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黎明記  作者: 春咲 司


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20 束の間

 榻鷣の防衛に成功した。晄黎がその報告を受け取ったのは、景南国による侵攻を受けてから四日目のことである。

 防衛に成功したとは言っても、前線では依然として両軍睨み合いの膠着状態が続いているという。


 報告によると敵軍は二万という数を残しているが、攻めてくる気配はないそうだ。

 先の戦闘で地下通路が崩落したことが原因ではないか、というのが稜雲の見解である。

 敵からすれば、いつまたこちらが地下を崩落させるかもわからない上に、緩くなった地盤を軍馬で駆け回れば二次崩落の恐れがある。その為、安易に大軍を動かすことができずにいるのだ。


 ひとまず危機が去り、城内の者達は安堵に胸を撫で下ろした。

 しかし稜雲からもたらされたのは、朗報だけではなかった。


 景南国の王子と名乗る梗玥が語った国の実情。国王浩佑の病の出所。榻鷣と王宮内で起こった要人の暗殺。市場に流通していないはずの天原草。全てが櫂琰国の手によるものだとしたら、麓槙一国の力では抗う術などない。


 急浮上した別の問題に、晄黎達は戦慄した。

 しかし手をこまねいている訳にもいかず、晄黎は慧梏と連名で各官を招集し、今後の対策を協議した。


 ところが内通者の存在に疑心暗鬼になった官吏達は、互いを疑って罵り合いを始めてしまった。

 内輪揉めをしている場合ではないというのに、結局なんの解決策も見出せないまま協議はお開きとなった。


 それが今朝のことである。


 喧々轟々とした協議によって心身ともに疲弊した晄黎は、小さな手土産を片手に香珠が隠れ暮らす離れに足を向けた。

 皆が一度頭を冷やし、落ち着きを取り戻すまでは話し合いなどできよう筈もなく、官を再招集するまでに時間が空いたからである。


 この一刻争う大事な時に香珠の元を訪れようと思ったのは、自分のせいで手を怪我させてしまった負い目があるからだった。

 見舞いに行くのであって、他意はない。

 晄黎は心の中で、誰にともなく言い訳をした。


 人目につかぬよう注意しながら離れに続く木戸を開けると、狂い咲きの桃の花びらが晄黎を出迎えた。

 同じ昴耀城の中にあっても、この空間だけは他とは違う静謐な空気が流れている。


 晄黎は強張っていた自分の体から力が抜けるのを感じた。その時初めて自分が肩肘を張っていたことを知り、ゆっくりと息を吐き出した。


 奥にひっそりと佇む建物へと目を向けると、香珠は濡れ縁に腰掛けて、熱心に何かに取り組んでいた。

 近付いてみると、手に持っているのが布と針であることがわかる。どうやら刺繍をしているようだ。

 真剣な眼差しで布地に針を通す彼女は、入って来た晄黎には気付いていない。


「香珠」


 驚かせないように、晄黎は優しく彼女の名を呼んだ。

 すると香珠は弾かれたように顔を上げた。互いの視線がぶつかると一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに彼女は愛らしい笑みを浮かべた。


「晄黎様」


 鈴を転がしたような美しい声で呼び掛けられる。名前を呼ばれただけなのに、晄黎は自分の顔が緩むのを感じた。

 擦り減った心が満たされていくような感覚に、白凰には精神的疲労をも回復する力があるのかもしれないと思った。


「刺繍をしていたのか?」


 晄黎は香珠に歩み寄ると、その手元を覗き込んだ。

 柔らかそうな綿布の表面には、赤と金の糸による刺繍が施されている。


「これは鳥だろうか?翼を広げた様がとても良い味を醸し出しているな」


 晄黎がそう言って賞賛すると、香珠は目を瞬かせた。

 そのまま何も言わずに固まってしまう。

 照れるか、謙遜するか、礼を言うか、なにかしら反応があると思っていた晄黎は妙な沈黙に戸惑った。

 何かまずいことを言ってしまっただろうかと思案していると、香珠は目を潤ませながら晄黎をじろりと睨んできた。


 思いもよらぬ反応に、晄黎はポカンと香珠を見下ろした。

 対する香珠はといえば、頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。


「これは、花です。……鳥じゃありません」


 恥ずかしそうに、でも少し怒ったようにポツリと香珠は呟いた。耳まで真っ赤になっているのが可愛らしくも不器用で、晄黎は微笑ましく思った。


「すまない、怒らないでくれ」


「お、怒っていません」


 怒っていないとは言うものの、香珠は晄黎の方を見ようとしない。

 仕方がないので晄黎は反対側へ回り込むと、厨房から持ってきたとっておきを彼女の前に差し出した。


 女官達に大人気の林檎の蜜漬けである。涼しげな硝子の椀に取り分けられたそれは、日差しの下で宝石のようにキラキラと輝いている。


 雲間から太陽が顔を覗かせるかのように、香珠はパァッと表情を明るくした。


「間食に丁度いいとは思わないか」


 そう言って微笑みかけると、香珠は恥じ入るように俯いた後コクンと小さく頷いた。

 どうやら、手土産は喜んでもらえそうである。


 以前訪れた時と同じように二人は濡れ縁に足を投げ出して腰を掛けると、晄黎が見舞い用に持ってきた林檎の蜜漬けに舌鼓を打った。


 香珠は小さな口で蜜漬けを頬張ると、背中の羽根をパタパタと動かした。どうやら気にいってくれたようで、ひとくち、ふたくちと、食べる手が止まらない。


「美味いか?」


 晄黎がそう尋ねると、香珠はとびきりの笑顔で何度も頷いた。


 線の細い娘なので、食が細いのではないかとも心配していたが、この様子を見るに杞憂だったようである。

 香珠があまりにも幸せそうに食べるものだから、晄黎は目が離せなくなってしまった。


「晄黎様? 食べないのですか?」


 とうとう香珠に声を掛けられてしまい、晄黎はうーんと唸った。


「いや、見ているだけで腹が膨れてしまった」


 そう答えると、香珠はキョトンと目を瞬かせた。


「しかし、まさか刺繍が苦手とは思わなかったな」


 そうならざるを得なかったとはいえ、箱入り娘の香珠なら刺繍など朝飯前だとばかり思っていた。

 香珠の思わぬ一面を知ってしまい、晄黎は笑み崩れた。

 もう、揶揄うのはやめてくださいませ、と香珠は拗ねたように言った。


「針は危ないからと、使わせてもらえなかったのです。ですが、今回は特別にお願いして道具を用意してもらいました」


「何故だ?」 


「止血の際に晄黎様の手巾を一枚、駄目にしてしまいましたから」


「私の為に作ってくれていたのか?」


「……本当は、きちんと完成させてからお見せしたかったです」


 香珠は綿布をぎゅっと握り込むと、すっかり気落ちした様子で呟いた。


「君が私の為に苦手なことに挑戦してくれただけで、私は十分に嬉しい。それに刺繍だって素敵にできているじゃないか」


「でも、鳥に見えるのですよね?」


 じっ、と香珠が上目遣いに晄黎を見上げる。美しい柘榴石の瞳にはどこか不満気な色がチラついていた。


「否定はしないが、好きなことに変わりはない」


 断言すると香珠はふっと、表情を柔らかくした。


「それならこのまま頑張って作ります。出来上がったら受け取ってくださいますか?」


「ああ、楽しみに待っている」



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