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黎明記  作者: 春咲 司


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32 郷愁

「どうぞ」


 そう言って女中が卓に出したのは、硝子製の湯呑みだった。薄い琥珀色の湯の底には、一輪の花が沈んでいる。


「懐かしい……」


 蓂抄は顔を綻ばせると、湯呑みを手に取った。

 美しく華やかな見た目に反して、落ち着きのある香りと深い味わいが人気の茶だ。城にいた頃は好んでこれをよく飲んでいた。

 市井で生活を始めてからは贅沢品を買う余裕などなかったので目にするのも久しぶりだ。

 一口含んで、「あぁ、こんな味だった」と約十年振りの茶に舌鼓を打った。


「私がこれを好きだったこと、覚えていてくれたのですね、伯濯」


 蓂抄は向かいに座る伯濯に声を掛けた。


「えぇ、もちろんでございます」


 伯濯は目を潤ませながら答えた。


「本当に蓬凛様なのですね。夢でも幻でもなく……」


「私も驚いたわ。かつての私を知る人に再会するなんて。そなたが医官を辞し城を離れてから、もう十五年になりますか。本当に久しぶりですね、伯濯」


「蓬凛様……。よくぞ、よくぞご無事で……」


 記憶に残る姿よりも随分と老いた伯濯は、肩を震わせ咽び泣いた。

 大切な人達はあの夜に全て失ったと思っていた。だが蓬凛という存在を慈しみ、案じてくれる人がまだこの世に残っていたなんて。驚き以上に嬉しい気持ちが勝って蓂抄は頬を緩めた。祖国を失ったあの日から自分を偽って生きてきた。誰の目にも蓂抄という虚像しか映らない孤独な日々だったが、伯濯との再会によって救われた心地がした。


「それにしてもよく私のことがわかりましたね。最後に会ったのは成人前だったというのに」


 十五年は人間にとっては長い年月だ。

 現に蓂抄は声を聞くまで伯濯だとは気付かなかった。

 記憶の中の伯濯は総白髪ではなかったし、杖もついていなかった。


「私も蓬凛様お一人でしたら既視感を覚える程度だったかもしれません。確信を持ったのは蓬凛様と一緒におられた少年が、かつてお仕えした皇女様の姿に重なったからでございます」


「あの子は私の幼い頃にそっくりであるからな」


 女児に間違われて頬を膨らませる息子の顔が浮かんで、蓂抄は笑みを溢した。


「蓬凛様、恐れながらあの少年は」


「私の息子、晄黎です」


 遠慮がちに尋ねる伯濯に蓂抄は正直に答えた。

 あれだけ容姿が似ていると誤魔化しようもない。


「皇子殿下であらせられましたか。心根の優しい、良きご子息でございますね」


 屈託なく笑う伯濯とは対照的に蓂抄は目を伏せた。


「……あの子には私の本当の名も、皇族の血が流れていることも一切話していません」


「なるほど。それで、話をするなら二人だけでと仰られたのですね」


 伯濯は腑に落ちた様子で頷いた。

 九歳はまだ子供とはいえ話の内容を理解できる年齢だ。身分を隠している以上、伯濯との会話を晄黎に聞かせるわけにはいかない。

「庭に珍しい魚がいるから鑑賞してはどうか?」と伯濯が晄黎に提案してくれた時は本当に助かった。

 おかげで魚に夢中の晄黎は池に張り付いたまま離れず、こちらには一切興味を示さなかった。


「我儘を言って屋敷に上げてもらってごめんなさいね」


「何を仰います! 我儘などとはとんでもない!」


 蓂抄が眉尻を下げて謝罪すると伯濯は心外だと言わんばかりに首を振った。


「それにしても、何故この麓槙に?」


「特に目的があってこの地まで逃れてきた訳ではないの。なりふり構わずただただ遠くまで逃げて、辿り着いた場所が麓槙だったというだけ」


「他の皇族の方々は……」


「流布されている通りよ。みんな死んだわ」


 蓂抄が静かに告げると、伯濯は唇を震わせて卓に頭を擦り付けた。


「申し訳ございません……」


「そなたが謝ることはない。もう過ぎたことだ」


 蓂抄は目を閉じると自らに言い聞かせるように言った。

 失言を反省してか、伯濯は縮こまったまま俯いている。

 悪気がないことはわかっている。死んだと思っていた皇女が実は生きていたとあらば、他にも生存者がいるのではと、訊ねたくもなるだろう。

 とはいえ、伯濯はすっかり萎縮してしまっている。どうしたものかと蓂抄は窓の外に広がる庭を眺めた。


「……そういえば随分と良い暮らしをしているようだが、そなたは今何をしているのですか?」


 宝石のような魚が泳ぐ池、身綺麗な使用人、手入れの行き届いた屋敷。幾ら麓槙が豊かな国であるとはいえ、ただの平民にこれだけ良い暮らしができるとは到底思えない。


「有難いことに、奏楊での経歴を買われて城で医官をしております」


「そう。そなたに声を掛けるとは見る目がありますね」


「恐れ多いことでございます」


 目の前で頭を下げる伯濯の表情は明るい。

 十五年前、病で先の短い妻の為に医官を辞し、故郷に戻ると話していた伯濯は憔悴しきっていた。

 故郷に帰った伯濯が心穏やかに過ごせているか気掛かりであったが、不自由なく暮らせているようで安心した。


「蓬凛様は城を脱出されてからずっと市井で暮らしておられたのですか?」


「えぇ。最初の頃は料理が全くできなくて苦労したわ」


 蓂抄は深刻な雰囲気にならないように敢えて明るい調子で話した。

 料理以外にも苦労したことや危険な目に遭いそうになったことはあるが、そのことを口にしようとは思わなかった。皇女としての意地か、矜持か。自分でも判然とはしないが、地を這いつくばって生きてきたことなど、かつての自分を知る伯濯には話す気になれなかった。


 まあ、伯濯ほど人生経験豊富な人間なら蓂抄があえて語らずにいる苦労にも気付いているかもしれないが。

 伯濯は時折相槌を打ちながら穏やかな表情で蓂抄の話を聞いてくれた。

 そういえば、城にいた頃も伯濯は取り留めもない蓂抄の話に熱心に耳を傾けてくれた。

 歳を重ねても変わらない伯濯の優しさが懐かしくて、十五年という空白の期間が一気に埋まっていくような気がした。


 一通り話し終えて蓂抄が湯呑みに手を伸ばすと、伯濯が神妙な面持ちで口を開いた。


「蓬凛様、このまま市井でお暮らしになるのは危険です」


 蓂抄は伸ばしかけた手を引っ込めて伯濯を見た。

 重々しい表情からは蓂抄のことを案じている気持ちが痛いほど伝わってくる。


「私のように蓬凛様のお顔を知っている者が他にもいるかもしれません。もし櫂琰国に蓬凛様の存命が知れたら……」


「殺されるでしょうね、間違いなく」


 伯濯が言い辛いであろう部分を引き取って、蓂抄は事も無げに口にした。

 伯濯はそんなことは耐えられないとばかりに頭を振ると、卓の上に身を乗り出した。


「蓬凛様、どうか陛下に会っていただけませんか?」


「私に麓槙の王の庇護を受けよと、そう申すのですか」


「浩佑陛下は心あるお方です。蓬凛様を櫂琰に引き渡すような真似は絶対になさりません。ですから、どうか」


「伯濯。それはできない」


 蓂抄ははっきりと伯濯の申し出を断った。

 その答えに伯濯は途端に悲痛な面持ちになった。


 確かに身の安全を考えれば、市井で暮らすよりも良いのだろう。十分に利のある提案だ。だが蓂抄には素直に頷けない理由があった。


「かつてそなたは故国たる麓槙がどれほど素晴らしい国であるか熱心に語ってくれたわね。でもあの頃の私は、奏楊以上に良い国などないと思っていた」


 蓂抄は窓の外に視線をやると遠い目をした。


「口では凄いのね、なんて言っておきながら、心の中では奏楊の方が立派な国だと考えていた。可愛げのない子供でしょう?」


 蓂抄が自嘲めいた笑みを浮かべると、伯濯は苦笑した。


「そう思われるのも無理はありません。当時この大陸は奏楊を中心に物事が動いておりましたから」


「だけど実際にこの国に来て、そなたの言葉が誇張でもなんでもないことがわかったわ」


 麓槙の民は笑顔と活気に満ち溢れ、困っている者がいれば手を差し伸べる。他人のことを自分のことのように案じたり、怒ったり、喜んだりする。


「麓槙は人の心が豊かな国だと思う。そしてそんな国を統治する麓槙王も優れた人格者なのでしょうね」


 麓槙王に対する伯濯の評価を疑っている訳ではない。蓂抄は暗にそのことを伝えた。


「私は麓槙が……、麓槙で暮らす人々が好き。だからこそ私を匿うことで、争いとは無縁のこの優しい国を巻き込むことはしたくない」


「ですがそれでは……!」


 貴女はどうなるのですか? 伯濯の瞳がそう訴えかけてくる。なんの打算もなく、本心から身を案じてくれている。そのことは蓂抄にも痛いほど伝わってきたが、それでも気持ちが変わることはなかった。


「今日はもう帰ります。話ができてよかった」


「……蓬凛様」


 立ち上がる蓂抄を引き止めるように伯濯もまた席を立つ。

 それを拒むように蓂抄はゆるゆると首を振った。


「今は蓂抄と名乗っています」


 もう蓬凛とは呼ぶな。その思いを込めて蓂抄は言う。

 本当は蓬凛と呼ばれて嬉しかった。

 誰も本当の蓂抄を知らない世界に飛び込んで、必死に生きてきた。仕事や家事、育児の忙しさに追われている時は忘れることができても、ふとした瞬間、孤独に苛まれる。

 伯濯に名を呼ばれた時どんなに心が救われたか、言葉では言い表せない。

 それでも、市井で暮らす今の自分には不要なものだ。

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