22 血と代償
約一年振りの投稿になりました。
ここまで読んでくださった方、お待たせして申し訳ございませんでした。
22までの間のエピソードを大幅に加筆修正してあります。
ep16は特に加筆した箇所が多くなっていますので、読み直していただくことを強く推奨致します。
(2024.4.1)
昴耀城の最奥に位置する紫琉殿は寝宮としての役割を持つがゆえに白昼であっても静かな場所である。静寂に支配された空間は疲弊した心と体を癒してくれる心地良いものであったが、今は重苦しい空気が漂っている。
しかしそれも無理からぬことである。
病に伏して三年の月日を経てもなお、王が目を覚ます気配は全くない。希望すら見出せない現状に紫琉殿で働く者達の表情は暗く塞ぎがちになっていた。その様子を見るのは辛く悲しいものではあるが、それは浩佑がいかに人望厚く人々から愛されているかの裏返しでもあった。
晄黎は暗澹たる空気を振り払うように寂寞とした宮殿内を大股で歩いた。すれ違う誰も彼も覇気に欠けている。だがそれももうすぐ終わる。晄黎は香珠から受け取った結晶を強く握りしめた。
浩佑の寝室の前まで来ると、晄黎は一度大きく深呼吸をして息を整えた。外に控える侍従に扉を開けさせると、部屋の中へと足を踏み入れる。
室内には病に効くとされる香が焚かれており、薄荷に似た匂いが充満していた。正面奥には文机があり、向かって左手にはこの部屋唯一の窓がある。木彫りの格子窓からは斜陽が差し、薄暗い室内を橙色に染めていた。
晄黎は部屋の右手に目を向けた。いつもは降りている牀榻の幄が今日は開けられている。遠目からでも力なく横たわる浩佑の姿がよく見えた。
頬はこけ、唇は色を失い、肌は土気色に変わっている。すっかり衰弱してしまったその姿は目を背けたくなるほど痛々しいものだった。
晄黎は込み上げてくる悲しみを抑えると、囁くような声で呼びかけた。
「こちらにおいでだったのですね、母上」
上がった帳の内側、蓂抄は牀榻の端に腰を掛けて生気の感じられない王の寝顔を眺めていた。
「大変な時に眠ってばかりいるこの人に小言を言いに来たのです」
顔を向けぬまま蓂抄は淡々と答えた。
その横顔からはどんな感情も読み取れない。
幼い頃はそうではなかった。だが城にやってきて一緒に過ごす時間が減ってからは、母がなにを考えているのかがわからなくなった。
「そなたの方こそ、どうしたのですか」
蓂抄はようやく顔を向けて晄黎に尋ねた。
正面から相対しても蓂抄が悲しんでいるのかそれとも怒っているのか、判然としなかった。ただほんの少し、冷静沈着な顔に疲労の色が浮かんでいるように見えた。
晄黎は香珠から預かった結晶を取り出すと、蓂抄に差し出した。
「これは?」
「香珠の血液を凝固させた結晶です。これで陛下を助けることができます」
「そう……。香珠、あの子が……」
蓂抄は結晶を手に取ると、なんとも言えない表情でそれを眺めた。
「いつあの子の存在に気付いたのですか?」
「私が腕を負傷した翌日に」
「急に刺繍がしたいだなんて、おかしいと思ったのです」
言いつけを守らなかったことを咎められるかと思ったが、蓂抄は得心した様子で頷いただけだった。
それきり黙り込んでしまった蓂抄に、晄黎はどう話を切り出すべきか思案した。
言葉を選んでいるうちに、蓂抄の方が先に口を開いた。
「櫂琰国がこの国にも手を伸ばしてきたそうですね」
「一連の騒動が全て櫂琰国によるものと決まったわけではありませんが、陛下の病も景南国との争いも、恐らくは……」
「そなたはどうしたいですか」
尋ねる蓂抄の瞳が不安そうに揺らぐ。それは晄黎が初めて見る弱った母の姿だった。
「強大な力を持った弦燐と戦いますか? それとも服従を選びますか?」
「……戦います。櫂琰国による支配を受け入れれば麓槙は幸福とは程遠い道を行くことになる。母上は反対するかもしれませんが、私は剣を手に戦います。この命がある限り」
晄黎は腰に佩いた剣を掴むと、迷いなく答えた。
蓂抄は項垂れると、膝の上に置いた手をギュウッと強く握った。
「それがそなたの選択なのですね」
何かに耐えるように、自分に言い聞かせるようにそう呟くと、蓂抄は顔を上げた。その顔には、もはや不安に押し潰されそうな様子は微塵もなかった。
「太子。ずっと、そなたに話すべきか迷っていたことがあります。それを知ればそなたは強い力を得る代わりに、自らの運命から逃れる術を失うことになるでしょう。それでも知りたいと思いますか?」
わざわざ念押しをするほどに、運命とやらは過酷なものなのだろうか。心臓が早鐘を打つ。恐れがないといえば嘘になる。だが晄黎には退路を失っても掴みたい未来があった。
「私には母上の言う運命というものがどのようなものなのかはわかりません。ですがその運命がどんなに辛く険しいものだとしても、私は抗い続けます。争いのない平和な世を築くために」
「ならば私も腹を括りましょう。ですが、先に聞かねばならないことがあります」
蓂抄は結晶を翳すと険しい表情で晄黎を見つめた。
「太子。そなたこれを貰い受けるにあたって、あの子に血を差し出すよう強要などしておるまいな」
「決してそのようなことはしていません」
「その腕も?」
蓂抄の視線が負傷した右腕へと注がれる。周囲の目を気にしてわざと包帯は巻き直していたが、母にはお見通しであったらしい。
晄黎は右手に力を込めると鋭い追及の視線を正面から受け止めた。
「はい」
「そうですか……。それを聞いて安心しました」
蓂抄は目元を和らげると、詰めていた息を吐き出した。
それから牀榻脇の台から摺鉢を手に取ると、結晶を砕きすり潰した。鈍い音が部屋に響く。晄黎は黙って結晶が粉末になっていく様を眺めていた。
「太子、そなたは香珠の血についてどの程度知っておる?」
手を止めることなく蓂抄は尋ねた。
晄黎は少し考えてから、そういえばあまりよく知らないことに気が付いた。
「怪我や病を治癒する力を持っているとしか」
「では陛下が彼女の血による治療を拒んでいた理由は?」
「香珠に血を流させたくなかったからではないのですか?」
蓂抄は手を止めると、遠くを見つめた。
「……そう。あの子肝心なことは言わなかったのですね。そなたの腕を治した手前、言い出せなかったという方が正しいか」
「どういうことですか」
含みのある言い方に胸騒ぎを覚え、晄黎は怪訝な顔をした。
「確かに香珠の血は特別なもの。しかしそれ自体に傷や病を癒す力がある訳ではなく、正確にはただの媒介に過ぎないのです」
「媒介?」
「自分の命と相手の命を繋ぐ媒介」
蓂抄は硝子製の薬呑器に水と粉末を混ぜ入れると、慎重に浩佑の口に含ませた。喉がゆっくりと上下に動き、流し込まれた薬を飲み下す。全て飲ませ終わると蓂抄は再び晄黎に向き直った。
「香珠の本当の力は血液による再生能力ではなく、血液を通して生命力を譲渡する力。つまりあの子は自分の寿命を削って人に与えることで他者の傷や病を治している。それは代償を伴う行為であり、ただ一時的に傷をつくるだけで済むものではない」
「そんな……」
香珠の命を奪っていた。その恐ろしい事実に身体中の血の気が引いていく。香珠の傷は表面的には治っても、寿命が戻ることはない。一度の譲渡でいったいどれほど寿命が縮まるのだろうか。一年? それとも十年? わからない、ただ一つだけわかることは。
「……私は、取り返しのつかないことをしてしまった」
「太子。香珠はなんと言ってその腕を治したのですか」
──晄黎様には、剣を握ることのできる腕が必要だと感じたからです。
あの日、彼女が言った言葉が蘇る。
──晄黎様ならば、戦乱の世にあっても人の心を失わず、平和の為に尽力してくださると。
彼女の命は願いという希望のもとに形を変えて晄黎を救った。
「あの子は自分の命を縮めることを知っていて、そなたの腕を治した。それだけの覚悟を持ってのことです」
晄黎がすべきは後悔でも謝罪でもない。行動で彼女に命を返していかなければならないのだ。彼女の望む平和な世界を実現すること。それこそが晄黎にできる唯一の罪滅ぼしであり、恩を返す方法だ。
「だから陛下は香珠の血による治療を拒んだのですね」
「陛下は自分が助かる為に香珠に犠牲を強いることを良しとしなかったのです。そして私を含め、他の誰一人として香珠に治してもらうべきと進言することはできなかった」
代償があることを知っているのなら無理もないことだ。
しかし晄黎は母が合理的な人間であることを知っている。
蓂抄はかつて命の優先順位を晄黎に説いた。それに当て嵌めて考えれば、優先されるのは香珠よりも一国の王である浩佑の筈だ。
それでも浩佑の意思を優先させたのは一体何故なのだろうか。
晄黎は黙って蓂抄の言葉を待った。
「陛下にとって香珠が特別な存在……娘だったからです」
「娘……?」
言葉は理解できているのに、情報処理が追いつかない。
頭を殴られたような衝撃を受けて、晄黎は呆然と蓂抄の言葉をなぞった。
「では、香珠は私の妹だということですか?」
「いいえ、それは違います」
動揺する晄黎の言葉を蓂抄はきっぱりと否定した。
「そなたと陛下の間に血縁関係はありません」
ずっと心の片隅で燻っていた疑念。もしかしたらそうなのではないかという認めたくない事実。突き付けられた残酷な真実に晄黎は言葉を失った。
──偽物だった。王子じゃなかった。みんなを騙して自分は王太子の椅子に座っている。
これまで自分を王太子として認めて接してくれた大勢の人の顔が脳裏に浮かび、罪悪感が湧き上がった。
これからどんな顔をして皆の前に立てば良い?
立ち尽くす晄黎の手に何かが触れた。あまりにも弱々しいので手を握られるまでそれが人の手だということに気付けなかった。
ハッとして横を向く。目に飛び込んで来たのは朦朧とした様子で晄黎に手を伸ばす浩佑の姿だった。
「っ! 陛下っ!!」
晄黎は膝を突くと枯れ枝のような浩佑の手を慌てて握り返した。
「……晄黎…………、ずっと、黙っていてすまなかった」
掠れた声で浩佑は懸命に言葉を紡いだ。
「……お前と臣下の間に軋轢があることも、後継者として相応しい人間になろうと、並々ならぬ努力をしていたことも知っていたのに……。ずっと、お前に甘えて、本当のことを話せずにいた……」
「いえ、それより、私のせいで香珠が……」
浩佑が自らの命よりも優先していた大切な娘の寿命を晄黎は奪ってしまった。申し訳が立たなくて晄黎は最後まで言葉にできなかった。
浩佑はゆっくり手を伸ばして晄黎の頭を撫でると、優しく微笑んだ。
「朦朧とした意識の中でも、二人の会話は聞こえていたよ……。香珠自身が決めたことに、私がとやかく言う資格はない」
「っ、ですが……!」
「それに、血の繋がりはなくとも、お前が私の大切な子であることに変わりはない。どうして我が子の命を天秤にかけ、量ることができようか」
浩佑の言葉に目頭が熱くなる。
「晄黎、大変な時によく頑張ってくれた……。ありがとう。お前は私の自慢の息子だ……」
「……父上」
晄黎は浩佑の手を自分の額に付けると、肩を震わせた。
辛く、苦しい三年だった。先の見えない戦いと、民を守りきれないことが恐ろしかった。それでも、自分の行いには意味があると信じて剣を振り続けた。
それが今日、父の一言で報われた気がした。
「蓂抄」
「はい、陛下」
「全て話すと決めたのだね」
「……はい」
「そうか」
浩佑は案ずるような顔を蓂抄に向けたかと思えば、困ったように微笑んで目を閉じた。
「父上?」
そのまま目を開けない浩佑が心配になって、晄黎は慌てて呼び掛けた。晄黎とは対照的に冷静さを欠かない蓂抄が身を乗り出して様子を確認した。
「眠っているようですね」
確かによく見ると僅かに胸が上下している。
晄黎はホッと息を吐いた。
「伯濯に診て貰いましょう。香珠の力が働いているとはいえ、どの程度回復しているのかわかりませんからね」
蓂抄は立ち上がると扉の外に待機している侍従に伯濯を呼ぶように指示を出した。
「あの、母上。伯濯も香珠のことは……」
「承知しています。でも黙っていたことは責めないでおやり」
「分かっています。父上や母上の意を汲んでのことでしょうから。責めるつもりなど毛頭ありません」
むしろ晄黎に喋ってしまっていたらそれこそ問題である。
蓂抄は微かに口の端を上げると、再び牀榻の端に腰を下ろした。
「そなたのことを話すには、まず私のことを話さなければいけませんね。少し長い話になりますから、お座りなさいな」
晄黎は言われた通り椅子を引っ張ってくると、牀榻に腰掛ける蓂抄の前に座った。
ところが蓂抄はいつまで経っても口を開こうとしない。それどころか俯き手で口を抑えてしまった。
「母上?」
不審に思い顔を覗き込んだ晄黎は、血の気を失い苦悶の表情を浮かべる母の姿に驚倒した。
「母上!!」
咄嗟に呼び掛けるが蓂抄は激しく咳き込むばかりで返事ができる状態ではない。ゴポッという聞き慣れない咳の音がして晄黎は心臓を掴まれたような心地がした。
恐る恐る蓂抄の手に視線をやる。口元を抑えた指の隙間からは血がこぼれ落ちて衣に赤い染みを作った。
蓂抄の体からフッと力が抜けて、晄黎にもたれかかる。
「母上! 聞こえますか! 母上!!」
応答はない。意識を失ったのだとわかると、晄黎は慌てて扉の外に呼び掛けた。
「誰か! 手を貸してくれ!」
張り詰めた晄黎の声を聞いて女官や侍従が部屋に飛び込んで来る。
ぐったりとして動かない蓂抄の姿に女官の一人が悲鳴を上げた。
その日、紫琉殿は恐慌状態に陥った。




