30 落陽
前回から期間が空いてしまいました……。申し訳ありません。
もっと執筆スピードを上げたいのですが、どうにも上手くいかないです。もどかしい……。
雲一つない夜空に望月がかかっている。
僅かな欠けもない完璧な真円は神秘的で、吸い込まれそうなほど美しい。
だがそれを悠長に眺めている暇はなく、蓬凛は長い衣の裾をたくし上げて血と悲鳴に満ちた世界から逃げ出そうと必死に走った。
見慣れた景色は黒煙に覆い隠され、空には真っ赤な火柱が上がっている。夜だというのに辺りは白昼のように明るい。その異様な光景に蓬凛は背中に悪寒を感じた。
四方八方から耳を劈くような悲鳴が上がり、心臓がバクバクと音を立てる。
──何が起こっているの?
大陸一豪奢な城が燃えている。人が大勢死んでいる。一体何故? 混乱する頭には疑問ばかりが浮かんでくる。
普段と何一つ変わらない、ありきたりな一日の筈だった。いつものように自室の牀榻で目を覚まし、侍女と他愛無い話をして笑って、それから、それから……。
なんの前触れもなかった。突然武装した兵士が城内に雪崩れ込んできて、手当たり次第に人を殺した。
いつもと変わらない、特別でもなんでもない、そんな日々がこれから先も続いていくのだと、そう信じて疑わなかったのに。
蓬凛は侍女の春蘭に手を引かれながら炎上する建物の隙間を縫うように走った。
熱気は容赦なく襲いかかり、熱さと息苦しさに呼吸が速くなる。姿勢を低くしても煙を全く吸わずにいることはできず、蓬凛は咳を繰り返した。
「皇女様、あと少し辛抱して下さいませ。もうすぐ避難用の隠し通路が見えて来ますから」
そう言って先導する春蘭の手は震えていた。
皇女付きの女官である春蘭は、蓬凛と同様に戦場とは無縁の生活を送ってきた。温室育ちの春蘭など目の前で人が殺されて平常心を保てる訳がない。それでも恐怖を抑え込んで気丈に振る舞う姿は蓬凛に走る勇気を与えてくれた。
蓬凛は空いた左手でお腹を押さえる。
──この子の為にも、必ず生き延びなくては。
つい先日、医官から伝えられた懐妊の報。まだなんの膨らみもなく、一見すると子がいることなど全くわからないがそこには新しい命が宿っている。
蓬凛はぐっと顎を引いて歯を食いしばる。そうすることで込み上げてくる涙を堪えた。
「皇女様、お待ちを!」
極限まで抑えた声で春蘭が停止を呼び掛ける。
蓬凛はつんのめりそうになりながらも言われた通り足を止めた。
「……誰かおります」
春蘭は上擦った声で囁いた。
二人の間に緊張が走る。混沌に陥った城内では、味方の甲冑を着た兵士が味方に斬りかかる場面を何度も見た。
もはや誰が味方で、誰が敵なのかもわからない。
果たしてこの先にいる人物はどちらなのか。
蓬凛は慎重に塀の陰から顔を覗かせた。
炎上する建物の側で二人の男が向かい合わせに立っている。
両名ともに奏楊兵の鎧を身に付けている。手前の男は長槍を、奥の男は何か丸いものを持っているが暗くてよく見えない。
注意深く二人を観察していると、炎がゴォッと音を立てて一際大きくなった。燃え盛る炎が男達の横顔を照らし出す。
二人の顔がはっきりと見えた瞬間、蓬凛の体から恐怖と緊張が消え去った。
──ああ、良かった! 二人とも無事だった!!
幼い頃から付き合いのある武官の兄弟。
身分や立場の差こそあれ弟の弦燐は大切な友人であり、兄の白檑は誰よりも愛しい人であった。
駆け出そうと身を乗り出したところで春蘭に衣の袖を強く引かれた。
「何をするの春蘭。白檑と弦燐よ! 二人のことはお前もよく知っているでしょう?」
「……なんだか様子がおかしいです」
「様子って、何を言って……」
蓬凛は前方へと視線を戻す。
二人に声を掛けようとして、言葉を失った。
兄弟二人の間を人の頭がごろごろと転がっていく。
蓬凛は慌てて口を押さえた。
弦燐が持っていた丸い何かは人の頭だった。
そしてあれは──父の頭部だった。
呼吸が速くなる。バクバクと心臓が早鐘を打つ。
前にいた春蘭にもそれは当然見えており、驚愕に目を見開き口を押さえていた。
「裏切るのか」
塀の向こうから掠れた声が聞こえてくる。
「裏切りではない。これは革命だ」
感情のない冷たい声が答えた。
二人はいったいなんの話をしているの? 何故、弦燐がお父様の首を投げ捨てたの? 何故、兄である白檑に刃を向けているの?
恐怖で体が震える。歯の根が合わない。これは夢だ。こんなのは現実なんかじゃない。現実であっていい筈がない。
弦燐が剣を振り翳す。白檑はそれをただ見ているだけで、槍を構えることすらしない。
銀の切先に反射して炎が揺らめく。
──待って、お願い待って。殺さないでっ!!!
言葉は声にならなかった。
唐突に視界が遮られ、目の前が真っ暗になる。
春蘭に覆い被さるように抱きすくめられて、その瞬間は見えなかった。
それでも、わかってしまった。
地面にぶつかる鎧の音。途切れた会話。去っていく一人分の足音。
必死に伸ばした手が行き場を失って宙を彷徨う。
途方もない喪失感が蓬凛に襲いかかって、最早立って歩くことすらままならない。
それでも蓬凛は焼け焦げた塀に手を這わせて立ち上がった。熱を帯びた高温の塀に皮膚が焼かれても関係ない。
「こんなの、嘘よ……」
視線の先には血溜まりの中、仰向けに倒れる白檑がいた。
肩口から鳩尾まで一直線に伸びた傷口からは、今も絶え間なく血が流れ出ている。
遠目に見ただけでわかる。あの出血量ではもう駄目だ。
見慣れた愛しい人の両の目は固く閉じられ、ピクリとも動かない。
もう二度と彼が返事をすることはない。
もう二度と彼が微笑みかけることはない。
もう二度と彼に会えない。
「……っ、白檑…………」
今日、城で騒ぎが起こってから今まで、ずっと泣くことを我慢していた。否、それどころではなかった。
生き延びる為に恐怖を押し殺して走り続けた。でも今、物言わなくなった白檑を目にした瞬間、堰を切ったよう涙が溢れて止まらなくなった。
どうして槍で抵抗しなかったのか。どうして死を選んだのか。どうして私を置いて逝ってしまったのか。
蓬凛は煩悶としながら白檑の元へ歩を進めた。
しかし数歩も歩かぬうちに、背後にいた春蘭が悲鳴のような声を上げた。
「皇女様っ! 危ない!!」
叫びとほぼ同時に物凄い勢いで蓬凛は突き飛ばされた。
瞬間、轟音が鼓膜を揺らす。まるで近くに雷でも落ちたかのような凄まじい音だった。
思わず閉じてしまった目を開くと、横にあった石壁が倒壊した建物に押し潰されて崩れていた。
ゴロゴロとした大きな石が散乱し、その上には火の粉を纏った瓦礫が覆い被さっている。
一番下には蓬凛を突き飛ばした春蘭が下敷きとなり、上半身だけが見える状態でうつ伏せに倒れていた。その表情は苦悶に歪み、目はきつく閉じられている。
それを見つけた瞬間、蓬凛は全身から血の気が引いていく感覚がした。慌てて立ち上がると、春蘭の上に覆い被さっている瓦礫に手をかけた。
「春蘭!!」
私のせいだ! 私を庇ったせいで春蘭は……!!
「絶対に助けるから、大丈夫よ!」
蓬凛は心の中で自分を責めながらも、口では春蘭を励ました。返事はない。それでも声をかけ続けた。
「大丈夫。絶対に、大丈夫だから」
極限状態の中、自分に言い聞かせるように発した言葉は語彙に乏しく、何度も同じ台詞を繰り返した。
その間にも瓦礫の山に燃え移った火は大きくなり、勢いを増していく。
焦燥感に駆られながら蓬凛は渾身の力を込めて瓦礫を持ち上げようとした。細かい砂礫やささくれだった木片が柔らかな指に食い込み、血が滲む。
鋭い痛みに襲われて蓬凛は顔を歪めた。こんな状況でなければとっくに手を引っ込めている。でも今は痛みなどどうでもよかった。
「動いて、お願いだから、動いてよ……!」
しかし蓬凛がどれほど力を込めようとも瓦礫はびくともしなかった。
もっと力があれば、もっと筋肉があれば。
どうしようもないとわかっていても、自分にないものを求めてしまう。
幼い頃から蓬凛は優秀な皇女だった。学問も楽器も礼儀作法も教えられればすぐになんでもできるようになった。特に何かをすることに対して苦労をした記憶はない。
だが今、目の前の瓦礫を持ち上げることができない。ただ重いものを持ち上げるだけの単純なことがどうしてもできない。
これまでの人生において、これほど自分の無力を嘆いたことはなかった。
「皇女、様……」
「春蘭!」
息も絶え絶えな声が春蘭の口から漏れる。予断を許さない状況ではあるが、それでも反応が返ってきたことに蓬凛は安堵した。
「待ってて、すぐに出してあげるから。気を強く持って! 絶対に助けるから!!」
蓬凛は心の中に巣食う不安を顔には出さず、精一杯強がって見せた。恐れを押し殺して手を引いてくれた春蘭のように。今度は自分が彼女を助ける番だと、蓬凛は自らを叱咤した。
「皇女様」
逼迫した状況には似つかわしくない穏やかな声が蓬凛を呼んだ。しかしその声に応える余裕が蓬凛にはない。
「皇女様」
もう一度、瓦礫の下で春蘭が呼ぶ。
蓬凛は目を向けぬまま応えた。
「もう少し待って、今この端の方が動きそうだから……」
「……行ってください、皇女様」
蓬凛の言葉を遮るようにして、春蘭は言葉を紡いだ。
言葉の意味をすぐに理解することができず、蓬凛は呆然と足元の春蘭に目を向けた。
「なにを、言っているの? そんな……、お前を置いていける訳、ないじゃない」
瓦礫に燃え移った炎は轟々と勢いを増している。
このままここにいれば春蘭は間違いなく炎に飲まれて死ぬだろう。それがわかっているのに一人逃げることなどできるわけがなかった。
「皇女様一人では、この瓦礫を持ち上げることは、できません……」
「なら、人を探して呼んで来る! それならいいでしょう!?」
「危険過ぎます……。誰が、敵か味方かも、わからないのに……」
「それならやっぱり私がこれを持ち上げるしかないじゃない! ねぇ春蘭! この右端の方なら少し持ち上がりそうなの。そうしたら隙間ができるから私が持ち上げている間に這い出て……」
「できません……」
「え?」
「両脚と、背中の感覚が……、ないんです」
瞬間、蓬凛の頭は真っ白になった。
「ここから出られたとしても、もう、歩けません……」
「……そんな…………」
「ここから先は、ご一緒できませんが、抜け道の場所は、おわかりになりますよね……?」
砂埃と血に塗れた顔を上向かせて春蘭は微笑んだ。
穏やかなその表情は己の最期を悟り、諦めた者の顔だった。
「……嫌」
「皇女様?」
「嫌よ! お父様と白檑だけでなく、春蘭まで……!」
春蘭。いつも笑顔を絶やさない太陽のような侍女。
春蘭の明るい性格は、幼い頃から体が弱く閉塞的な生活を送っていた蓬凛の心をいつも救ってくれた。
歳も近く親兄弟よりも親しい間柄と言っても過言でない。
そんな彼女を置いて行かなければならないなんて。
到底受け入れられるものではなく、蓬凛はその場に崩れ落ちた。
「逃げる……? 何故? どこへ行こうというの? お父様も白檑もいないのに。その上お前まで失って、何故まだ生きなくてはならないの? こんな、地獄を……」
涙が頬を伝っても拭う気力すら湧いてこない。溢れた涙は膝を濡らして衣に染みを作った。
「皇女様……」
言葉とともに蓬凛の手に春蘭の指先が触れる。
蓬凛は俯けていた顔を僅かに持ち上げた。
「皇女様には、守らなくてはならない存在が、おありの筈です」
春蘭の視線を追うと、自らの腹に辿り着いた。
「あ……」
自らの内に宿る命。今自分がここで死ねば、この子には会えない。
──そうだ。この子の為にも私は死ねない。
だがこの子を選ぶということは同時に春蘭との別れを意味した。
「春蘭……、私は…………っ」
視界の端で火の粉が舞う。もう本当に時間がない。
動けずにいる蓬凛の背を押すように春蘭は微笑んだ。
「皇女様。春蘭は、皇女様にお仕えできて幸せでございました」
春蘭はこれまでの人生で一番の笑みを見せた。
これから死んでしまうというのに、そんな恐ろしい事実さえ忘れさせてしまう表情だった。
死を覚悟した春蘭が見せる笑顔の意味が蓬凛にはわからなかった。
でも、これが本当に最後なんだと思った瞬間、蓬凛は急速に理解した。
「……春蘭っ、私も仕えてくれたのがお前で、本当によかった……!」
恐れも悲しみも虚無も孤独も、その全てを意識の外へ追いやって泣き笑いを浮かべる。
正直上手く笑えている自信はない。それでも蓬凛は笑みを作った。
こんなのってない。春蘭は真面目に慎ましく侍女として尽くしてきた。犯罪や不正に手を染めたことなどない。
何故、彼女がこんな最期を迎えなければならないのか。
こんな不条理が許されていいわけがない。
それでも、覆しようのない死という終わりが訪れるなら。
春蘭が最後に見る顔が、最後に残る自分の顔が、せめて笑顔であるように、心が悲鳴を上げようとも蓬凛は精一杯笑ってみせた。
それから城を脱出するまでの間の記憶はほとんどない。
気付いた時には、都から離れた川辺まで来ていた。
水が流れる音と、時折吹く風が草葉を揺らす音が聞こえるのみで恐ろしい喧騒は聞こえない。それでも、丘陵地に建てられた皇城が燃える姿だけは、遠くからでもよく見えた。
橙色の火柱が天に向かって伸びて、空も同じ色に染まっている。
「……ふっ、ぅ……うぅ……」
人の気配はないがどこに追手が潜んでいるかわからない。
自由に泣くことすら許されず、蓬凛は息を詰めた。抑えきれない嗚咽混じりの呻き声が夜の闇に吸い込まれていく。
燃えている。自分の居場所が。最早帰る家もない。
父を弔うことも、白檑に触れることも、春蘭を救うことも叶わなかった。
耐えきれなくなって蓬凛は燃え盛る王都の方角に背を向けた。
しかし向き直った川の水面は遠くに揺らめく火の色をたたえて、蓬凛を逃してくれない。
蓬凛はその光景を消し去ろうと両手で乱暴に水面を叩いた。追手がいるかも、などという考えは頭から完全に消えていた。
しかし叩いても叩いても、少しすると揺れる水面は元通り流れ始める。その度に燃える炎が蓬凛に残酷な事実を突き付けてくる。
死んだ人間は戻らない。そして彼らと過ごす筈だった日常もまた、彼らと共に死んだのだ。
「それでも……、私は…………」
蓬凛は自らのお腹を抱きしめるように体を丸めた。
この子の為に生きなければならない。強くあらねばならない。たとえどんなに辛く、死にたくなるような世界であっても。
その日蓬凛は、大帝国奏楊の終焉を見た。
次回も蓬凛の過去回想です。
次で回想は終わりです。




