12 白翼の民
青暘殿を飛び出した晄黎は、長い階を降りたところで立ち尽くしていた。
植え込みの間にも、屋根や建物の間にも紙片は挟まっていない。衛兵に声を掛けてみたものの、見たという者は一人もいなかった。そう遠くまで飛ばされていないだろうと高を括っていたのだが、浅はかであったとしか言いようがない。
吹く風は思いのほか強く、紙片はどこへともなく飛ばされていった後だった。
途方に暮れて空を仰ぐと、甘い香りが晄黎の鼻孔をくすぐった。少し遅れて薄紅色の花びらが風に乗って運ばれてくる。晄黎はその一つを捕まえると、握っていた手を開いた。手の中にあったものを見て晄黎は首を傾げた。どう見ても桃の花びらなのだが、時季がおかしい。桃の花の開花時期は通常、初春。しかし今は晩夏である。
不思議に思って眺めていると、ふと昨夜見たものが思い起こされた。そういえば、部屋に落ちていた花びらもこれと同じものだったではないか。それに、あの時手を握った人物は一体誰だったのだろう。
晄黎は風を頼りに花びらが流れてきた方へと歩き出した。
どうやら花びらは朱麗殿と紫琉殿の中間地点から飛んできたようだ。
それが分かった瞬間、晄黎は歩みを止めた。城に来たばかりの頃、母に注意されたことがあったのだ。
朱麗殿は后やそれに仕える女官が暮らす女の園。そして紫琉殿は王や王太子である晄黎の居住空間である。
二つの建物を繋ぐ渡殿は三つあって、うち二つは一本道になっており二つの建物を行き来するのに使われる。しかし南側の一つだけは誰にも使われておらず、そもそも存在自体が公にはされていない隠し通路という扱いであった。そのため城内の見取り図からも完全に抜け落ちており、おそらく知っているのは王と后くらいのものだろう。
幼い頃、偶然南側の渡殿へ続く入り口を見つけてそこを通ろうとした時、母に見つかり絶対に入ってはいけないときつく言い含められた。それからは意識から存在自体が完全に消えて、今に至るまで思い出すこともなかった。
晄黎は少し考えた後、入ってはいけないと言われていた南側の渡殿へと足を踏み入れた。きっかけは桃の花びらだったが、今は城内に見知らぬ場所があるという興味の方が大きかった。
進むにつれて花の香りが強くなり、気が付けば辺り一面、薄紅色の花の絨毯が敷かれていた。歩を進めるたびに足下で花びらが踊る。思えば昔注意を受けた時も、この花に惹かれて入ろうとしたのだった。
進んで行くと突き当たりに木製の大扉が現れた。錠が取り付けられているが、横の壁に鍵が引っ掛けられているのでいまいち用を成していない。しかし鍵を使わずとも今はその扉がほんの少しの隙間を作って開いていた。晄黎は躊躇うことなく扉に手を掛け押し開いた。
静寂の中にギギギギギィィィ……、という扉が軋む音が響く。辺りが静かなので音が余計に大きく聞こえた。扉という遮蔽物が無くなり視界が開けると、目の前に巨大な桃の木が現れた。樹高は見上げる程の高さがあり、満開の花を付けている。
そして一歩足を踏み出した時、晄黎の呼吸が文字通り止まった。上ばかり見ていて気が付かなかったが、木の根元の部分に少女が座り込んでいたのだ。手には晄黎が探していたと見られる紙片があり、少女は熱心にそれを眺めていた。
機密事項が記されているかもしれない重要な書類を、見知らぬ人物に読まれてしまった。一大事だというのに晄黎は身動き一つ取ることができなかった。それほどまでに少女は晄黎の目を惹きつけて離さなかったのだ。
不意に少女が面を上げた。小さな宝石の付いた耳環が、少女の動きに合わせてシャラシャラと綺麗な音を鳴らす。
艶やかな長い黒髪は陽を受けて光の輪を作り、柘榴石のような瞳が晄黎同様に見開かれている。そしてなにより目を引くのは、彼女の背に生えた純白の翼であった。
晄黎の脳裏に駿栄の語った幻の存在が過った。
「白凰……?」
殆ど無意識のうちに晄黎が呟くと、少女はびくりと肩を震わせた。顔面蒼白になりながら、少女は勢い良く立ち上がった。
「あっ、待ってくれ!」
晄黎は慌てて少女を呼び止めた。
声に驚いたのか、それとも動揺した為なのか。少女は一歩足を踏み出したところで自らの衣の裾につんのめって、地面に倒れ込んでしまった。土の上に溜まった花びらが少女の周りをひらひらと舞う。
現実離れした光景に晄黎は目を奪われた。
花吹雪がおさまると、今にも泣き出しそうな表情で見上げてくる少女と目が合う。
瞬間、晄黎は我に返った。恐がらせないよう静かに近付き、怯える少女の前に膝をつく。
「ほら、大丈夫か?」
そう言って手を差し伸べると、少女は暫く固まっていたが、結局は戸惑いながらもその手を取った。
「いきなりですまないが、その紙片を渡してくれないか。非常に重要なものなんだ」
「……え、これ、ですか?」
晄黎が真剣な表情で言うと、少女は面食らった様子で紙片に目を落とした。再度晄黎が頷くと、少女は素直に紙片を渡してくれた。
「ありがとう」
ようやく紙片を回収することに成功して、晄黎は安堵に胸を撫で下ろした。それと同時に自分が探していたこの紙切れに一体何が記されているのかが気になった。
晄黎は紙片に目を落とし、達筆な慧梏の文字を追う。
しかし全て読むことはできなかった。紙を持つ手が震え、自然と顔がにやけてしまう。
我慢の限界がきて、晄黎は声を出して笑った。
「……なるほどっ、これは……、誰かに見られたら困る代物だな」
晄黎は再び紙片を眺めた。そこにはなんとも独創的な詩が延々と綴られている。
慧梏の風変わりな感性が垣間見えるのはもちろんだが、これを大真面目な顔で書き連ねる姿を想像したら、笑いを引っ込めるのが困難になってしまった。
少女は隣で大笑いする晄黎の姿に唖然としていたが、強張っていた表情は先程よりも少しだけ柔らかくなっていた。




