3 噂話
一連の後始末を終えた晄黎達は、ようやく城への帰路に就いた。晄黎が負傷したことにより重苦しい空気が流れる中、静寂を破ったのはやはり駿栄だった。
「はぁ。今日は散々でしたね。もうこれ以上働けませんよ」
そう言って馬の首にぐったりともたれかかる様は、さながらぼろ雑巾のようである。
「何言ってる。すべきことは山積みだぞ。武具の手入れに部下の鍛錬、追加の警備手配にそれから……」
「だあーー! お前には言ってない! 年中無休働き詰め野郎!! ねっ、太子」
駿栄は指折り数える劉藍の言葉を遮ると、晄黎に同意を求めてきた。晄黎は首を横に振ってそれを否定した。
「いや、休んでいる暇はない。一刻も早く対抗策を練らなくては被害が大きくなるばかりだ」
「いやいや、一番重症の人がなに言ってんですか!」
駿栄はそう言うと、晄黎の右腕を勢いよく指差した。二の腕から肘下までの部分を深く斬り付けられ、裂けた衣の間からは包帯が覗いている。その包帯は血が滲んで真っ赤に変色していた。
とはいえ斬られた時よりも痛みは随分とマシになっている。見た目ほど酷い傷ではないのかもしれない。
「あぁぁぁ〜。痛い、痛いよぉ。見てるだけで痛い」
「痛い痛い連呼するな。本当に痛い気がしてくる」
口を押さえてブツブツ呟く駿栄を晄黎はジロリと睨んだ。
「だって、うあぁぁぁ」
「黙れ駿栄」
耐えかねた劉藍が呻き続ける駿栄の頭を容赦なく叩いた。
頭を押さえてぶすくれる駿栄を無視して、劉藍は晄黎に向き直った。その瞳には不満がありありと浮かんでいる。
「今回ばかりは駿栄の言葉に賛成です。太子はゆっくり休むべきです」
言葉は丁寧だが、その声音と表情からは憤りが滲み出ている。しかしそれは身を案じているがゆえなのだということは、言葉にせずとも晄黎には理解できていた。
それでも劉藍の進言を素直に受け入れることはできなかった。
貴方は十分に努力をした、よくやっている。誰もがそうやって晄黎を褒めたとして、一生懸命に自らの責務に努めれば結果が伴わずとも許されるのだろうか。
いいや、許されるわけがない。失策によって失われるのは名誉ではなく人命だ。今この瞬間もどこかで誰かが苦しんでいるかもしれないというのに、休むことなどできる筈がない。
「劉藍、私は……」
「いくら子供を助ける為だったとはいえ、敵の前に飛び出して行った時は心臓が止まるかと思いました」
反論しようとした晄黎を劉藍が強い口調で遮った。普段ならあり得ない行いに、晄黎は口を噤んだ。幼い頃からの付き合いではあるが、こんな風に叱責されるのは本当に久し振りのことである。晄黎はそっと劉藍を窺い見た。手綱を握る劉藍の手は力の入れ過ぎで白く変色し、微かに震えていた。
劉藍の気持ちを蔑ろにしようとしたわけではない。それでも。
「ああしていなければ、あの子が死んでいたかもしれない」
景南国の兵が子供に向かって剣を振り下ろす僅かな瞬間、晄黎は両者の間に自分の体を割り込ませるのが精一杯だった。自分に慢心がなければ、あるいはもっと力があれば剣で敵刃を受けることができたのかもしれない。晄黎は負傷した右腕を押さえながらそんなことを思った。
「すまない、劉藍。あの時はあれしか選択肢がなかった。それに見た目ほど大した傷じゃないんだ。痛みだってそこまで酷くない」
「命に関わる怪我でなかったのは幸いでしたが、利き腕がその状態では暫く剣を握るのは無理でしょう」
「そうかもしれないが……。劉藍、そんなに睨まないでくれ。すまなかった」
終始仏頂面をした劉藍に居た堪れなくなった晄黎は謝罪した。
「謝らないで下さい。次また同じ場面に出くわしたら、貴方は躊躇いもなく飛び出して行くのでしょう?」
肯定すれば劉藍を傷付ける。だが嘘を吐くこともできなくて、晄黎は声もなく固まった。しかしそれが結局は肯定の証になってしまった。
晄黎が罰の悪い顔で目を逸らすと、劉藍の表情が僅かに翳る。しかしそれも一瞬のことで、劉藍は困ったように微笑んだ。
「だからこそ私は貴方が王に相応しいと思うのです。それに謝罪すべきは私の方です。太子がお怪我をなされぬよう御守りするのが私の役目だというのに」
側仕え失格です、と言って劉藍は俯いた。
「なにを言ってるんだ。あれは私の慢心が招いた結果であって、お前に落ち度はない。頼りにしている、劉藍」
劉藍のように智勇に優れた者が未熟な主を見放すことなく仕えてくれることが、晄黎にとってはなににも代え難いことだった。
「えーー太子! 劉藍ばっかりずるいですよ! 自分だって言いつけを守って射手を無効化しましたし、村の救護活動頑張りましたよ!!」
駿栄は唇を尖らせると聞き捨てならんといった様子で会話に割り込んできた。
「もちろん駿栄も頼りにしているさ」
「へへっ」
本心からそう言うと、駿栄は照れくさそうに後ろ頭を掻いた。後ろで結わえた薄茶の細い髪束が尻尾のようにフリフリと揺れている。
その様子を隣で眺めていた劉藍は渋面を作った。
「犬か貴様は」
「おーう、犬で悪いか。お前だって人のこと言えないだろ!」
「ふん、同じ犬でも貴様はキャンキャン吠え回る小型犬だろう」
「はーーん、小型犬舐めるなよ! 可愛い上に仕事もきっちりこなすこの僕に嫉妬とは小さい男だな!」
二人の言い争いが徐々に熱を増してゆく。
ああ、また始まった。と思いつつ、晄黎は静かに成り行きを見守った。長引くようならまた仲裁に入らねばとも思ったが、気の短い劉藍が駿栄の頭を殴って早々に喧嘩は終わりを迎えた。
劉藍は何事もなかったかのように晄黎の方に馬を寄せ隣に陣取った。
「しかし困りましたね。景南の攻撃によって我が軍の負傷者は増すばかりです。今回の戦闘でも死者が出なかったのは本当に幸運でした」
そう言って劉藍は額の汗を拭った。夕刻とはいえまだまだ気温は高く熱気が立ち込める。城への長い道のりは彼らの体力を奪っていった。
「あーあ。白凰があればなぁ」
駿栄が切望の声を上げる。
「白凰?」
初めて聞く言葉だったので晄黎は反射的に聞き返していた。
「あれ、太子知りませんか? 劉藍も?」
目を丸くして尋ねる駿栄の様子から、白凰というのは有名なものなのかと晄黎は思った。が、そうでもないらしい。晄黎が劉藍の方を見ると、やはり劉藍も知らぬようで首を横に振った。
そんな二人の様子を見て、駿栄は得意げに説明を始めた。
「白凰っていうのは、東の霊峰に棲まう有翼の民のことです。彼らの血はどんな傷や病であっても、たちどころに治すことができる神薬って言われてるんですよ」
「ほぉ、東の霊峰といえばユスリ山脈を越えた僻地にある山か。あの辺りは九麓州だから都からは半月かかる距離だな」
劉藍が興味深そうに話に乗ると駿栄が頷いた。
「そうそう、そこだよ。劉藍の親父さんが昔、九麓州に任務で滞在してたっていうから知ってると思ったんだけど、本当に聞いたことない?」
「いや、全くないな」
「ふーん、そっか。太子はどうです?」
「私もさっぱりだ」
「そうですか……。まぁ、伝え聞いた話なんで僕も実際に見たことはないんですけどね」
「なんだ、作り話か」
「ちょっ、夢くらい見させてくれ!」
劉藍が切って捨てると、駿栄は口を尖らせた。
「だって古書屋の爺ちゃんも言ってたぞ。白凰はいるって」
「駿栄」
「なんです? 太子」
「あの御老人は法螺吹きだぞ」
「嘘……」
駿栄は唖然とすると肩を落とした。落胆する駿栄が少しばかり可哀想にも思えたが、そんなに都合の良いものが存在するわけがない。
もし本当に白凰が実在するのなら、父の病や負傷した者たちを治すことができるかもしれない。だが所詮は作り話。空想の生き物だ。
ありもしないものを夢見て、現実から目を逸らしている場合ではない。状況は悪化の一途を辿るばかりなのだから。
「駿栄、死にたくないのなら現実逃避をする前に稽古に付き合ってくれ」
晄黎からの申し出を聞いた途端、駿栄は馬からひっくり返りそうになる。慌てて体勢を整えると彼は即座に答えた。
「はいっ!?嫌ですよ!それこそ死にますって!」
「何故だ?」
猛烈な拒否反応に晄黎は疑問を口にした。
鍛錬を積み、より強くなることこそ生存率を上げる最も最適な方法だ。だというのに駿栄はいったい何がそんなに気に食わないのだろうか。
晄黎がジッと見つめると、駿栄はしどろもどろになりながらも抵抗した。
「何故って……。太子いつも本気じゃないですか!」
「手を抜いてどうする」
「僕は覚えてますよ。太子と剣術稽古をしたあの日々を!」
「士官学校時代のことか?」
麓槙では平民が武官として国に支える為には王都の士官学校を卒業する必要がある。
晄黎は王太子ではあるものの士官学校の方にも顔を出しており、そこで士官候補生に混じって剣を振るっていた。駿栄ともよく剣の打ち合いをしたものである。
「何度死にかけたことかっ! 僕は太子の相手をするくらいなら、戦場で一挙に十人と相対するほうがまだマシです!!」
絶対に嫌ですからね、と大声で叫ぶ駿栄はこの日で一番元気そうに見えた。
「殺す気でやらなければ稽古にならないだろう」
「あっ!! 今サラッと恐ろしいこと言いましたよね!? これは本当に近い将来殺されかねないですよ!!」
そう言って駿栄が逃げ出そうとした瞬間だった。
「太子っ!! 貴方は怪我を治すのが先です!!」
夕暮れ空の下、劉藍の声が響き渡った。