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黎明記  作者: 春咲 司
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4 命の価値

 晄黎率いる分隊が麓槙の都、楼蘭(ロウラン)に帰り着いた時、日は西の空へと沈み始めていた。この時刻になると気温は下がり、時折吹く風が心地良い。夕焼け空と同じ色をした蜻蛉が飛び交う中、晄黎は王城の門をくぐった。

 晄黎達の姿を見つけると、まず真っ先に厩番が駆け寄ってくる。晄黎は馬を預ける前に愛馬の首を優しく撫でた。


「暑い中よく頑張ってくれたな、陽阴(ヨウイン)。ゆっくり休んでくれ」


 そう言って労うと、陽阴は嬉しそうに晄黎に擦り寄って来た。その様子はまるで晄黎の言葉を理解しているようである。横で見ていた駿栄も晄黎と同じ様に馬を撫でた。


「よーし、よーーし。乗せてくれてありが、へぶっ!」


 しかし駿栄の馬は気に食わなかったらしい。主人の顔を尻尾で強打した。乾いた音が辺りに響く。かなりいい音がしたので相当痛い筈だ。


「なにをやっとるんだ、貴様は」


 顔を押さえて蹲る駿栄に劉藍が呆れ声を浴びせた。あれだけふざけた乗り方をしていれば、さぞ馬の方も迷惑であったことだろう。


「大丈夫か?」


「あぁぁ、太子っ! そうやって心配してくれるのは太子だけですよぉ」


 晄黎が声をかけると駿栄は勢いよく顔を上げた。その鼻からは血が流れている。当たりどころが悪かったようだ。晄黎は抱き着かんばかりの駿栄を押し留め、手巾を手渡してやった。駿栄は「ありがとうございます」と言ってそれを受け取ると、血を拭いながら晄黎に耳打ちした。


「劉藍の奴なんか第一声が、なにやっとるんだ、ですよ? あいつにはきっと赤い血じゃなくて青い血が流れてるに違いないです。なんたって冷血漢ですからね」


 劉藍の表情と声を真似しながらの文句は驚いたことに良く似ていた。晄黎はそれが可笑しくて、思わず噴き出してしまった。


「駿栄、私の血が何色か気になるようだな?」


「げぇぇぇ! 地獄耳!!」


 劉藍の鋭い眼光が駿栄を捉える。麓槙一の美男子と言われる劉藍だったが、今は視線だけで人を殺せそうなほど凶悪な顔をしている。


「丁度良いから鍛錬に付き合え、駿栄」


「冗談じゃない! 体力底なしのお前との鍛錬なんてやってられるか! 大体、なにが丁度いいんだよ!」


 駿栄は背を向けぬように後退りながら叫ぶ。すると劉藍の表情が一段と険しいものに変わった。


「今日は、非常に、虫の、居所が、悪いっ!!」


 劉藍はそう叫ぶと目の前の駿栄を軽々と背負い、思い切り投げ飛ばした。ふぎゃあっ! という声を出して駿栄が地面に転がる。劉藍は抵抗する駿栄の首根っこを掴むと、そのまま引きずって行ってしまった。

 一応、駿栄の無事を祈っておくべきであろう。晄黎は両手を合わせると、黙って二人を見送った。


「太子」


 劉藍達と入れ替わるようにして美しい声が掛けられる。品のある落ち着いたその声が辺りに響くと、周囲の者達が一斉に膝を折り頭を垂れた。

 振り返るとそこには晄黎の母であり、王の妃である蓂抄(メイショウ)が佇んでいた。その後ろには女官が四人ほど付き従っている。

 晄黎は蓂抄の前に進み出ると胸の前で手を組み立礼した。


「晄黎、無事帰還致しました、母上」


「そなたの帰還はいつも騒々しいな、太子」


 帰還の挨拶を受けると、蓂抄は扇で口元を隠しながら答えた。

 何気ない動作の一つ一つが優美な蓂抄は、その容貌もまた美しかった。

 憂いを帯びた切れ長の瞳。細く真っ直ぐ通った鼻梁。白磁のような肌。欠点のない均整のとれた美貌は見る者の目を惹きつけて離さない。

 彼女を見た者は皆口を揃えて言う。

 王妃蓂抄は間違いなくこの国一の佳人で、目の前にすれば呼吸さえも忘れてしまう。かつて大陸一の美姫と称された奏楊の姫、蓬凛(ホウリン)に負けずとも劣らないだろう、と。

 その美貌は歳を重ねた今でも健在で、息子の晄黎でも驚いてしまうほどに若々しい。


「申し訳御座いません」


「なに、悪いとは申しておらぬ。よう帰った」


 晄黎が謝罪すると、蓂抄は気にした風もなく手を振った。


「ところで、怪我の方はどうか。あまり芳しくはないのであろう?」


 蓂抄は眉を顰めて問いかける。その視線が右腕に向けられていることに気がつくと、晄黎はそれを遮るように負傷箇所を押さえた。


「何故、芳しくないと?」


「劉藍ですよ。あの者の機嫌が悪くなる時は決まってそなたが負傷したとき……。先程の荒れようでは、さぞ大きな怪我を負ったのであろうと思うてな」


 どうやら城門での話し声が、城内にまで聞こえていたらしい。


「劉藍は声が大きいから……」


「あの者は太子が怪我が負う度に、毎回私の元に謝りに来るのです。それも小一時間は居座って帰らないから、暫くは顔を合わせないようにしようと思っておる」


 思い返すと晄黎が負傷して帰城すると、劉藍は決まって母の元を訪ねていた。何をしに行っているのか不思議だったが、あれは謝罪に赴いていたのか。

 劉藍のことだから太子の怪我の責任は自分にある、と自らを責めていたに違いない。晄黎は一度たりとも劉藍のせいなどと思ったことはないのだが。


「それで劉藍達がいなくなってから声をお掛けになられたのですね」


 晄黎が苦笑しながら言うと、蓂抄は口の端を僅かに上げてこれを肯定した。


「しかし太子。剣術に精通したそなたがこれほどの傷を負うとは、相手はよほどの戦巧者か卑怯者であろうな?」


 そう尋ねた蓂抄の面持ちは、それまでとは一転して真剣なものだった。


「それは……」


 言い淀む晄黎に蓂抄は溜息を吐いた。


「なるほど、わかった。おおかた無理をして飛び出しでもしたのであろう」


 明達な蓂抄は息子のほんの僅かな挙動で確信を口にした。

 言い当てられた晄黎はといえば、もはや黙り込むより他にない。


「太子?」


「……これは子供を庇った際に負ったものです」


 射抜くような鋭い視線を向けられ嘘を吐くこともできず、晄黎は白状した。

 蓂抄は額に手を当て息を吐いた。


「やはり……。太子、少し歩かぬか? なに、伯濯(ハクタク)の元へ行くまでの間付き合ってくれるだけで良い」


 これは間違いなくお咎めがあるなと思いつつも、晄黎は顔には出さず素直に頷いた。

 二人が並んで歩き出すと、少し間隔を空けて女官が付き従った。

 伯濯は国一の名医であり、王の侍医を務める老爺である。若い頃は奏楊の王城で医官として働いていた過去があり、その実力は折り紙つきである。晄黎も幼い頃からよく世話になっていた。


「いつまで武官の真似事を続けるつもりです」


 恐れていた一言が蓂抄の口から発せられ、晄黎は心臓を掴まれたような心地がした。

 晄黎自身、自分の行動が決して正しいものではないという自覚はある。哨戒は本来ならば兵の役割であり、王太子という立場の晄黎が最前線に立つなどあり得ないことだ。

 しかし晄黎は剣を手に兵を率いて国内を駆け回った。優れた剣術の才があったからである。


「景南国が攻勢を強める今、私が麓槙の為にできることはこれしかありません」


「それで命を落としたらどうするのです。そなたは王太子なのですよ」


 言葉には批難の色が含まれていたが、蓂抄が声を荒げることはなかった。だからこそ晄黎も感情的にならず、思いの丈を口にすることができた。


「私を王太子と認めない者は大勢います。周囲の反対を押し切って私を王太子に据えた陛下が病床にある今、私を軽視する者は以前にも増している。今の私には彼らを従える力はありません」


「だから剣を取り戦うと言うのですか?」


「この乱世において強い王であることは必要不可欠ではありませんか。私は私にできることを極めて、認められるように努めていくつもりです」


 それに、と晄黎は口を挟まれる前に言葉を続けた。


「私は王太子としての地位に執着してはいません。相応しい者が別にいるのであれば喜んで譲るつもりです」


「他におらぬから、そなたなのですよ」


「わかっています。でもそれは直系の話でしょう? それだって怪しいというのに……」


「太子っ!」


 叱責されて晄黎は口を噤んだ。


「……申し訳ありません」


 今のは完全に口が滑ってしまった。いくら自分の思い通りにならない状況にあるとはいえ、母の名誉に関わることを言うべきではなかった。

 暗に責められた蓂抄はといえばそれ以上怒るでもなく、ただ嘆息を漏らすのみであった。


「太子、そなたの命はもう既にそなた一人のものではないことを理解なさい。視野を広く持ち、何を拾い何を捨てるのかを見極めなければ、いつか命を落とすでしょう」


 蓂抄は視線を前に向けたまま、諭すように言った。


「それは我が身可愛さに民を見捨てろと、そう仰るのですか?」


「随分とまぁ乱暴な解釈ですね。しかし中らずと雖も遠からず、といったところでしょう」


「平民であろうと王族であろうと、命の重みは同じであるはずです」


 普段は母に反論などしない晄黎だが、断固としてその意見だけは聞き入れることができなかった。


「命には等しく重みがある、そなたのその考えは決して間違っていない。けれども優先順位は存在する。そなたはこの国唯一の王子。陛下が病床に伏している今、頼りはそなた一人なのですよ」


「私を守る為に民を犠牲にすると言うのですか? 民こそが国の宝だというのに!」


 堪らず晄黎は声を荒げた。誰かが死ねば必ず悲しむ者がいる。それは王族であっても平民であっても変わらない。同じ一人の人間なのだ。


「太子、己の力量を知りなさい。そなたがその手で守れるものには限りがあるのですよ。そして何かを守る為に何かを犠牲にする非情さを身に付けなさいな。綺麗事ばかりでは国を治めることなどできませんよ」


「母上、しかし私は……」


 不意に隣を歩く蓂抄の歩みが止まった。気付けば伯濯の常駐する翠鳴殿(スイメイデン)の前まで来ていた。


「さぁ、早く腕を診てもらいなさい」


「……はい」


 終始冷静さを失わない蓂抄に晄黎は反論することを止めた。きっと何を言っても母の意見は変わらないであろうと思ったからだ。今の自分がそうであるように。

 晄黎は去って行く蓂抄の後ろ姿を見送った。


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