5 宣告
翠鳴殿の最奥へと繋がる廊下を晄黎は一人行く。其処此処に灯された微かな明かりを頼りに目的の部屋の扉を叩くと、嗄れた声が返事をした。
扉が開けられると中から空気が流れ出て、薬品の独特な匂いが鼻をついた。その匂いを伴って顔を覗かせた老爺もとい伯濯は、晄黎の姿を認めると目を丸くした。皺だらけの手には薬草が握られており、よく見ると指先が緑色に変色している。どうやら薬の調合を行っていたようだ。
「邪魔をする、伯濯。悪いが腕を診てはもらえないだろうか?」
作業を中断させたことを申し訳なく思いつつ頼む。
すると伯濯は「邪魔などとはとんでもない」と首を振ると、包帯の巻かれた晄黎の腕を見た。
フサフサとした眉毛に半ば隠れていた目が悲しそうに細められた。
「太子、その怪我は一体……。とにかくお入り下さいませ。すぐに治療致しますゆえ」
伯濯は晄黎を部屋に招き入れると長椅子に座らせた。それから木棚の前に立つと五百種類はあろうかという薬品の中から必要なものを選び取っていく。一連の動作は流れるようで、老体とは思えぬ俊敏さだった。
治療を開始して間もなく伯濯の表情が曇った。何度も眼鏡を掛け直し、負傷した腕を矯めつ眇めつする。
いつもなら消毒をして薬を塗り付けてすぐに終わりなのだが、今日は普段と様子が違う。
難しい顔で治療にあたる伯濯の見慣れない姿に、晄黎は不安に駆られた。
「太子、痛みはございますか?」
「いや、特にはない。痛いような気がする、というぐらいだが……」
晄黎の答えに伯濯は顔を顰めた。その表情が更に晄黎の不安を煽った。
伯濯は晄黎の腕に巻かれていた包帯を机の上に広げると、その上に琥珀色の液体を垂らした。すると付着していた血の色がみるみるうちに赤から青に変わっていく。その結果に伯濯は唸り声を上げた。
「どうやら微量ではあるものの、刃に毒が塗られていたようですな」
「毒?」
訝しんで聞き返すと伯濯は神妙な面持ちで頷いた。
「この液体は四色花という花の蜜なのですがな、毒物に反応すると青色に変化する性質を持っているのです。問題はその毒なのですが……」
「一体何の毒なんだ」
言い淀む伯濯を晄黎が促す。自分の腕が今どんな状態にあるのか気になって仕方がなかった。
「天原草という毒草です。身体に痺れをもたらし神経を破壊する作用があります」
伯濯は説明しながら傷口を洗い流した。手早く薬を塗ると慣れた手つきで包帯を巻き直す。晄黎はそれを黙って見ていた。
「痛みがないというのは、その毒の痺れが効いているからでしょう。骨の一歩手前まで深く斬り付けられて、その程度の痛みで済む筈がありません」
「そんなに深い傷だったのか?」
骨という言葉に晄黎は息を呑んだ。本当に痛みが殆どなかったのでそこまで重症だとは思いもしなかった。
「これの恐ろしいところはまさにそこにあります。痺れによって痛みが緩和され、傷の程度を甘く見てしまう。適切な処置がなされなければ傷口は壊死して、最悪の場合患部の切断が必要になります」
「切断!?」
衝撃的な言葉に晄黎は上擦った声を上げた。
「ああ、いえ。太子の場合は早い段階で処置ができましたから、壊死したりはいたしません。ただ今夜にでも痺れが取れて痛み出すでしょうからお覚悟なさいませ」
「わ、分かった。……ところでこれはいつになれば完治するだろうか? あまり長い間剣を使えないとなると腕が鈍ってしまうのだが」
痛みはなんとか乗り切るとしても、いつまで剣を握れないのかが気掛かりだった。
「……太子。大変申し上げにくいのですが、今後剣を握ることは諦めて下され」
重く沈んだその答えに、晄黎は弾かれたように立ち上がった。
「それはどういうことだ! 完治さえすればまた剣を握れるようにはならぬのか!?」
「太子、落ち着きなされ。興奮も御身体に障ります」
「なら説明してくれ。何故諦めろなどと言うのか」
「先程も申し上げましたが、天原草は痺れをもたらすだけでなく、神経を破壊することができる毒草です。毒は神経を殺し、怪我が完治しても後遺症が遺ります。右腕は……もう動かないでしょう」
これまで剣を手に自ら前線に立つことで国を守ってきた晄黎にとって、それは死刑宣告を受けるようなものだった。
晄黎はゆっくりと長椅子に腰を下ろした。あまりの衝撃に右腕はおろか全身の力が抜けて、悪い考えばかりが頭をぐるぐる回りはじめた。
「……わかっていたんだ。戦場に立つ以上、いつかこんな日が来るんじゃないかと。だが、それが今日だとは思いもしなかった」
口から出た声は酷く憔悴していて、自分から出たものとは思えないほどに弱々しいものだった。
「あまり悲観なされるな。この老骨めが、出来る限りのことはいたしますぞ。それに、貴方は王太子であらせられる。武人ではない」
「伯濯も母上のようなことを言うのだな」
晄黎は新しい包帯が巻かれた腕に触れる。熱を帯びているがやはり痛みは感じられない。この腕が二度と剣を握れなくなるなど信じられなかった。
「伯濯は知っているだろう。城の者達がどういう目で私を見ているのか」
疑心と侮蔑、そしてほんの少しの期待。城内でさえ気が休まることは殆どない。九歳の頃、この城にやって来てからというものずっと抱えてきた感情。一体何故、自分はここにいるのだろう。
嫌なことばかりが思い起こされて晄黎は顔を俯けた。
「存じております。苦労してきたことも、貴方が努力によって多くの者の信頼を勝ち得てきたことも。決して腐ってはなりませんぞ」
晄黎が前を向くと、穏やかな顔で微笑む白濯と目が合った。その表情は慈愛に満ちていて、不意に目の奥に熱いものが込み上げてきた。同時に喉の奥から迫り上がってくるものを息を詰めて堪えていると、皺だらけの指で額を弾かれた。
幼い頃、大人達に虐められて泣いていた時もこうして喝を入れてくれた。なんだか昔に戻ったような気がして笑みが溢れた。
子供の頃は大きいと思っていた白濯の手が今は小さく感じる。その違いに時の流れを感じて晄黎は身の引き締まる思いがした。いつまでも手の掛かる子供でいる訳にはいかない、と。
「声を荒げたりして悪かった。それと、少し元気が出た」
晄黎が額をさすりながら言うと、伯濯は人差し指を立てた。
「内緒ですぞ。私の首が飛びますゆえ」
「そんなことはさせないさ」
そう言って二人はひとしきり笑った。
「しかし妙ですな」
「何がだ?」
「本来、天原草は大陸中央部にのみ群生している稀少な植物なのです。それをなぜ景南国の兵が持っていたのか」
「行商人から買ったのではないか? 戦時中この手の物は高く売れるからな」
実際に戦乱の世を迎合するのは、武器商人や薬草売りである。平時は赤字であるが、乱世は大儲けの機会が幾らでもある為、危険を顧みず大陸中を移動して商売をする者は大勢いた。
「いえ、それはないでしょう。かつて天原草はその毒性の強さゆえに奏楊によって厳重に管理され、現在は櫂琰国が取り締まっているはずです」
「櫂琰国……。臣下の身でありながら主君に牙を剥いた男、弦燐が興した国か。彼の者の謀反がなければ戦乱の世は訪れなかったかもしれないな」
弦燐が何を思ってそんな行動に出たのか、晄黎には想像もつかない。だがたった一人の行動が世界の有り様を変えてしまうことがなんとも恐ろしく感じられた。
「それは言っても詮無きことで御座いましょう」
「それもそうだな。だが天原草の入手経路は調べた方が良さそうだ。景南国がそこらの密売人から買っただけなら良いが、櫂琰国と繋がっていた場合は正直に言って手の打ちようがない」
奏楊が滅んだ後、数百の国が乱立し覇を競っているが、その筆頭として各国を攻め滅ぼしているのが櫂琰国である。弦燐を主君に戴く櫂琰国は負けを知らず版図を拡大している。
「妙といえば、陛下の病にしてもそうです」
「確か、西の風土病だったか」
「ええ。この辺りでは感染することのない病です。一体何がどうなっているのやら……」
西方の一部でのみ生息する砂漠蝶が感染源とされる風土病は、現地でも死の病と恐れられている。因果関係は不明だが、雨の日は特に感染者が拡大する傾向にあるという。その為西方砂漠では雨が降る日は外を出歩いてはいけないと言われている。
「陛下の容体は?」
晄黎が訊ねると伯濯は首を横に振って項垂れた。
「悪化の一途を辿るばかりで御座います。我々侍医にもっと力があればと思わぬ日は御座いません」
麓槙一の医官は悔しそうに顔を歪めた。だが致死率が高く治療法もわからぬ病に侵された王が今なお存命であるのは、間違いなく伯濯が優れた医官である証明でもあった。
「そうか……。引き続き陛下を頼む。それから私の怪我についてだが、口外を控えてほしい。いらぬ混乱を生みたくない」
伯濯は何か言いかけたが、結局口を噤んだ。
渋々といった様子ではあるものの伯濯が了承したのを確認すると、晄黎は立ち上がった。
「そろそろ部屋に戻る。世話になった」
「どれ、儂も行きますかな」
すると伯濯も「よっこいせ」と腰に手を当て立ち上がると一緒に部屋を出ようとした。
「伯濯、こんな時間にどこへ行くのだ?」
「何を仰っているのです。今夜にでも熱が出て痛み出すと言ったではありませんか。何かあった時の為にも傍に付いている必要がありましょう」
当然のように付いてこようとするので晄黎は困ってしまった。
「だが部屋まではかなり歩くぞ。腰の具合は大丈夫なのか?」
王族が医官の治療を受ける時、本来であれば自ら赴いたりせず自室に呼ぶのが一般的である。しかし晄黎は少し前に腰を痛めた伯濯を気遣い、自分から翠鳴殿まで赴くようにしていた。
「なに、なんということも御座いませぬ。さぁ、参りましょう」
口ではそう言うものの、腰は曲がり一歩一歩がおぼつかない。治療中の俊敏さは何処へやら、歩き辛そうである。
晄黎はしばらくそれを後ろから眺めていたが、結局彼を追い越すとその前で膝をついた。
「やはり心配だ。私が負ぶっていくから乗れ」
「怪我人がなにを言っているのですか! ご自愛なさいませ!」
いつもであれば「では、失礼いたしますぞ」などと言って頼ってくる伯濯だが、今日は違っていた。
伯濯が猛然と反発するので、晄黎もムキになって言い返す。
「無理をしてほしくないからこうして訪ねてきたのに伯濯が歩き回っていては意味がないではないか」
「なら怪我や病気をなさらないでくだされ。それだけで私の寿命が縮むのですから」
「努力はするが……論点がすり替わっていないか?」
「いえ、この際ですから言わせてもらいますぞ。そもそも……」
「わ、わかった。ならこうしよう」
積もった不満をぶちまけようとする伯濯の言葉を遮ると、晄黎は左手を差し出した。
伯濯はまだなにか言いたそうにしていたが、晄黎の意図を汲み手を取った。
晄黎はホッと息を吐くと、ゆっくりと歩を進めた。
「よいですか、今日は絶対安静ですからな」
歩きながら何度もそう念を押す伯濯に晄黎はうーんと唸った。
「そう何度も言わなくてもわかっている。まったく、信用ないな」
「太子は息をするように無茶をなさるではありませんか。忘れもしませぬ、あれは太子が九歳の時のこと。城を抜け出す為に十メートルもある城壁を……」
「昔のことを蒸し返すのはやめてくれ」
伯濯が嘆き節で語り出したものだから晄黎は慌てて口を挟んだ。
晄黎の狼狽する姿に伯濯はホホッと愉しそうに笑った。
対する晄黎はといえば、がっくり肩を落とすと溜め息を漏らした。
王太子になってからは他人からおちょくられたりすることが殆どないので、どう言葉を返すのが正解なのかわからない。
すっかり伯濯の手玉に取られながら歩いていると、急に外が騒がしくなってきた。なにやら狼狽する声と慌ただしい足音がいくつも聞こえてくる。
晄黎と伯濯は顔を見合わせると、逸る気持ちを抑えつつ亀の歩みで翠鳴殿を後にした。