思い出すには幸せ過ぎて、残酷過ぎる過去だ。記憶の隅にそれを追いやると、蓂抄は詰めていた息を吐き出した。
「貴方も分かっている筈です。あの子は腕が利かずとも政を行える。問題はありません」
「では、陛下はどうなさるのです? 今のままでは……」
蓂抄は持っていた扇を音を立てて閉じた。部屋の中に静寂が訪れると、彼女は静かに言い放った。
「陛下が望まぬことを私達がすることはできません」
「しかしこのままでは病状は悪化するばかり。陛下の体力にも限りがあります」
伯濯は悲痛な面持ちで訴えかけた。
「国一の医官などとは称されておりますが、恥を承知で申し上げます。我々の力ではあれはどうにもなりません」
「言ったはずです。陛下の望まぬことを私達がすることはできないと。もしもそれをできる者がいるとすれば、それは彼女だけです」
伯濯はどうすることもできない自分を歯痒く思っているのだろう。机の上に手を組むと、そこに額をくっつけてなにかを堪えるように目を瞑っていた。
「この話はもう終わりです。なにがあっても陛下のご意思に従う。それは最初に決めたことでしょう。今になって揺らいだりしないで」
にべもなく蓂抄が断ると、結局は諦めた様子で伯濯は深々と頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。……貴女は、お変わりになりましたな」
落ち着きを取り戻した伯濯がほんの少し寂しそうに呟く。蓂抄は窓越しに微笑んだ。しかしその顔には何処か自嘲が含まれている。
「貴方はそのままでいいのですよ。なにも悪いことではないのだから」
伯濯は何かを言おうとして口を開いたが、結局は言葉にならず蓂抄を気遣うように見つめた。
その視線を感じながら、蓂抄はポツリと弱音を吐き出した。
「伯濯、私は母失格なのだろうか」
視線は外へと向けたまま、蓂抄はそう尋ねた。
普通の母親ならば、子が怪我をしたらまず心配をするだろう。側について助けてやるだろう。
だが蓂抄は、晄黎の怪我を都合がいいと感じてしまった。いつからこんなに冷たい人間になったのかと、時々自分が嫌になる。
そんな心の内を知ってか、伯濯は優しく声をかけた。
「全ての愛が、表面上に現れるものばかりではないでしょう。そしてその答えをお持ちなのは、太子お一人だけではありませんかな」
「……そなたの言う通りですね」
蓂抄は晴れた夜空を見上げた。月だけはあの頃となにも変わらず空に輝いている。地上の戦乱など、なにも関係ないとでもいうように。
満月は好きではなかった。
それはいつだって蓂抄の心を遠い過去に連れ去って哀愁を抱かせてしまうから。