14 願い
「これは、一体……」
晄黎は呆然と自らの右腕を見た。包帯を取り払うと、二の腕から肘下にかけて走っていた切創が跡形もなく消えていた。
「白凰の名をご存知の晄黎様なら、この血に宿る力も聞き及んでおりませんか?」
確かに晄黎は聞いていた。東の霊峰に棲まう白凰の血はどんな傷や病であっても、たちどころに治すことができる神薬だと。だが血が傷口に触れたほんの一瞬で治してしまうことができるなど、誰が想像できようか。
「私たち白凰の血はどんな病や傷でも治癒することができます。ですがこの力を持つがゆえに一族は命を狙われ、霊峰にはもう一人の同胞もおりません」
そう言って微笑む香珠の顔は蒼白で、手首からはポタポタと血が流れ出ている。
「とにかく止血を」
晄黎は手巾を取り出すと、香珠の傷口に押し当てた。刺繍の施された白い手巾は、みるみると鮮血に染まっていく。香珠は困惑した様子で晄黎を見上げた。
「晄黎様、汚れてしまいます」
「そんなことはいい」
「私の傷はいずれ塞がります。気に病まれることはありません」
「じっとしてくれ」
香珠が手を引っ込めようとするので、晄黎は逆に自分の方へと引き寄せた。すると香珠の抵抗がぴたりと止んだ。
その甲斐あってか、ほどなくして傷口の止血に成功した。
触れただけで折れてしまいそうな細い手首に、痛々しい一本線が入っている。
晄黎はちらりと香珠の顔を盗み見た。言葉にしないだけで相当に痛む筈だ。香珠は唇を噛むことでその痛みに耐えていた。鋭利な簪で勢いよく掻き切ったのだから無理もない。
「あ、ありがとうございま……」
「何故自分を傷つけたりするんだ!」
晄黎は香珠の言葉を遮ると細い肩を掴んだ。
突然のことに香珠は目を丸くすると晄黎を見つめ返した。
腕を治す為に痛い思いまでした香珠に、感謝の言葉ではなく責めるようなことを言うのは礼を欠いていると晄黎自身もわかっている。だがどうしても素直に喜ぶことはできなかった。
最初こそ晄黎の勢いに気圧され言葉を失っていた香珠だったが、しばらくして落ち着きを取り戻すと口を開いた。
「晄黎様には、剣を握ることのできる腕が必要だと感じたからです」
香珠は不思議な少女だった。か弱く意志薄弱なように見えて、その実心の内に確固たる強い信念を宿している。
その力強さを示すように、柘榴石の美しい瞳が真っ直ぐ晄黎を見返してきた。慈愛の中に揺るぎない強さを兼ね備えたこの目を、晄黎は知っているような気がした。
「風は様々なことを運んできてくれます。ですがここに届けられるのは誰かの悲鳴や泣き声ばかりです。戦が蔓延る乱世であれば、それは仕方のないことなのかもしれません。けれどそれは私にとって、耐え難いものなのです」
香珠は長い髪を耳に掛けると、耳環を晄黎に見せてくれた。小さな宝石が幾つもついたそれは、揺れてぶつかり合うたびにシャラシャラと上品な音を立てる。
「恐ろしい音を少しでも紛らわすことができるようにと、陛下が下さったものです。これがなければ、私は恐ろしくて牀榻から出ることもできなかったかもしれません」
風は予告なく自由気ままに吹き荒ぶ。香珠の耳は流れてくる情報の選別はできず、風は彼女の意思とは関係なしに各地の声を届けているのだ。
ならば香珠はこの平和な城内にありながら、戦場やあるいは襲撃を受ける村落で上がる悍ましい声を耳にしていることになる。
小さな体で身のすくむような恐怖に耐えているのだと思うと、晄黎の胸は痛んだ。
「香珠、君が戦を嫌う気持ちはわかった。だがそれなら尚のこと、何故私の腕を治した。私は君が癒した右腕で人を斬るし、相手を殺めてしまうかもしれない」
「晄黎様は守る為に剣を取るのだと教えて下さいました。それに、貴方はお優しい方です。今もこうして私を慮って下さいます」
そう言って微笑む香珠からは、並々ならぬ信頼を感じた。
「何故、今日会ったばかりの私にそこまでの信を置けるんだ。私が王太子だからか?」
「晄黎様がどういう方なのかは、陛下や蓂抄様からよく聞いておりました。そして実際に言葉を交わして、確信しました」
「確信?」
「晄黎様ならば、戦乱の世にあっても人の心を失わず、平和の為に尽力してくださると」
晄黎にとって期待というものは、いつだって重圧を伴うものだった。だが、香珠から向けられる期待と信頼からはそれを全く感じなかった。
それは香珠の願いと晄黎の目指す未来が重なっていたからかもしれない。
「戦の火は大陸中に波及し、先の見えない暗闇の中で人々は捥がき苦しんでいます。でも晄黎様なら、その闇を照らす黎明の世の光になってくださると思ったのです。その御名が示すように」
「私は自分の名があまり好きではないのだが、まるで英雄のように語ってくれるのだな」
「何故、好きではないのですか?」
香珠は目を丸くして尋ねた。
「コウレイという音は女にも使われるから、よく揶揄われたものだ」
それこそ幼い頃はよく女児に間違われて、その度に取っ組み合いの喧嘩をしていたものだ。
「私は唯一無二の良い名だと感じます」
「ああ、私もたった今好きになった」
名前の由来など母から聞いたことなどなかった。だが、もし本当にそんな願いが込められているのならば、好きではないなどと感じていた自分を恥ずかしいとすら思った。
「ありがとう、香珠。君のお陰でもう一度剣を握ることができる」
晄黎は力を取り戻した右手で拳を作った。
「約束する。殺める為ではなく、守る為に剣を振るうと。そして君の願う平和を実現させてみせる」
晄黎の決意に香珠は安心したように柔らかく微笑んだ。
「手首、痕が残らなければいいのだが」
晄黎は負傷した香珠の手首を見やった。手巾に滲んだ血が痛々しい。
「自分自身の傷は治すことはできないのか?」
晄黎の問いに香珠は静かに首を振った。
「自然に治癒するのを待つしかありません」
「そうか」
晄黎は拭いきれない罪悪感に目を伏せた。
「私は痕が残っても構いません。これは晄黎様のお力になれた証ですから」
そう言って慈しむように手を撫でる香珠は、とても穏やかな表情をしていた。
「また、会いに来てもいいだろうか?」
気が付いた時にはそう声に出していた。
香珠はほんの少し驚いたような表情を見せた後で、嬉しそうに微笑んだ。




