6 急襲
「あっ、太子! こっちです、こっち!!」
翠鳴殿を出てすぐ、聞き慣れた声が晄黎を呼び止めた。声の方に視線を向けるとそこには駿栄と劉藍が立っていた。
「無事で何よりだ、駿栄」
駆け寄って来た駿栄が思いのほか元気そうだったので声を掛けると、駿栄はくたびれた顔で後頭部をさすった。
「いやぁ〜、そうでもないですけどね」
言われてみると衣のあちこちが擦り切れているうえに、たんこぶが一つ増えている。
「随分手酷くやられたようだな。頭のそれは稽古中に木刀でも直撃したか?」
「違うんですよ太子! そもそも木刀じゃないんです! あいつ稽古用の武器じゃなくて斬れ味抜群の大刀で斬りかかってきたんですよ! 信じられん大馬鹿モンですよ!!」
「ふん、お前が真面目にやらないから真剣に取り組めるようにしただけだ」
「嘘つけ! 僕を引っ張って行く前『虫の居所が悪い』だのなんだの言ってたじゃんか。完全に憂さ晴らしだろこの鬼畜野郎!」
「うるさい、黙れ。今はそれどころじゃないだろう」
劉藍は険しい表情でぴしゃりと言い放った。
こんなやり取りは見慣れているので、二人の間になにがあったのかは想像に難くない。
晄黎としては城内の喧騒や忙しなく行き交う人々の方が気に掛かった。
「そんなことより、この騒ぎはどうしたんだ?」
「そ、そんなこと!?」
「駿栄、愚痴なら後で聞いてやるから」
渋々といった様子で駿栄が口を閉ざす。ようやく静かになると劉藍が強張った表情で口火を切った。
「景南国軍が国境を守る西の砦、榻鷣に侵攻して来ました。伝令の話では敵総数はおよそ三万。我が方は苦戦を強いられているそうです」
「三万だと!? ……いよいよ本気で攻め入るつもりか」
小国である景南と麓槙はともに総人口は十万に満たない。しかし今回はこれまでの小規模な戦とは異なり、万単位の兵を動かしてきた。どうやら本格的な領土侵攻に乗り出してきたようだ。
「榻鷣の駐屯兵数は八千……。あそこは鉄壁を誇る要塞だ。籠城戦ならそう簡単に落とされることはないだろうが」
実際に建国から二百年。これまでの戦で榻鷣を突破されたことは一度もない。王都楼蘭から榻鷣までは馬の脚で六時間。早馬からの報せが城に到着するまでに既に六時間が経過していたとしても十二時間なら耐えられるだろう。
まだ間に合う。そう思い援軍の指示を出そうとした晄黎だったが険しい表情を崩さない劉藍に胸騒ぎを覚えた。
「太子、榻鷣は籠城せずに討って出ているとのことです」
予想だにしなかった言葉に晄黎は声を失った。数において不利な状況にありながら攻めに転じるなど自殺行為だ。防御力の高い砦と充分な糧食。援軍を待てば数の差とて問題ではなくなる。なにより砦を守るのは歴戦の勇将、孫允だ。戦のなんたるかはよく理解している筈である。それなのに何故。
声には出さずとも晄黎の考えは伝わっていたらしく劉藍は言葉を続けた。
「景南国側は門の前に各地から攫ってきた麓槙の民を並べ、門を開けねば人質を殺すと言ったそうです。十人目の首が刎ねられた時、孫允殿は門を開けたとのことです」
晄黎の脳裏に馬車に押し込まれていた村人の姿が蘇る。景南兵は、この策の為に村人を攫おうとしていたのだ。
「卑劣な! 抵抗出来ない人々を手に掛けるとは許し難い蛮行だ」
腹に据えかねて大声で吐き捨てる。しかし怒りは収まらない。
「劉藍。太宰にはこの一件、既に報告は上がっているのか」
「今頃知らせを受けているかと」
「そうか。なら直ちに兵をまとめて援軍に向かうぞ。脚の速さを優先して騎馬隊のみの編成とする。劉藍は大司馬に事の仔細を知らせて出陣の用意を、駿栄は出立の準備を頼む」
本来であれば軍を動かす権限は王である浩佑しか持たない。しかし浩佑の病状が悪化し昏睡状態になってからは、王太子である晄黎に統帥権が委任されていた。とはいえ出兵ともなれば官吏の長である太宰を含め、有力諸官との協議および承認が必要になる。
しかし今は一分一秒が惜しい。後でとやかく言われるだろうが、官を招集している時間はなかった。
「あの〜太子? 援軍を出すのは勿論なんですけど、策はあるんですか? 相手は三万もいて、既に砦は包囲されてる。どうやってその壁を突破して味方の救援を?」
「策ならあるさ。だがそれをここで話している暇はない。道中説明するから心配するな」
そう言ってさっそく支度に取り掛かろとした矢先、それまで横で黙って話を聞いていた伯濯が強く衣の袖を引いた。
「太子! なりませんぞ。安静になさってくだされ」
「しかし伯濯、聞いていたならわかるだろう。榻鷣が落ちれば奴らはもう目と鼻の先、国家存亡の危機なんだ」
子泣き爺のように腕に引っ付いて離れない伯濯に困惑しながらも、晄黎は事の重大さを説いた。
「太子こそ、私が先ほど申し上げたことをもうお忘れになったのですか。なにも貴方が行く必要はないでしょう」
「……っ、だが!」
「伯濯先生、どういうことです? 太子の腕はそんなに酷いのですか?」
鬼気迫る伯濯の様子に劉藍は訝しげな表情を浮かべて問いかけた。腕のことを知ったら、劉藍は必ず自らを責めるだろう。自分が側にいながら太子に怪我を負わせた、と。そうならないように晄黎は慌てて口を挟んだ。
「なんでもない、見た目が酷いからこう言っているだけで大したことはないんだ」
「太子! 二人にまで黙っておくおつもりですか! 貴方にとって彼らはその程度の存在なのですか?」
伯濯に叱咤され晄黎は言葉を詰まらせた。
「……そうではない。大切だからこそ、これ以上心配を掛けたくないんだ」
晄黎は俯きがちに呟いた。だが隠さなければと思うのと同じくらい、本当のことを言わなければという気持ちもある。ここで嘘をついてやり過ごしたとして、本当のことを知った時に二人はどう思うだろうか。
嘘を吐かれた、信頼されていない。自分が逆の立場だったら、そう感じるかもしれない。
ここで押し問答をしている猶予はない。
──ああ、もう。
弱い自分を曝け出すことがこんなに勇気がいるものだとは思わなかった。晄黎は意を決して息を吸い込んだ。
「右腕は自分の意思で動かせなくなるそうだ。もう剣を手に前線で民を守ることは叶わないかもしれない」
晄黎は悲壮感を感じさせないようにできるだけ平然とした口調で語った。四人の間に沈黙が降りる。景南国侵攻の報に騒ぎ立てる声がどこか遠くに聞こえた。
目の前の劉藍の顔からみるみるうちに血の気が引いていく。形のいい唇が戦慄き瞳が揺れ動く様子は、下手をすると晄黎本人が最初に診断を受けた時よりも衝撃が大きいかもしれない。
それは駿栄も同様で、言葉もなく呆然と立ち尽くしていた。
この緊急時に言うべきではなかったのかもしれない。
そう思いかけた時、劉藍と目が合った。つい先程まであった動揺や悲観は消え失せ、ただ真っ直ぐに晄黎を見つめていた。
「太子。私は貴方が武芸によってこの城内に居場所を築いていくのを一番近くで見てきました。苦しい鍛錬を積んできたことも、剣を手に民を守ることに誇りを持っていることも知っています。それでも」
劉藍は目を瞑ると一つ息を吸い込んだ。それは気持ちを落ち着けているようにも、さまざまな感情を飲み下そうとしているようにも映った。
「どうか、楼蘭にお留まりください」
そう言って目の前で頭を下げる劉藍の姿に、今度は晄黎の方が言葉を失くした。
腕の状態を知れば劉藍は平静でいられなくなる。そう決めつけてすぐに露見するような嘘を吐こうとした。しかし実際は色々な感情を押し込めながら、劉藍は臣下として正しいことを進言した。
本当は晄黎にもわかっていた。自分が行ったところで足手まといにしかならないことは。
晄黎は最も信頼していた者を信じることができず、剣に執着し意固地になっていた自分を恥じた。
「お前はもっと取り乱すと思っていた」
「私には太子が今どんな気持ちでこのことを打ち明けて下さったのかがわかります。太子の気持ちを差し置いて、どうして私が無様に慌てふためくことができましょう」
罰の悪い顔で晄黎が言うと、劉藍はそう言って顔を上げた。その目は心外だと言わんがばかりに強い光を宿していた。
「わかった、ここに残る。だが劉藍、駿栄。二人は榻鷣に向かってくれ。優秀な戦力は一人でも多い方がいい」
「えぇ!? それじゃあ負傷した太子のことは誰がお守りするんです! 俺か劉藍のどっちかは残るべきじゃないですか?」
「城の守りは援軍に編成しない歩兵を残す。今一番兵力が必要なのは榻鷣だ。ここじゃない」
そう言われればそうかもしれないが、とでも言いたげな顔で駿栄は唸った。
「行ってくれるな、二人とも」
「太子がそうおっしゃるなら」
「……承知致しました」
言葉とは裏腹に二人の表情は納得しているとは言い難いものだった。しかし晄黎は素知らぬふりをして頷いた。
二人は最初の指示通り各署へ向けて走り出した。
城に残ることになったとはいえ、晄黎にもやらねばならぬことは山積している。まずは道中に説明する予定だった作戦をまとめておこう。そう思って二人に背を向けた矢先、駿栄が大声を上げた。
「おいおいおい劉藍! 大司馬がいる黒朧殿はそっちじゃないだろ。どこ行くんだ」
振り返ると、呼び止められた劉藍がハッとした表情で回れ右をしているところだった。それから数歩行ったところで盛り上がった段差に蹴躓くと、片膝をついた。
明らかに気が動転している。
「りゅ、劉藍……?」
返事はない。代わりに駿栄が戻ってきて目の前で手を挙げた。
「はい」
「なんだ駿栄」
「こんな調子の劉藍を連れてったって、なんていうか、士気に関わります。あんなこと言ってましたけど、太子のことになるとすぐ顔に出るし。だから今回は俺だけで行きます」
駿栄は珍しく真面目な顔で言った。
「しかし……」
渋る晄黎に駿栄は胸を叩いてみせた。
「大丈夫です! 大司馬だって一緒なんですから! 二人の分まで活躍しますよ、朗報を待ってて下さい」
「……お前、本当に駿栄か? 朝から働き詰めなのに、文句の一つも言わないなんて」
疲れた、もう動けない、行きたくない、の三拍子がお決まりになっている駿栄がやる気を見せているのが感心を通り越して恐しい。心配になってつい言葉にすると、駿栄は愕然とした様子で言い募った。
「えぇ!! 太子の中の俺の評価ってそんな酷いんですか!?」
「逆にどんな評価をされていると思っていたんだ」
「それはもちろん、頼りになる太子の懐刀ですよ! ついでに愛嬌も売りにしてます!」
顔に手をやって片目を瞑ってみせる駿栄に、晄黎はあやうく吹き出しそうになった。こういう時、本当に駿栄の洒落と機知には救われてきた。
「分かった。駿栄、お前に任せる。すまないな……」
「やだなぁ。こういう時は、すまないじゃなくて期待してるくらいがいいんですけどね」
「そうだな」
明るく言い放った駿栄に、晄黎は同意する。
それでもまだ劉藍の表情は晴れなかった。駿栄は劉藍の肩に腕を回すといたって明るい調子で話し掛ける。
「ほれ、劉藍! いつまで暗い顔してんだよ。なにが起こるか分からないんだ。ここで太子をお守りするのは大事な役目だぞ。かっこいいとこ取られたからってふてくされんなよぅっ!?」
駿栄の腹に劉藍の容赦ない拳が直撃する。駿栄はお腹を押さえて地面に転がった。いきなりの行動に晄黎と伯濯は目を丸くした。
「貴様に言われるまでもない。それから、上からものを言われると虫唾が走る」
「扱い酷くないかっ!?」
駿栄は転がりながら文句を言う。しかし劉藍はその抗議を無視した。
「あぁ、はいはい。もういいですよ。それじゃあ太子、早々に準備を終わらせて救援に向かいます!」
「武運を祈っている。必ず生きて戻って来い」
「はい!」
駿栄は立ち上がり礼をすると、勢いよく駆け出した。
「駿栄っ!」
しかしその後ろ姿を劉藍が唐突に呼び止めた。駿栄はたちまち嫌そうな顔をして振り返った。
「なぁんで出鼻挫くわけ、お前」
「いいから聞け」
劉藍は駿栄に駆け寄ると乱暴に肩を抱いた。伯濯はもちろん、晄黎にも聞き取れないように耳打ちする。
「麓槙内部に内通者がいる可能性がある。それも中枢に」
事実なら大問題だが、駿栄はとくに驚いた様子もなくそれを聞いていた。
「国民にも秘匿していた陛下の病が景南国側に知られたのが一つ。そしてもう一つは、非武装の民を手に掛けるやり方。これは陛下が健勝であられた頃の景の戦法とは全く違う」
「そんでこのやり方を一番嫌ってるのは太子で、揺さぶりをかけるのが狙いってところ? その内通者は太子の性格までよく分かっているみたいだな」
言葉を途中で引き継いだ駿栄に劉藍は頷く。
「気付いているなら構わん。くれぐれも気を付けろよ」
話はそれだけだ、といわんばかりに劉藍は背を向ける。駿栄はその背中に向かって緊張感のない声で呼びかけた。
「任せとけー。乗馬は得意だからな。絶対間に合わせてみせる」
「馬に顔を叩かれて鼻血を出していた奴が、なにを根拠にそんなことを言うのか……」
劉藍は溜息混じりにつぶやいた。
一方、臣下二人が話し込んでいるのを遠目から眺めていた晄黎は、疑問を口にした。
「なぁ伯濯。二人はなにを話しているのだろうな?」
「さて、武人の会話は私には分かりかねます」
「それもそうか」
争いごとや血を厭う伯濯にこんな質問をするのもおかしなことだ。晄黎は苦笑すると、ふと思い出したことを聞いてみることにした。
「伯濯。白凰って知ってるか?」
「……さぁ、初めて耳に致しますな」
答えに妙な間があったが、晄黎はたいして気にも留めずに機嫌良く笑った。
「お前でも知らぬということは、やはり法螺話を吹き込まれたな、駿栄」
楽しげに話す晄黎とは対照的に伯濯の顔は浮かなかった。心なしか青ざめた顔は夜の闇に隠されて、晄黎がその様子に気付くことはなかった。
数ある素敵な作品の中からこの黎明記を見つけてくださり、そしてここまでお読み頂きありがとうございます。
ブックマークや評価、いいねなど本当にありがとうございます。大変励みになっております。
黎明記はまだまだ始まったばかりです。
これから晄黎達がどうなっていくのか、一緒に見守っていただければ幸いです。