1 麓槙の王太子
徐々に日の短くなる夏の終わり。長閑な畦道を武装した騎馬の列が進んでゆく。馬に跨るのはいずれも鎧を身に纏った筋骨逞しい男達であったが、先頭を行く青年は武人と呼ぶには美し過ぎた。
細い眉に二重瞼。色は白く、顔も小さい。一括りにされた深緑の長い髪が背中でサラサラと揺れる様は、風に靡く柳を彷彿とさせる。女性と見粉うほどに美しい顔立ちの青年だが、引き締まった身体を見れば普段から武術の鍛錬に打ち込んでいることは容易に想像できた。
歳は十七。名を晄黎というその青年は、小国麓槙の王太子であった。
田には豊かに実った金色の穂が頭を垂れ、その上を蜻蛉が悠々と飛んでいる。どうやら今年は豊作のようで、農民達の表情も明るい。畑仕事をする大人達の側では子供らが蜻蛉を捕まえようと走り回っている。
子供達の無邪気な姿が微笑ましくて晄黎は頬を緩ませたが、すぐに表情を引き締めて注意深く周囲を見回した。
人も疎らな田舎町は平和そのものであったが、気を抜く訳にはいかないのだ。
大陸最大規模の大帝国として栄えた奏楊の崩壊から十八年。大陸の北側半分もあった旧奏楊国の領土には、大小数百の国が乱立した。圧倒的な国力を有した帝国の滅亡は、それまで表面的には平和を保っていた各国の均衡を崩し、大陸統一の野望を抱いた諸侯達により全土で戦が起こった。
それは辺境の国々も例外ではなく、和を重んじる大陸東方の小国麓槙にもその火の粉は降りかかった。
目下の脅威は国境を接する国の一つ、景南国である。規模は麓槙と同程度の小国であるものの肥沃な土地を有する豊かな国である。しかしそれだけでは満足できないのか、景南国の王は麓槙の国土を狙っていた。
三年前に麓慎の王、浩佑が病に伏したことを契機に景南国は攻勢を強め、本格的な侵攻こそないものの至る所で小競り合いが起こり民の安寧を脅かしている。
武芸に秀でた晄黎は病床の父王に代わり、自ら兵を率いて警戒にあたっていた。
この日も晄黎率いる分隊は哨戒の任務を終え、整然と都への帰路に就こうとしているところだった。
皆一様に真剣な表情で馬を進ませており、蹄鉄の音だけが辺りに響く。
「はぁ……」
厳粛な空気の中に緊張感のない溜め息がこぼれ落ちた。晄黎は斜め後ろから聞こえてきたその声を黙殺した。ところが咎めないのをいいことに、今度は先ほどより長い溜息が聞こえてくる。
「はぁぁぁぁぁぁ〜……」
一度目は素知らぬ振りをした晄黎であったが、これ以上は隊紀を乱しかねない。仕方なく後ろを振り返ろうとした、その時だった。
それまで晄黎の隣で静かに馬を進めていた劉藍が雷轟の如き声を上げた。
「駿栄ぃ! 貴様、腑抜けた声を上げるのをやめんか! 鬱陶しいっ」
端整な顔に青筋を立てて怒鳴る劉藍の迫力に、後列の者達が一斉に視線を逸らす。しかし怒鳴られた当の本人はさして気に留めた風もなく、むしろ迷惑そうに苦情を申し立てた。
「ちょっと、あんまりでかい声出さないでよ。疲れてるんだからさぁ」
煩わしげな駿栄の態度に、劉藍の体から殺気が迸った。
「貴っ様ぁ……!」
劉藍が背中に背負った大刀に手を掛けたところで、晄黎の元に哀願の視線が殺到する。困り果てて手を合わせる部下達があまりにも必死なので、晄黎は苦笑しながら彼らに頷いた。
「劉藍、少し落ち着け。頭にすぐ血が上るのはお前の悪いところだ」
「はっ、申し訳ありません」
劉藍は素早く晄黎に向き直ると、素直に馬上で頭を下げた。晄黎はそれに頷くと、今度は駿栄の方へ目を向けた。
「駿栄は……」
しかし途中で晄黎の言葉が止まる。数瞬の後、晄黎の口から出たのは、彼が用意していたのとは別の言葉だった。
「……落馬するぞ」
これまでの道中、駿栄が晄黎の死角に位置するところにいたので気が付かなかったが、駿栄の馬の乗り方は明らかにおかしかった。両脚はきちんと馬の腹を挟むように鐙の上に置かれているが、上半身がダラリと右側に倒れ込んでいるのだ。両手できちんと手綱を握っていなければ落馬している体勢である。
晄黎は懸命に一歩一歩前へと進む駿栄の馬を見つめた。鼻息荒く、首を左右に振る様子が不機嫌そうに見えるのは晄黎の気のせいではあるまい。無理な体勢で背に乗る困った主人を、ここまでの道中振り落すことなく歩き続けた馬には感心した。
当の駿栄は「ほぉーい」と間延びした声を上げると、こちらも素直に姿勢を正す。しかしその適当な返事が気に食わなかったらしい。劉藍の表情が再び険しいものへと変わった。
これはまずい、と晄黎は天を仰いだ。
案の定、視界の端で再び大刀へと手を伸ばす劉藍の姿が映った。
もう一度注意しようと口を開きかけた晄黎だったが、大刀を掴む寸前で劉藍の手がピタリと止まった。
晄黎と後続の部下達が固唾を呑んで見守る中しばらくそのまま固まっていた劉藍だったが、深呼吸を繰り返すこと三回、結局彼が手にしたのは大刀ではなく馬の手綱だった。あまりの握力の強さに手綱がギュウゥゥと悲鳴を上げる。強く握ることで怒りを鎮めようとしているようだが、鬼のような形相は変わらず恐ろしいままであった。
部下達がホッと息をつく気配を感じて、晄黎は半ば呆れつつ胸を撫で下ろした。
こう何度も一触即発が続いては精神衛生上良くないというものだ。
劉藍は礼儀正しく剣の腕も立つが良くも悪くも真面目過ぎるきらいがあり、自分にも他人にも厳しい男だ。
一方の駿栄は人懐こく剽軽者だが、怠惰な性格が玉に瑕である。
どちらも若手武官の出世頭であり晄黎が強く信頼する臣下だ。しかし正反対な性格故なのか、二人はなにかと衝突が絶えなかった。
犬と猿。水と油。混ぜるな危険、である。
おそらく年齢が近いことも二人が言い合いになる原因の一つだろう。
しっかり者の劉藍よりも自由奔放な駿栄の方が年上なのだが、それが癪に障るのだと劉藍はかつて晄黎に対して吐露していた。
年長者ならばそれ相応の態度を取るべきと考える劉藍の神経を駿栄は無意識に逆撫でし、火に油を注ぐ結果となっている。
晄黎の頭を悩ませる二人の関係性は、かれこれもう六年目になる。互いにまだ二十代手前と若く血気盛んなので反発してしまうのだろう。
とはいえ戦闘になれば阿吽の呼吸で敵兵を斬り伏せていくのだから実際はそこまで仲が悪い訳ではない、と思いたい。
なんにせよ、これから先も二人の関係は好転することも悪化することもなく平行線のままなのだろうと晄黎は半ば諦めを抱いていた。
「にしても太子ぃ。景の奴らしつこ過ぎじゃないですか? こんなんじゃ命がいくつあっても足りないですよ」
駿栄はそう言うと馬の首に倒れ込む。完全に脱力しきったその姿は、到底王太子に仕える実力者には見えない。
「そうやって文句を言う元気があるのだから大丈夫だと思うが?」
「何言ってるんですか! もうあちこち傷だらけですよ! ここも、ここも……あーっ! 畜生ここにも!!」
駿栄は晄黎の言葉に猛然と反発すると、自分の負傷箇所を指差した。しかしどれも軽傷で命に関わるほどの怪我ではない。
「だが駿栄も見ただろう。荒廃したあの村を」
晄黎の脳裏に数刻前に見たばかりの惨状が甦る。踏み荒らされた村と逃げ惑う人々。流れ出た血が大地を赤く染め、恐怖がその場を支配していた。
景南国は大軍を正面からぶつけることはせず、小隊規模の兵をいくつも潜り込ませて各地の村を襲っていた。戦う術を持たない民間人を狙った景南国のやり方は決して許せるものではない。
「たしかに気力と体力を持っていかれる役目ではあるが、こうして各地を巡ることは重要なことだ。我々が戦うことで無辜の民を救うことができるのだから」
「いや持っていかれるのは命……って、痛っ!?」
突っ込みを入れた駿栄の頭を劉藍は目にも止まらぬ速さで引っ叩いた。
「太子の仰る通り、我々武官の役目は武器を手に取り祖国を守ることだ。貴様はそれを名誉の傷と思え」
晄黎と劉藍の言葉に、駿栄は微妙な顔をした。
「だってこっちは十二人の分隊で、向こうは五十人の小隊だったんですよ?」
「一人当たり約四人の計算だな」
晄黎はそう言うと、駿栄に向かって指を四本立ててみせた。
「いや、そうなんですけど、そうじゃなくてっ。とにかく本当にもう死ぬかと思いましたよ」
「だが死人は出なかったし、皆こうして無事でいる。少しは喜んだらどうだ」
「それはそうなんですけどね……」
駿栄は再び溜め息を吐くと肩を落とした。それからまた不平不満を言い募る。
その姿を横目に見つつ晄黎は黙って馬を進めた。
口では駿栄を窘めたものの、正直に言ってうんざりする気持ちは痛いほどわかる。
駿栄の不満は麓慎の民全員が感じていることだろう。毎日毎日飽きもせず村落を襲撃しては退散していく景南国の様は、まるで賊のようだ。
晄黎は領土侵犯を繰り返す景南国から民を守る為に国境の村々に兵を配備し、自身も分隊を率いて国中を駆け回る日々を送っているが戦の終わりは全く見えてこない。
そもそも景南国は麓慎に比べて気候も穏やかで作物も育ちやすい肥沃な土地を持っている。大陸中央部に進出する為に麓慎が邪魔かと言われれば、地理的にも政治的にもそれはあり得ない。麓慎は平和主義国家であり、建国以来他国に攻め込んだことは一度たりともない。それゆえに周辺国とも軒並み良好な関係を築いている。
一体何が気に入らないというのか。晄黎は渋い顔をした。
毎日毎日理由を考えない日はないが、答えはわからず仕舞いである。思考の迷路に入り込みかけた時、不意に駿栄が鞍の上に立ち上がった。
「おい、行儀が悪いぞ猿」
いち早く駿栄の動きに反応した劉藍が冷ややかに嗜める。いつもなら、「誰が猿だ!」と言い合いになるのがお決まりなのだが、駿栄は遠く北の方を見つめたまま微動だにしない。
なにか様子がおかしい。嫌な予感を覚えつつ晄黎は低い声で問い掛けた。
「どうした、駿栄。何が見える」
「北の雑木林……、その奥の方から煙が上がっています」
視線は遠く北を見つめたまま、駿栄は視覚から得た情報を伝えた。
晄黎や劉藍達も、北の雑木林の方角を見遣る。しかし駿栄が言うような煙は確認できない。それでも、駿栄の言葉を疑う者は晄黎率いる部隊には一人もいなかった。駿栄はここにいる誰より視力に優れており、こうした異変に気付くことは過去何度もあったからだ。なにより今この状況下で嘘や冗談を言うほどふざけた人間ではない。
「太子、あの方角には小さな村が一つあったはずです。急ぎ向かいましょう」
劉藍は晄黎の方へ馬を寄せると、そう進言した。
晄黎は強く頷くと、背後を振り返った。臣下達は引き締まった表情で晄黎が下す号令を待っていた。
朝から働き詰めで疲れているだろうに、そんな様子をおくびにも出さない彼らを頼もしく思う。あれだけ不平不満を垂れていた駿栄も例外ではない。
「誰一人死なせるわけにはいかない。行くぞ!」
晄黎は片手を上げると、北を指し示し叫んだ。号令に呼応して猛々しい声が上がる。
土埃を巻き上げて、晄黎率いる分隊は村を目指して北進した。