19 景南の王子
孫允に案内された部屋の中には、二人の男が腕を縛られた状態で椅子に座っていた。
一人は切れ長の瞳と肩口まで伸びた紫檀の髪が美しい若い男。もう一人は日焼けが目立つ肌に無精髭の生えた中年の男だ。
二人とも砂埃にまみれ手足には小さな傷が幾つもあるが、どちらがそうなのか、など聞く必要もないだろう。
景南国の王、董照には二人の子供がいるらしいが、年齢を考えると当て嵌まるのは若い男の方である。
「景南国の王子を名乗ったのは、そなたか?」
稜雲は若い男の前で足を止めると、静かに問うた。
「いかにも。景南国王、董照が第一子梗玥である」
梗玥は稜雲ら幕僚を前にしても物怖じすることなく、堂々と名乗った。
肝が据わってるなぁと、駿栄は一人感心した。もし自分が逆の立場だったら、こんな風に背筋を伸ばして真っ直ぐに相手を見ることができるだろうか。
自分は丸腰で、相手は武器を持った大男。返答を誤れば即斬り殺されるかもしれない状況。
いや、無理だ。心臓が保たない。駿栄はひっそりと顔を青くした。
「そうか。しかし我々には、そなたが本当に景南国の王子であるのか確かめる術はない。それとも、そなたは証明できるか? 自分が真に景南国の梗玥王子であると」
稜雲の言葉には敵愾心もなければ、他国の王族を敬うようなものもない。ただ、純粋に尋ねているのだ。
しかしこれは非常に難しい問答であった。
景南と麓槙の国交が無くなって二十年あまり。
稜雲を含めこの場にいる誰一人として、景南国の実情や国王董照および、その子らの顔を知る者はいない。
そもそもである。梗玥は王子を名乗っているが、身なりはそこらの農民と変わらぬような襤褸を着ている。
誰がどう見ても平民にしか見えなかった。
「私の懐に硯が入っている。唯一、私が身分を証明できるものだ」
「硯?」
駿栄は思わず疑問を声に出してしまった。
硯といえば、書き物をするのに用いる道具である。そんなものは王族でなくとも、文官や商人であれば誰でも持っているものだ。
稜雲もまた同じように思ったのだろう。僅かに眉を顰めるとじっと梗玥を眺めた。
値踏みするような視線を、梗玥は真っ正面から受け止めていた。
「駿栄」
隣に立つ稜雲が駿栄を呼ぶ。
短い言葉から意図を汲み取って、駿栄は渋面を作った。
「えぇぇ……。男の服をまさぐるのは趣味じゃないんだけどなぁ」
しかし大司馬からの命とあらば仕方がない。駿栄は渋々、梗玥の懐から硯を取り出した。
駿栄は手にしたそれを目にした瞬間、あまりにも見事な螺鈿細工に息を呑んだ。
黒い硯本体には、景南国の国花である桔梗の意匠が施されており、一目で高価なものとわかる代物だった。
「どう見ても、実用的なものではなさそうですね」
これ一つ作るのに一体いくらかかったのだろうか。想像しただけで駿栄は手に持っているのが恐ろしくなった。
「景南国の王族は、生まれた時に国花が刻まれた品を一つ授かる。短剣であったり、鏡であったり、人それぞれ異なるが、私の場合はその硯がそうだった」
「なるほど、たしかに高価な品ではあるようだ。しかしこれ一つでは証明にはならぬ」
「そうだろうな」
梗玥はそんなことは百も承知といった様子で答えた。
「しかし、私が武人や農民の類でないことは簡単に証明が可能だ。それに気が付いたから、そちらの将校は気を揉んでいるのであろう」
梗玥は黙して事の成り行きを見守っていた孫允を見やった。部屋にいる者達の視線が一斉に孫允へと注がれる。孫允は腕組みをすると、うぅむ、と唸った。
すかさず隣に控えていた柯墨が孫允に代わり口を開いた。
「稜雲将軍。その者の手は武人のものでもなければ、農民のものでもありません」
柯墨の指摘に稜雲は注意深く梗玥の手を観察した。
武人の手ならば豆やタコが、農民ら労働者の手ならば赤切れがある筈。しかし梗玥の手は小さな擦り傷がある程度で、皮膚は柔らかく日焼けもしていない。
「たしかに、我々の手とは違うようだ。だが、隣の彼はそうではないようだか?」
稜雲は沈黙を続ける中年の男へと視線を移した。
彼もまた貧相な襤褸を身に纏っているが、逞しい体は隠し切れていない上に、手には剣だこができている。
戦場に身を置く者なら気付かぬ方がおかしいほど、その男からは強者特有の並々ならぬ気配が漂っていた。
「この者は私の護衛だ。王宮を脱出した時から共に行動をしている。実力者であることは否定しない」
梗玥がすかさず説明を入れる。
しかし稜雲の意識は、無口な男から別のところへと移っていた。
「王宮を脱出? それは一体どういうことだ」
「先に言っておくが、麓槙への侵略行為を景南国の民は望んでいない」
「それって、どういう……?」
思わぬ言葉に駿栄は目を丸くした。
「知っての通り、我が景南国は肥沃な土地を有している。今ある領土だけでも十分に民を養うことができるし、大陸中央の覇権争いにも興味はない」
梗玥はきっぱりと言い切った。しかし実際に剣を交えた孫允は納得いかない様子で眉間に皺を寄せている。
実際に戦っていない駿栄でさえも、何を言ってるんだ、と騒ぎ出したい気分である。
「だが、景南国は麓槙へと侵攻して来たではないか。今も外で夜営をしている軍勢のことはどう説明するつもりか」
二人の気持ちを代弁するように、稜雲は剣を片手に語気鋭く詰め寄った。
「あれは、景南国の軍ではない」
「何を申す! 貴国の国旗を掲げ、景南国の地からやってきた軍勢だぞ。違うというのなら、我々は一体何と戦っていたというのだ!!」
それまでなんとか押し黙っていた孫允が、我慢しきれずに声を荒げた。部屋の空気がビリビリと震える。
自分が言われた訳でもないのに、あまりの迫力に駿栄は縮み上がった。
対する梗玥はといえば、気圧された風もなく平然と座っていた。そして構わず言葉を続ける。
「今の景南国は、他所からやって来た侵略者によって支配されている」
「……なに?」
衝撃的な言葉に、孫允は一瞬言葉を失った。目を点にして聞き返すのがやっとといったようである。
「三年ほど前のことだ。奴らは商人として景南国にやって来た。大陸北部の珍しい交易品に目が眩んだ我が父董照は、国の中枢に奴らを招き入れてしまった。そして気付いた時には怪しげな薬によって精神を病み、もはや政を行えるような状態ではなくなっていた」
梗玥は淡々と語っているが、その表情は僅かながら翳りを見せていた。
「東の明暗君という書物を知っているだろうか」
稜雲、孫允、駿栄の三人は揃って首を傾げる。
流石というべきか、物知りの柯墨が唯一口を開いた。
「何年か前に市井に出回った風刺本ですね。明君は我が王、そして暗君は董照王を表していた筈です」
「その通りだ。奴らは父の前にその作者を引っ立てて来て殺害すると、麓槙を口汚く罵った。そして父を唆して麓槙を攻撃させた。父はもとより麓槙王に対して劣等感を抱いていたから、奴らはそこに付け込む隙を見出したのだ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。まさか景南国が麓槙に敵対していたのって、王様の私怨ってことですか!?」
堪らず駿栄は口を挟んだ。毎日毎日、攻撃を仕掛けてくる景南国の兵と小競り合いをしては怪我を負った。自分も仲間も国民も。
だがこの小競り合いの裏には、一国民である自分などには理解もできないような内情があって、だから戦が起こるのだと思っていた。というより、そういう風に言い聞かせて自分自身の心と折り合いをつけて戦ってきた。
それが、実は私怨だった? そんなのあんまりである。
「父は激情家ではあったが、最低限のものの分別は弁えていたさ。……ただその時は既に、薬による影響で正気ではなくなっていた」
「そんな……」
「国内には徴兵を拒む者が大勢いたが、奴らは見せしめに村を幾つも焼いて回った。そして国外から連れて来た私兵を村落に配置して、恐怖によって民を従わせた」
梗玥は強く拳を握り込んだ。指先が白く変色する様は、彼の怒りが痛いほどに伝わってきた。
「疲弊し蝕まれていく土地と民を救うべく、私は王宮から奴らを排斥すべく動いていた。だが国の中枢は既に奴らによって支配されており、逆に私は王宮内で命を狙われた」
「それで王宮を脱出した、と」
稜雲の言葉に梗玥は頷く。
最早この場にいる誰一人として、彼が本当に景南国の王子なのかと疑う者はいなかった。
「命からがら王宮から脱出した私は、地方の有力者達を束ねて王宮にいる奴らを討つつもりでいた。だが潜伏先で私は捕まり、この戦場へと引っ立てられた。そして公開処刑される筈だったところを救われたというわけだ」
梗玥は孫允に向かって深々と頭を下げた。
「将軍からすれば欺かれたことは腹立たしいことかもしれぬが、本当に感謝している」
「俺は別にどこ所属の誰だろうと、助けたことを後悔したりはしてないぞ。丸腰の人間が一方的に斬られるっていうのは、気に入らんからな」
「……ありがとう」
ぶっきらぼうだが芯の通った物言いに、梗玥は初めて表情を和らげた。
「にしてもですよ? 今の話が本当なら、敵は一体何者なんですかね」
憎いとさえ思った景南国の王子とこんな風に話をすることを不思議に思いながらも、駿栄は疑問を口にした。
「分からないか? この大陸に混沌をもたらした奴のことが」
梗玥の言葉に部屋の空気が張り詰める。
その一言を聞いても分からぬ阿呆は、この場にはいない。
大帝国奏楊の崩壊から十八年。そう、もう十八年も経つのだ。奏楊は大陸の北側半分を領土としていたが、滅んだ後は大小数百の国がその地に乱立した。
しかし十八年という年月があれば、分裂した国を再び一国として掌握することも可能だ。
そう、千年続いた大帝国を一夜にして滅したあの男ならば。
「反逆の王、弦燐……」
気付いてはいた。しかし誰一人として口にしようとしなかった男の名を、柯墨は呟いた。
言葉にすれば余計現実味を帯びて、襲い掛かってきそうに思えたからだ。
「奴が率いる櫂琰国は既に北側地域を制圧し、この大陸東部にまで手を伸ばしてきた。言っておくが、明日は我が身などと考えている猶予はないぞ。既に麓槙の喉元にも刃は突きつけられているのだからな」
そう語る梗玥の表情は硬い。櫂琰国によって国を滅茶苦茶にされた当事者だからか、彼の言葉には重みがあった。
「外にいる軍勢のことか? それなら、ここで迎え撃ってやるさ」
「違う、そうではない」
意気込む孫允に、稜雲はぴしゃりと言い放った。
「孫允、景南国に櫂琰国の手の者がやって来たのは三年前だ。なら、我らの王が病に倒れたのは何年前だ?」
「三年前の冬であろう」
何気なく答えた後で、孫允は何かに気付いたようだ。目を見開き、ワナワナと唇を震わせる。
動揺する孫允を見るのは駿栄も初めてで、急に不安が押し寄せてきた。
王の病は、この辺りで罹るはずのない西方の風土病。しかし王は西方になど足を運んだことはない。ならそれはもう、人為的に感染させられたとしか考えられない。
それに加えて地下通路の情報が敵に漏れていたこと。地下通路を把握していた者達が相次いで亡くなったこと。榻鷣の駐屯指揮官に孫允が着任して僅かひと月で起こった侵攻。
全てが一つの意思によって起こされたものなのだとしたら、この麓槙もとっくに弦燐によって蝕まれている。
「……至急、伝令兵を呼べ」
このままでは、大国櫂琰に麓槙は飲み込まれる。
続く稜雲の言葉を、駿栄はどこか他人事のように聞いていた。
「駿栄」
「な、なんですか?」
嫌な予感がして駿栄は顔を引き攣らせた。
「蜻蛉返りをさせて悪いが、この二人を連れて楼蘭に戻ってくれ」
「えぇ! 僕ですか!?」
「恐らく、あの王子は本物だ。どのみちここに置いておいても仕方がない。ならば身元を確実になものにさせて本国に判断を委ねるべきだ」
「た、たしかにそれがいいとは思いますけど……」
何故自分が、という不満を隠すこともせず駿栄は稜雲を見つめた。
「私と孫允、柯墨は外に陣取る敵に対処せねばならん。あの二人の護衛と見張りは信頼できる者に任せたいのだ」
稜雲はチラリと男に目をやった。
「王子の護衛だとかいう男、相当の手練れと見える。並の兵では勝てんだろう。お前しか頼める者がいない」
「そ、そんなに言うなら……。その代わり他に連れて行く兵は僕に選ばせてくださいよ」
「ああ、それで構わん。頼んだぞ、駿栄」
太子や劉藍には大活躍すると豪語してきたが、一戦も交えることなく帰ることになってしまった。
しかし戦闘に加わるよりも、護送任務の方が安全ではある。
まぁいっか、と駿栄は開き直った。




