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黎明記  作者: 春咲 司


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21 葛藤

「手の傷は痛むか?」


「いいえ。大した怪我ではありませんから」


 晄黎が尋ねると、香珠はそう言っておっとりと微笑んだ。

 美味しそうに林檎の蜜漬けを頬張る姿からは、無理をしているようには見受けられない。

 だが先日手に傷を負った時は顔面蒼白で今にも倒れそうな様子だったので、やはり心配は尽きなかった。


「晄黎様は大丈夫ですか?」


「ん? 私の腕は君が治してくれたからもうなんともない」


「いえ、そうではなくて」


 香珠は何かを訴えかけるような目で晄黎を見つめてきた。

 香珠の言いたいことが分からなくて晄黎は首を捻る。一体どうしたのだろうかと考えること暫し、晄黎は香珠の椀の中身が空になっていることに気が付いた。


「なんだ。そんなに気に入ったのか」


 晄黎は自分の分の蜜漬けを楊枝で刺すと、香珠の口元まで運んでやる。


「ほら」


「ひゃっ!? え、あ、その、違っ!」


「遠慮するな。私には少し甘いと思っていたところだ」


「で、ですが……」


「いいから。早くしないと手が汚れる」


 香珠は顔を真っ赤にして食べるのを躊躇っていたが、晄黎がもう一度「早く」と促すと、観念してパクンと口に入れた。

 香珠は恥ずかしそうに咀嚼をしていたが食べ終わると再び晄黎を見つめた。

 その表情は悲しげで晄黎を案じているように見えた。


 どうやら林檎を食べたかった訳ではないらしい。

 違ったのか、と晄黎は心の中で呟いた。

 しかしそれなら彼女はなにが言いたいのだろうか。疑問に思いつつも、晄黎は香珠が口を開くのを待った。


「……晄黎様。私が申し上げたかったのは、その、なんだか晄黎様が疲れていらっしゃるように見えたので、心配で……」


 じっと、大きな瞳で見つめられて晄黎は息を呑んだ。

 どうして分かったのだろうか。

 たしかに、一つでも対応を間違えば国が滅んでしまうかもしれない事態に直面して晄黎の心は疲弊していた。

 王は昏睡状態で、官吏達は疑心暗鬼に陥り、今の自分には国を一つにまとめる力も人望もない。

 どうしようもないほどの無力感と焦燥感に苛まれたが、それを表に出したつもりは全くなかった。


「ご無理を、なさっていませんか?」


 辛い。どうしたらいいのかわからない。

 そんな泣き言を聞かせて、香珠を不安にさせたりしてもいいのだろうか。いや、いいはずがない。


 大丈夫だと、笑って誤魔化してしまえばいい。そう思っていたのに。

 香珠がそっと晄黎の手に自分の手を重ねる。手から伝わる温もりは晄黎を励ましているようで、言葉に詰まった。

 真っ直ぐに見つめてくる香珠を前に、張り付けたはずの笑顔はどんどん剥がれ落ち、取り繕うことができなくなった。


「……お見通しか」


 晄黎は観念して、そっと息を吐いた。


「無理はしていない。ただ、あまりにも大きな問題が首をもたげてこちらに襲いかかってきたものだから、どうしたものかと悩んでいるんだ」


「櫂琰国のことですか?」


「何故それを?」


「風の噂で」


 驚く晄黎に、香珠は自嘲の笑みを浮かべる。

 そうだった。彼女は隔離されているが情報なら風に乗っていくらでも入ってくる。

 ここは静かで穏やかな時が流れているから勘違いしてしまいそうになるが、決して隔絶された空間ではないのだ。

 城内の騒ぎを知り香珠自身も不安であるに違いない。

 それなら変に隠し事をして「大丈夫だ」なんて嘯いたところで、彼女にとってはなんの気休めにもならないだろう。


「もし櫂琰国が旧奏楊国の領土全ての制圧を完了しているのであれば、大陸の北側半分が敵になる。国土は麓槙の二十五倍だ。戦になれば、まず負けるだろう」


「そうですか……」


 正直に自分達が置かれている立場を説明すると、香珠は静かに相槌を打った。取り乱したりしないのは、この答えを予想していたからに違いない。


「協議では櫂琰国に恭順の意を示し、無駄な争いは避けるべきとの声も散見された。……だが、私は戦うつもりだ」


 晄黎は強く拳を握り込んだ。


「降伏したところで、彼らが景南国へ行った仕打ちを考えれば民の命を脅かさない保証などどこにもない」


 実際に征服された北部地域では重い税が課せられたり、国民が奴隷にされているとも聞く。

 だが、理由はそれだけではない。


「それに、陛下を病によって苦しめたことを許すことなどできない」 


 病床で力なく横たわる父を思い出す。すっかり痩せ細ってしまった体。正気の感じられない土気色の顔。

 微かに上下する体だけが生きていることを示してくれる。だが今日は乗り切れても明日はどうだ。

 まだ頑張れるだろうか?

 また優しく微笑んでくれる日は来るのだろうか?

 今日が最後の日になってしまうかもしれないと、何度思っただろう。


「晄黎様は既に戦うとお決めになっているのですよね?それなのに悩むのは何故ですか?」


「言っただろう。戦ったところで勝ち目はないと。負けると分かっている戦いに兵を駆り立て死地に送り込むことは、本当に正しいことなのだろうか? 玉砕覚悟で戦うことを、民は望むだろうか? 戦いの道へと舵を切ろうとする私の行為は、許されるのだろうか」


 戦っても降伏しても麓槙という国がなくなる未来は、恐らく避けようがない。

 だが降伏すれば少なくとも命は助かるかもしれない。どんな扱いを受けるのかは、わかったものではないが。

 それなら僅かでも望みがある選択を、民を生かす道を選ぶべきではないのか。自分の心を押し殺してでも。


「やはり晄黎様は誰よりも優しいお方です。この国に暮らす一人一人の顔が見えていらっしゃいます」


「見えていたところで、力がなければ意味がない」


「いいえ、晄黎様は決して無力などではありません」


 力強い物言いに晄黎は反論の言葉を失った。そして戸惑った。出会って間もない香珠がどうしてそんなことを断言できるのか、晄黎には不思議でならない。


 そんな晄黎の葛藤などお構いなしに香珠は言葉を続けた。


「晄黎様には誰かに反対されても曲げられない気持ちや、貫き通したいことはありますか?」


「ああ、あるよ」


 その問いが何を意味するのかはわからなかったが、晄黎は迷いなく答えた。

 それを聞いた香珠は満足そうな顔をしたかと思えば、表情を曇らせて遠くを見つめた。


「……私には、ありませんでした」


 ぽつりとこぼした言葉は、悔いるような響きを含んでいた。


「私の血を使えば、病に侵された陛下をお助けできる。でも私はそれをしませんでした。陛下がそれを望まれなかったからです」


「陛下は香珠を傷付けたくなかったのだろう」


「……そうですね」


 香珠は悲しそうに顔を歪めた。


「私の血で陛下のお体が良くなるのであれば、私は躊躇なくこの身に刃を突き立てられます。けれど私は自分の意思を貫き通せなかった。私自身の気持ちよりも、陛下の願いを優先したからです」


 香珠の声は微かに震えていた。

 晄黎には彼女の葛藤する様が見てとれた。


「晄黎様。誰かを思いやり尊重することは大切なことです。ですがそれがいつも正しく、その人にとって良い方向に働くとは限りません。現に私は陛下の気持ちを尊重することで陛下を見殺しにしようとしている。助ける力が私にはあるのに」


「だが香珠、私にも麓槙にもそんな力は」


「いいえ、もう一度申し上げます。晄黎様は決して無力などではありません。晄黎様には力があります。生まれ持った力とご自身で育んだ力が」


 香珠は晄黎の言葉を遮ると言い切った。


「それに麓槙一国では無理でも同じ脅威に抗う国同士が同盟を結び、手を取り合えば勝機はあります」


「たしかに勝つ為にはそうするべきだ。だが、そう上手くいく話ではない」


 東部は大陸の中でも特に麓槙のような小国がひしめく地域。

 大国櫂琰に立ち向かおうという気概のある国がどれほどあるだろうか。

 仮に同盟を組めたところで、どの国が上に立ちまとめるかで必ず揉めるだろう。それに即席で組んだ同盟ほど脆いものはなく、逆に櫂琰に寝返ったりする国が出て足元を掬われかねない。


「大丈夫です、晄黎様ならできます。いいえ、晄黎様にしかできません」


「わからないな。どうしてはっきりと言い切れるんだ」


「それは……」


 言いかけて、香珠はきつく唇を引き結んだ。


「香珠」


 呼び掛けると、香珠は両目を強く瞑った。

 理由は不明だが、恐らく彼女には確信があるのだろう。

 だから晄黎の力を信じられるし、自傷行為に及んでまで腕を治したのだ。


「君は、何を知っているんだ」


 二人の間に沈黙が落ちる。

 香珠は目を閉じ俯いたまま微動だにしない。

 一陣の風が梢を揺らし桃の花びらが一斉に散る。耳環が奏でるシャラシャラという音がやけに大きく聞こえた。


「……私の口から申し上げることはできません」


 決まりが悪そうに香珠は声を絞り出した。

 表情と声音から香珠の葛藤が伝わってきて、晄黎は追及の言葉をグッと飲み込んだ。


「そうか……」


 晄黎様にしかできない。彼女がそう断言した理由を知ることができれば迷いや不安を拭い去ることができるかもしれない。

 だが無理に聞き出すようなことをして香珠を困らせるような真似はしたくなかった。


 できるだけ負い目を感じさせないように作り笑いをした晄黎だったが、すぐに失敗したな、と晄黎は後悔した。

 取り繕った笑みなど通用せず、香珠の顔はみるみるうちに悲痛なものに変わっていく。


 どうして上手く自分の感情を隠せないのだろう。どうして香珠は、心の内に押し込めた晄黎の本音に気付いてしまうのだろう。


「すまない、そんな顔をさせるつもりはなかった」


 晄黎は謝罪するとゆっくりと立ち上がった。


「そろそろ戻るよ。風が冷たくなってきたから体を冷やさないようにな」


 踵を返すと不意に衣の裾を引かれた。

 思いのほか強い力で引き止められて晄黎は目を丸くした。


「香珠?」


「たしかに私の口からは申し上げられませんが、陛下や蓂抄様は違います」


 香珠は懐から巾着を取り出すと中から薄紅色の結晶を取り出して見せた。


「それは?」


「私の血液を凝固させて結晶にしたものです。どれほど効果を発揮するかはわかりませんが、陛下を目覚めさせることは可能かと」


「まさかまたどこか切りつけたのか!?」


 晄黎は慌てて香珠の手や腕を確認した。

 呆気に取られてされるがままになっていた香珠だったが、しばらくするとふふっと小さく笑みを溢した。

 真面目に心配しているというのに呑気に笑っている香珠に晄黎はムッとした。


「なぜ笑うんだ」


「申し訳ありません。心配して下さるのが嬉しくて」


 あまりにも幸せそうな顔で微笑みかけるので、晄黎は気恥ずかしくなって目を逸らした。


「それにこれは前に晄黎様が止血する際に使った手巾から採取したものですから、どこも怪我しておりません」


「そうか……良かった……」


 晄黎はホッと安堵の溜め息を吐いた。


「晄黎様、これを使って下さい」


 これがあれば陛下を救うことができる。いつ事切れてしまうのかと不安に怯える日も終わる。しかしそれでも晄黎は差し出された結晶を受け取らなかった。

 その前に聞かねばならないことがある。


「いいのか?これは陛下の意思に背く行為だろう」


「……そうですね。怒られてしまうかもしれません。でも……」


 香珠はギュッと結晶を握り締めた。


「困難な状況の中、悩みながらも王太子としての責務を全うしようとしている晄黎様をお助けしたいのです」


 それに、と香珠は続けた。


「晄黎様を理由に陛下の意思を捻じ曲げるのはずるいかもしれませんが、私も自分自身の意思で陛下をお救いしたい」


 香珠は晄黎の手を開くと結晶を乗せた。


「晄黎様が櫂琰国に立ち向かわんとする意思をお伝えすれば、お二人はきっと話してくださるはずです」


「……ありがとう、香珠。君には助けられてばかりだ」


「私も晄黎様から大切なものを頂きましたから」


「大切なもの?」


「一歩踏み出す勇気です」


 思わぬ言葉に晄黎は目を点にした。

 彼女といる時は弱音を吐いてばかりで格好悪いところしか見られていないのに、一体なにが香珠に勇気をもたらしたというのだろうか。言葉自体は嬉しいがどうにも釈然としない。


「どの辺りに勇気を与えるような要素が……。そんなものなかったように思うが」


「なにが心の琴線に触れるのかは人それぞれ違いますし、影響を与えた当人は気が付かないものですから」


「そういうものなのだろうか」


「はい、そういうものです」


 無邪気な微笑みを向けられて晄黎は頬を緩めた。

 なるほど、たしかにそうなのだろう。

 香珠と過ごす時間は擦り切れそうな心を繋ぎ止めて、二の足を踏む情けない背中を押してくれる。過ごした時間は短いが、晄黎にとって香珠の存在はとても大きなものになっていた。だが香珠はきっと自分が心の拠り所になっているとは露程も思っていないのだろう。

 きっとそれと同じなのだ。


 今麓槙を取り巻く状況は非常に険しく、先の見えない暗闇の中を彷徨っている。

 この先に待ち受けているのは地獄かもしれない。終わりのない戦いかもしれない。

 それでもきっと、立ち止まることは許されない。

 君に恥じることのない人間でありたいと願うから。

 晄黎はかつて深手を負った右腕で結晶を握りしめた。


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