第三話 こちら食べ物ではありません
「――シツレイしましゅ」
「――失礼しまーす…… って、あっつぅ……」
ドアを開けた瞬間ムワッとした暑さが幸彦達を迎え入れる。それは雪女の血を引いている幸彦には少々キツかった。
「そうひゃしら……しょんなにあつくにゃいのらとおもふのらぁけれどぉ、ひっく、うぇ」
肩にもたれこむ保奈美の体を受け止めた後、幸彦は暑そうに手で顔を仰ぐのだった。
「おっとと、保健室で休憩しておくか?」
「大丈夫、大丈夫。私酔っていないから……ヒック!」
「はぁ……そのセリフは典型的な酔っ払いだ。ったく、コーヒーで酔っぱらうなら最初から言えよな。誰が世話すると思ってんだよ」
先程、自販機で飲み物を奢ったのは不味かったのだろうか。過度のスキンシップのお礼のつもりだったのだが……
コーヒーで良いかと聞けばいたく彼女はぶんぶんと首を振って喜んでいた。お祝いの時によく飲むのだと。
「天田君って大胆なのね……私こんな誘われ方、その経験も少ないし、うまく出来るか分からないけど」
あの時はエロい言い方を奇妙に思ったがこういうことだったのか……
「ワタシを酔わせたんだから、責任とりなさいよ。ハァ〜〜、プハァ〜〜」
「臭⁉︎ 何してんだお前!」
保奈美は鼻にコーヒー臭い吐息を吹きかけるのであった。
「友達になった祝勝祝いだからいいじゃない。でへへへぇ。ハァ〜、プハァ〜」
「お前、酔っ払いだからって何やっても許されると思うなよ。ほら、離れろ」
「あぅ……もぅ、ゆきひこのイジワル」
彼女は、残念そうな声で幸彦に不満をぶつけるのだった。それを聞いた彼は、口元を手で押さえる。
「……あまりからかうのはよしてくれ。俺はこういうのに、本当に免疫がないんだから」
幸彦は耳を真っ赤にしながら、保奈美に背を向ける。それを見た彼女は満面の笑みを浮かべるのだった。
「可愛い〜! 私たちの仲なんだから、照れなくてもいいじゃない!」
「うわ⁉︎ お前話聞いてたのか⁉︎ 俺は離れろって」
「聞こえな〜い。ゴロニヤァ〜〜」
保奈美はより一層しなだれかかってきて、離しても離しても猫のように幸彦に擦り寄ってくるのだった。
「ふたりぃっきりねぇ〜〜」
「そうだなぁ……それにしても鈴木、本当に顔赤いけど大丈夫か? それに……背中から何かぶっとい鉤爪みたいなもん、飛び出してるけど」
「名前で呼びなさいよ〜〜ほなみぃって。ひっく、ひっく、それにぃ……らぁれの? らぁれのかおがあかいってぇ??」
「そっち気にするのか……いや、中々名前呼びは厳しいぜぇ……保奈美さんよぉ」
(幸彦も下の名前で呼びたい欲求はあった。しかし、下の名前で読んでいるとガキ大将にボコボコにされたトラウマが蘇るのだ)
綺麗な女子を名前で読んだら必ずストップがかかる。お前が名前で呼ぶのを止めろと。彼女に迷惑だ。身の程を弁えろと。それは綺麗であればあるほど顕著だった。
「しゃんはいらない〜〜。ほ〜な〜み〜」
迷った幸彦は、辺りを見渡す。そして入念に妖気感知を行う。辺りに誰かがいないことを確認した幸彦は声を潜めて彼女の名前を呼ぶのだった。
「分かったよ……本当に体調が悪くなったら言えよ? その……保奈美」
「あはぁ、ゆきひこぉ……だぁ〜いすき!」
「ハッハッハッ……俺も大好きさ。友達として」
彼女はたいそう喜び、幸彦を抱きしめてくる。暖房の暑さによって火照った体と彼女の熱が伝わり更に熱っぽくクラクラするような気持ちになる幸彦だった。
しかし、なぜ誰もいないのか? その事が職員室に入った時からずっと気になっていた幸彦だったが、ようやく思い出す事ができた。
「あぁ!! そうか、先生が言ってたのはこれのことだったのか……」
「うみゅ? これって……?」
「職員会議だよ。職員会議。あちゃ〜……俺の記憶が正しけりゃついさっきやり始めたばっかだぞ……多分」
幸彦は職員室の時計を見た。すると時刻は四時十五分を指しており、四時半までは十五分程度残されていた。ここで待つことも出来るが……
「ゆきひこ〜〜。私たってるのもうつかれたぁ!! だっこぉぉぉ……ドォーン!」
保奈美はプロレスのように幸彦に向けて真上に跳躍する。そしてフライングボディプレスを食らわせた。
それは重力をふんだんに蓄えた恐ろしい技だった。
幸彦はなんとか保奈美の体を全身で受け止める。
「グェェェェ! ぶは! ふぅぅぅぅ。保奈美ぃ……いきなり飛ぶとびっくりするからやめてくれ。なっ?」
「うん!」
元気よく返事をする保奈美。幸彦は心が読めない彼女の行動にすっかり振り回されるのだった。
保奈美の体を支えるたびに指がなんとも言えない幸福を感じ、熱っぽい吐息が花のようないい匂いを撒き散らす。理性が蕩けて蒸発しそうなほど欲望が込み上がってくるのである。
しかも彼女、その……恐ろしいことにノーブラなのだ。ノーブラなのだ。凄い柔らかい。
(やたらめったら密着してくるから、もう辛抱たまらん。あまり、こんなことをしていると、俺がやばい。本当にやばい。なんかキスしたい)
ヘベレケ状態の彼女の相手をするには鉄のように強靭な理性が必要だった。
しかし、幸彦は性欲溢れる男子高校生だ。それに加え、この暑さで体力が、女子と物理的に接触する興奮で理性がゴリゴリとゴマのように削られて行くのである。
このままでは、多目的トイレを保奈美を有無を言わさず、連れ込まれる危険があった。
(うん、出よう。取り返しが付かなくなる前に)
先程から押し付けられているぐにぐにと形を変えるスライムのような胸の感触、瑞々しく健康的な太腿、彼女の柔らかく沈むような二の腕、女性らしいぷにぷにした感触を全身で享受していると、彫刻のように幸彦の体が動かなくなる。
まるで上品な酒でも飲んでいるように幸彦の思考は次第に酩酊していくのだった。
(女って素晴らしいわ。これはやんばい。スッゲェ。好きとかそういう前に欲望が勝ちそう)
このままじゃ、性犯罪者になる。そう判断した幸彦の行動は早かった。
ねっとりと絡みついてくる保奈美を素早く振り解き、背中に背負う。
彼女の体がずり落ちないよう確認をした後、幸彦は職員室を後にするのだった。
「ふみぃ…… すー、すー、んふぅ、ふふふ」
「おーい、寝るな、起きろ、起きろ、保奈美」
「ふわぁぁぁ…… ねぇてにゃいわよぉぉ……」
「はぁぁぁぁ、いいにおい〜〜むふふふぅ。すぅぅぅぅぅ、はぁぁぁぁぁ……」
「良いシャンプー使ってるからな。そんなに嗅がれるとくすぐったいぜ」
軽口でなんとか誤魔化す。匂いを嗅がれるという異常事態も、女子をおんぶしている事実には容易く消え去るのだった。
他人の凶行を意識するほど、幸彦の理性の余裕はない。今は首がむず痒いだけで、止まっていることを喜ぶべきである。
そうしていると保奈美は不思議そうに前方を見つめ、首をかしげる。それと同時に背中の四本の鉤爪も俊敏に動くのだった。
(よし、いいぞぉ! もっと背中の鉤爪を動かせ、そのカサカサ音で俺も理性取り戻せるから。ハッハッハッ! 気持ち悪くて性欲なんてみるみる内に吹っ飛ぶぜ!)
鉤爪らしき物体は、突然保奈美のセーラー服を突き破って背中から飛び出してきた。最初は驚いたが今はもう慣れた。
それは黒く短い毛がびっしりと生えており先端が鋭く尖っていた。
その形は危険だが、まぁ今は無視してもいいだろう。
幸彦が見たところ、それは、彼女の意思と連動して制御出来ているようだった。なら、彼女が興奮でもしない限り大丈夫に決まっている。
そう思った幸彦は、いい感じに理性が回復したので、気色悪いカサカサ音を止めるよう後ろの保奈美に声をかけた。
「おーい、保奈美? その音ちょっと煩いから、少し動き止めようかって……?
「んぅんん、なにぃ、わたしぃねぇてたのに……起こさにゃいでよぉ、ゆきひこのぉ、いじわるぅ……えへへへへ」
背中で寝ていたようだ。実に嘆かわしい。幸彦があんなに頑張っていたのに寝てたのか。胸の一揉みでも二揉みでもしておけば良かったと彼は心の中で後悔した。
「なまぁよんで〜?」
「呼べばいいのか? 保奈美って」
「むふふふふふ、もっとぉ、もっとぉ、もっとぉ」
「ハイハイ、保奈美……保奈美……ほっなっみ」
調子になった幸彦は、彼女を下ろして耳元で彼女の名前を囁く。テノールの渋そうな声を意識して。すると彼女はビクビクと体を震わせ、腰を抜かしていた。
「おほぉ、おほ、おほ、おほ、おほぉ……良いぃ。スッゴイいぃ」
やはり色々と内に溜め込むタイプらしい。普段はあんなに粛々としているのに人目を気にしていたのか、彼女は酷くタガを外していた。
保奈美と付き合う奴は大変だ。こんなに甘えられては、付き合うのも厳しいだろう。
しかし、名前を呼ぶだけで満足するなら、幾らでも呼んでやるのだった。
(素晴らしいことは、あれ買って、これ買ってではなく名前呼んでということだ。タダ、無料、フリー、素晴らしい。金がかからず、お金持ちの女なんて彼女はどれだけの有料物件なのだろうか? 結婚は無理。友達ならギリギリありだろうか)
そうして幸彦が本格的に仲良くすべきかどうか検討していると彼女はゆらりと立ち上がり、幸彦の顔をうっとりと見つめる。
「何か顔についてるか? 保奈美?」
「うへぇへぇへぇへぇへぇ……もっもっもっもっもっもっもっもうむりぃ。我慢できないぃ。好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き幸彦君、だぁーいすき!」
「それは……? ありがとう。男冥利に尽きるな」
「いっ……いい? いい? いい? いい? タベテモイイ?」
「はい⁉︎」
「はっ……はぁはぁはぁはぁ!!」
彼女は明らかに異常な様子で幸彦を見つめ、中腰の体制で足をカクカクと振るわせる。
「何だそれ! ちょっ! ちょ待て! 落ち着け!! 俺は食べ物じゃない!!」
保奈美は幸彦の顔を熱狂的に詰め、目を爛々と輝かせる。彼女の妖気は次第に高まっていき、膨張し始める。
それを見た幸彦は、急いで保奈美を下ろして距離を取るのだった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」
保奈美は荒い呼吸を何度も繰り返す。完璧に目が血走っていたのか、彼女は舌で何度も唇を湿らせる。一番やっちゃいけないことをやってしまうのが幸彦の悪い癖だった。
「――っく!! おいおいおいおい!! マジで⁉︎」
彼女はあろうことか幸彦を食べ物と勘違いしたらしい。
性的な食べ物として……
幸彦の真上から一本の鉤爪が無慈悲に迫ってくる。その速度は、先程のノロノロした動きとは思えないぐらい早いものであり、彼は首を傾けて紙一重で交わした。
すると、鉤爪は幸彦を通り越して、床に敷かれていたカーペットと床を豆腐のように貫通する。
「アハハハハ!! 欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、欲しい、貴方がホシィ!!」
「ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!!」
あれはやばい。感知タイプの幸彦が食らえば一撃でやられるような威力であった。
しかも避けたと思った鉤爪はすぐさま跳ね上がるオマケ付きだ。
「くっ⁉︎」
幸彦は全神経を集中させ、それを回避し続けるが、最初は一本、次に二本、三本、四本と本数はどんどんと増えていく。
上下二対、計四本の漆黒が嵐のごとく激しさを持って幸彦に襲いかかってきた。
(右上薙ぎ払い、その場で屈む。左下振り上げ、体を半身にのけぞる。左下突き刺し、右下振り上げ、左上振り下ろし。体を反らして、左に飛び退いた後、右斜め前に前進!!)
明確な意識が乗った結果、暴走した攻撃をなんとか回避する幸彦であったが、状況は刻一刻と悪くなる一方であった。
(一か八か…… 前に!!!!)
幸彦はぐっと腰を沈め、その場に止まる。
するとそれを待っていたかのように一斉に四本の鉤爪が幸彦目掛け、放射状に近づいてきた。
(待て、待て、待て…… ここだ!!)
彼女の心が捉えたと確信した瞬間、幸彦はふくらはぎに力を入れ一気に駆け出す。
「あれ〜?」
保奈美は目標を急に見失ったことで、攻撃の手を一旦ストップさせる。
どうやら回避できたらしい。幸彦は安堵するのだった。
しかし、ホッとする余裕は彼にはなかった。不思議そうな顔をした保奈美と目が合うことで、そのことに気がつく幸彦。
(あっ…… 止まるとかそういうの考えてなかった…… これは――ぶつかるぅ!!!!)
駆け出した幸彦はその勢いを消すことが出来ず、彼女の体目掛け飛び込むことで、ようやく止まるのだった。
「ゆきひこ〜? いなぃぃぃぃぃ…… ふみゃあ⁈ ……いったぁーいいい!!」
保奈美は幻想の敵をきょろきょろと探していたらしい。その証拠に幸彦のタックルを避けることなく体で受け止め、猫のような悲鳴を上げるのだった。
しばらく痛みで涙ぐんでいると、今の状況にようやく気が付いたらしい。
彼女は真上に乗っかっている幸彦を発見すると、すぐさま擦り寄り、頬擦りをした。
「ねぇ、ゆきひこぉ? わたしぃ。イタイのぉ なんでぇぇぇ? ねぇ、ぎゅ〜してぇ、なでてぇ〜〜」
「ぎゅ〜〜じゃないよぉ…… こっちは死ぬ所だったんだぞ…… それを……そこんとこちゃんと分かってくれよぉぉ〜〜」
「よしよし〜、ゆきひこくんはえらい、えらい」
彼女は幸彦の嘆きなど、お構いなしに幸彦の体を引き寄せ、力強い抱擁をする。お互いの距離が近くなったせいか、彼女の柔らかい感触がダイレクトに伝わる。
飼い犬のように至福のひとときを味わうよう彼女。だらしない笑みを幸彦に向け、熱っぽい視線でうっとりと見つめる。さながら、我慢できない発情した獣のように。
しかし、幸彦にはそんな元気も、心の余裕もない。彼の胸中を占めていたものは一つ。それは……
(おぉう…… ふぁんたすてぃっく。嬉しいような怖いような)
さっきの戦闘と、照れや、なんやらで心臓が飛び跳ねそうになっていると、いつの間にやら鉤爪が幸彦の背後に近づいていたようだ。
それは幸彦の手を傷つけることなく器用に持ち上げ、彼女の頭に手を置いて固定する。
彼の手は彼女の形の良い頭と、艶やかですべすべした黒髪の感触を如実に伝えるのであった。
保奈美の方も幸彦の手が頭にあるのが分かったのだろうか。目を細め、気持ちよさそうに蕩けて見せる。だが、幸彦は興奮するというか、刺されたりしないだろうかそればかりがかになるのだった。
五限目の授業からもう色々余裕がない。彼女に体を擦りつけられすぎて今日だけで一生分、女子と触れ合っているのでないかと錯覚する。
文句を言えばいいのか、感謝を言えばいいのかよく分からない幸彦であった。
「誰か、適当な先生でも呼んで…… って、そうだ。誰もいないんだった……」
ところでドギマギとドキドキ非常に似ていると思ったことは今までないだろうか? 何らかの接点があるのでは。
そう考えていると二人に黒い影がさす。呼べば現れるとは正にグッドタイミングである。
「お前ら……既にそんな仲だったのか。先生びっくりだ。避妊はちゃんとしろよ? 学生なんだから」
それは担任教師、豊田静葉が落とした影であった。
しばらく内容を編集してます。