10 失ったもの
虫の鳴き声が鳥の囀りに変わり、陽の光が部屋に差し込む。晄黎はゆっくりと体を起こすと恐る恐る腕を確認した。昨夜の激痛が嘘のように治まった右腕だが、既にそれは自分のものではないようだった。動かそうとしても鉛のように重く、思い通りにならない。もどかしい感覚に晄黎は息を吐いた。
「……本当に、動かなくなってしまったんだな」
晄黎は独りごちると、ぼんやりと天を仰いだ。
昨夜まではどこか懐疑的であったが、実際に腕が動かなくなると喪失感が容赦なく押し寄せてきた。
まるで心にぽっかりと穴が空いたようで、晄黎の頭は思考することを拒絶していた。やるべきことはいくらでもあるというのに体がいうことを聞いてくれない。
身体的なことだけではない。精神的な問題である。
しかしそれも僅かな時間で、キィィという扉の開く音が晄黎を現実へと引き戻した。
「おや、お目覚めでしたか」
扉の方へ視線をやると、穏やかな表情で微笑む伯濯が立っていた。不思議なことに伯濯の顔を見ただけで、晄黎の中に燻っていた不安は霧散していった。
「おはようございます、太子。昨夜は良く眠れましたかな?」
伯濯は晄黎の横まで来ると、熱を測り腕の状態を確認した。
「どうだろう。あまりの痛みに一度目が覚めてしまった」
晄黎がそう言って苦笑すると、伯濯は悲愴な面持ちになってしまった。
「なんと! 私としたことがそんな時に限ってお側を離れてしまっていたとは、申し訳ありませぬ」
しょんぼりと謝る伯濯を晄黎はしげしげと眺めた。
「太子、どうされました? やはりまだお加減が優れませんか」
「いや、平気だ。腕以外はな」
この反応を見るに、昨夜目が覚めた時そばについていたのはやはり伯濯ではなかったようだ。
「伯濯、腕のこと他の者には……」
「蓂抄様以外には申しておりませんよ。太子が必要と思った時に、必要な者にお話になればよろしいでしょう」
晄黎はほっと胸を撫で下ろした。
晄黎が哨戒中に負傷したことは昨夜の協議の際に諸官にも知れ渡ったが、傷の程度までは話していない。
もし晄黎が戦えなくなったと知れば、何かにつけて揚げ足を取り面倒なことになるに違いなかった。
「すまない、気を遣わせたか」
「なにを仰います。私は太子の味方ですから、太子が望まれないことは致しませんぞ」
真っ白な顎髭を撫で付けながら胸を張る伯濯を晄黎は横目で見た。
「その割には劉藍と駿栄には言うべきだとせっついていたな。本当は黙っておきたかったのだが」
「太子が無理をなさるのであれば例外です」
取りつく島もない伯濯の物言いに晄黎は笑ってしまった。
「そうか、肝に銘じておこう。だが結果としてそなたの気遣いが吉と出た。礼を言う」
昨夜は激痛のあまり身動きすら取れなかった。もしこんな爆弾を抱えたまま戦場に向かっていたらと思うと考えるだけでも恐ろしい。
駐屯部隊を助けるどころか、士気を低下させていたかもしれない。
「前には進めそうですかな」
唐突な問いに晄黎は一瞬なんのことかわからなかった。しかしすぐに、剣を握れなくなったことを言っているのだと気が付いた。
「正直、そう簡単には割り切れない」
晄黎は目を伏せた。
晄黎にとって国を守るということは、剣を手に敵を斬ることだった。それができなくなった今の自分に、果たして存在価値があるのだろうか。
「今の太子にこの質問は酷でございましたな。ですがこれだけは覚えておいて下さいませ」
そう言って伯濯は晄黎の手を握る。皺々の枯れ木のような手だったが、決して弱々しくはない。
「たとえ太子が剣を握れなくなろうとも、貴方を慕い、認める者は大勢おります。私はもちろん、貴方が今日までその手で守ってきた民もそうです。……貴方は一人ではありません」
「ありがとう、伯濯」
晄黎は顔を上げると、表情を緩めた。もしかしたら少し顔が引き攣ってしまっていたかも知れないが、それでも伯濯の心遣いをきちんと受け取ったことは伝えたかった。
「さて、私はそろそろお暇いたしましょうかな。熱も下がっておりますし、起き上がっても問題はございませんよ。ただし、無理な運動はなさいませんように!」
最後の一言を強調して伯濯は退出した。扉が閉まって完全に一人になると、晄黎は大きく息を吐き出した。
「失ったものを嘆いても仕方がない、か」
晄黎は自身に言い聞かせるように独り言ちる。感傷に浸るより先に榻鷣が今現在どういう状況にあるのかを確かめる必要があった。急ぎの伝令が届いていないことから察するに、最悪の状況ではなさそうだが。
晄黎は早速、着替えようと立ち上がり襟元に手を掛ける。しかしすぐに「あ」と短い声を出して眉を落とした。
脱ぐことはできるのだが、片手では帯を上手く縛れないので、きちんと着ることができない。
なんとか左手だけで着替えようと悪戦苦闘していると、伯濯と入れ違いで劉藍がやってきた。
「太子、お加減はいかがで……」
しかし途中で劉藍の言葉がパタリと止まる。
呆気に取られる劉藍のことなどお構いなしで、晄黎は表情を明るくして声をかけた。
「劉藍! 丁度いいところに来てくれた!」
「なんて格好をしていらっしゃるのですか!」
一人で着替えられない子供のような有様に、劉藍は突っ込みを入れた。
劉藍の手を借りながらやっとの思いで着替え終えると、晄黎は牀榻に倒れ込んだ。
「はぁ、助かったよ。着替え一つするのにこんなに疲れるとは……」
「何故すぐに人を呼ばないのですか」
「この程度のことは、一人でできると思って」
「もっと、周りの人間を頼るべきです」
醜態を晒した手前、反論するのも憚られて晄黎はむっつり押し黙った。
劉藍は他にもまだ何か言いたげな様子で晄黎を見ていたが、結局言葉にすることはなかった。
「劉藍、榻鷣の状況について連絡は来ているか?」
「いえ、まだなにも」
「そうか……。信じて待つしかないな」
「太子、昨日頼まれていた件ですが」
晄黎は気掛かりであった天原草の出所を探る為、昨夜のうちに劉藍に対して調査を命じていた。村を襲撃した兵士のうち何人かは生捕りに成功し、武器も押収してある。今まで会敵した景南兵の武器に毒が塗られていることはなかったが、今後全ての景南兵が天原草を戦に用いるとなれば麓慎を苦しめるであろうことは必至である。
「まさかもう調べがついたのか?」
「早いに越したことはありませんから。駿栄達が楼蘭を発った後すぐに向かいました。ただ……」
劉藍は表情を曇らせ言い淀む。どうやら悪い報せのようだ。
「捕らえた兵は全員何者かによって殺害されており、押収した武器も保管庫から全て持ち去られておりました」
「口封じされたか……」
晄黎は額に手をやりため息を吐いた。
それにしても相手の行動が早過ぎる。晄黎達が村で景南兵と戦闘になったのは昼過ぎで、劉藍が調査に向かったのはそれから半日も経たぬうちのことである。
相手からすればそれだけ知られたくない重要事項ということだろう。
「厄介なことになりましたね」
「全くだ。おそらく捕えるのは難しいだろうが、犯人の捜索と捕縛は引き続き行ってほしい」
「既に手配は済ませております」
「さすがだな」
晄黎は優秀な側近ににんまりと笑みを浮かべた。
「毒の入手経路は気になるがそれ以上に国内の、それも王都近郊に危険人物を野放しにしておく訳にはいかないからな」
晄黎は牀榻から身を起こすと、傍らの剣を手に取った。いつも握っていた剣ではあるが、利き手でないだけで違和感が凄まじい。
「太子、何をなさるおつもりですか」
「お前が考えているようなことではないさ。いつも通り佩剣しておかないと、不審に思われるだろう? それになにより落ち着かない」
その答えに劉藍は安堵の表情を見せた。大方、晄黎が剣でも振り回すのではないかと心配したのだろう。
晄黎は剣を片手に勢いよく立ち上がる。しかし上手くバランスをとれずによろけてしまった。劉藍が素早く体を支えたことで転倒は免れたが、晄黎は束の間呆気にとられてしまった。これまで何も考えずに行っていた動作ができなくなったことにひどく困惑した。
「すまない、劉藍。助かった」
「いえ……」
「ははっ、着替えもできない、立てばよろつく。困ったものだな、私も」
どう声をかけたものか悩んでいるのだろう。眉間の皺を深くする劉藍に、晄黎はあっけらかんと言った。
それからいつも通り左側に剣を帯びて部屋の扉に手をかける。
「どちらへ」
「慧梏のところだ。今後について色々と話し合わねばならないからな」
慧梏は麓槙の太宰を務める壮年の男で、宮廷内における晄黎の数少ない味方である。浩佑が病に倒れてからは政治に疎い晄黎を助ける形で諸官を統制し、麓槙の内政を支えている。
「劉藍はどうする?」
「少し気になることがございますので、お側を離れたく思います」
劉藍は険しい顔で視線を床に落とした。
当然ついて来るものとばかり思っていた晄黎は、目を瞬かせた。
「そうか。くれぐれも母上の元に懺悔に行くなよ」
そう釘を刺すと劉藍は少し間を置いてから「もう行って参りました」と苦笑した。




