第一話 天敵
話は二ヶ月前に遡る。あの頃の幸彦は自由に大空を羽ばたく鳥のようだった。それが鳥籠に入れられたのは二ヶ月前。
薄暗い灰色の空と、季節外れの寒風が吹き荒れる四月の出来事であった。
ターニングポイントは四月十日、水曜日。今日という日に登校しなければ、ここまでは自由にはならなかったであろう。
しかし、この時の幸彦はそんなことを知る由もない。そうして彼は、いつものように黙々と黒板の|板書を書き写していたのである。
(……全く分からん。どうなってんだ。この問題)
幸彦は穴が空くまで教科書を見つめるが、答えは全く浮かんでこない。それもそのはず。彼は問題を解こうとしていないのだから。
幸彦はなんとなく黒縁の眼鏡を外す。そして布で丹念に磨き上げると、眼鏡をかけ直すと視線を再び下ろした。
(えーとなになに? 120m離れたケガレの前方に20メールの高さまで術式を遮断する結界があるものとする。そこで高低差10mの地形で光術式を鏡反射させ、結界の上から狙撃するために妖気でガラスを形成しプリズムを出現させる。その出現させた射線上のプリズムの最大の固定位置と最小の屈折率を求めよ。なお、術の種類は光子熱線 刹那 術の射程は250mとし風向、風速の条件は受けないものとする)
苦労して、長文を心の中で読み上げて分かったことは一つだけ。それが分かると幸彦は、シャーペンを指の腹で転がした。
そもそも彼の得意なのは氷雪術式だ。専門外の術式のことなど初歩的なことしか幸彦は覚える気がない。
これが高校の単元の躓きという奴だろうか。これからのテストの先行きが怪しかった。しかし、ダメだと分かっていても動けるかは別である。
(もういいや。誰かに答え教えて貰おう)
幸彦はそう思って周りを見渡すが、クラスの雰囲気はすっかり固まりつつあった。そんな中に飛び込んで会話をするのは本当に嫌である。
だが、それよりもっと嫌なのは、誰かに話かけられることであった。幸彦は、慎重に斜め前を見る。
するとそこには、長い黒髪を佇ませてこちらに手を振る絶世の美女がいた。
(知らんぷり、知らんぷり。俺に手を振ってない。絶対俺に手を振ってない。後ろの人物に手を振ってるんだな。あれは)
幸彦は白髪をしたお人形のような少女に声をかける。
(えーと……名前と種族はっと。あぁ、彼女は白百合梓さんっていうのか。種族は妖怪だな。OK OK)
そうして幸彦が、虚空を見つめていると白百合さんが笑顔で声をかけてくる。
「何かお困りでしょうか、幸彦様? 随分険しい顔をなさっていますが……」
「幸彦様? まぁいいや。えーと……問題解けてます? ちょっと分からなくて教えてもらいたいんですけど、いいですか?」
幸彦はその親しげな様子に、微かな違和感を抱くのだったが、緊張しているからか見過ごした。初対面の彼女が幸彦の名前を知っているという最大級の違和感を。
そうして、幸彦は甘い甘い蜜壺にどっぷりと嵌るのだった。
「――えぇ、解けてるわよ。ようやく貴方から話かけてくれたわね? 天田、幸彦君」
声と雰囲気が一気に変わる。まるで待ち望んでいたように。
「はっ?」
顔をゆっくりと上げた少女は髪と顔を掴んだかと思うとそれをベリベリと剥がす。
どうやら少女の正体は変装だったようだ。栗色の髪の毛と可愛らしい顔はウィッグと特殊マスクだったのらしい。真っ黒で艶やかな髪と高校生とは思えない、しとやかな魔性を纏った美女が現れるのだった。
「――げぇぇぇ! なんでお前がそこに⁉︎ だって、お前はあそこにずっと座っていただろうが……」
そうして幸彦は、彼女がいた窓側の席を指差すが固まる。
「嘘だと言ってくれよ……」
そこには先ほどの白百合さんが両手を顔の前に構えていたからだ。
「しー……あんまり大きな声を出すとバレちゃうでしょう? 少し認識されづらくなってるだけなんだから。それにしても……げぇぇぇ! は少し失礼なんじゃない? 私一応少女なのだけど……ぐすん」
彼女はそっとハンカチで目を拭う。ギョッとする幸彦であったが、よく見るとなんて事はない。ただの嘘泣きだった。
「いや、ごめん。驚いたから……その悪い」
幸彦は彼女に声をかけたことを激しく後悔した。なんせ彼女は、幸彦が意図的に接触を避けていたからだ。
「なら、いいでしょう。さて――何の用かしら? 天田幸彦君?」
彼女の名前は鈴木保奈美。とある有名企業のお嬢様。うちのクラスの委員長。糸を操るのが得意な蜘蛛の妖怪。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
そんな、美人でおしとやかな我がクラスの委員長様は嬉しそうに問いただすのであった。
「何の用って、なんというかその……」
「あぁ用事もなく、ただ私と話したかったのね。照れなくていいわよ。私もちょうど話したいと思っていたから」
「いや、別にそういうわけじゃあ……」
「照れなくていいわよ。私、頭も恵まれてるから。天は二物どこらか、三物も、四物も私にくれたのよ。なら、余裕がある分たっ〜〜ぷりと奉仕してあげないと。そう、思わない?」
彼女は髪を優雅にかきあげると上目遣いで色気たっぷりにこちらを見つめてきた。
軽々しく下の名前を呼ばれることに、どうも戸惑う幸彦であったが、今はそれよりも話を切り上げる方が先決だ。
「問題の解き方教えてもらおうとしたんだけど、やっぱいいです。他の人に聞きます。それじゃ」
そうして保奈美に背を向ける幸彦。彼女は少し悲しそうな目をする。そして幸彦の背中にもたれかかった。
「――悲しいわぁ……その言い方。もっとフランクにいきましょう。保奈美って……下の名前で呼んでくれるかしら? 私たち、浅からぬ関係でしょう?」
そう保奈美は幸彦の耳元に囁くが、それは中々難しい問題だった。
腰まで届く長く艶やかな黒髪。琥珀色に輝く二重の大きな瞳。右目の下にある小さな泣き黒子。男を惹きつけるような豊満な体つき。
そんな妙齢の美女のような色香を振りまいてる彼女に対し、どうフランクに対応すればいいのか。
幸彦は落ち着かない気持ちをぐっと堪えると、彼女の肩を掴み、距離を離す。
「二年間クラスが一緒なだけですよね。誤解されるような言い方はやめて下さい。遊んだこともないし」
揶揄われてクラスの晒し者になるのは二度とごめんだった。
「あら? おかしいわねぇ……私の記憶では確か……何回も誘っても断ったのは幸彦君じゃないかしら? 私に落ち度なんてあったかしら? 不思議ねぇ……うふふふふ」
彼女は徐々にこちらに美しい顔を近づけてくる。その度に幸彦は顔を逸らすのだった。
「その、一緒に遊んで、知人に噂とかされると恥ずかしいんで……」
「あら、可愛い言い訳ね。誤解されても私は構わないわよ。むしろ……誤解される方が、嬉しいかしら」
「はぁ、いい加減にしてくれませんか? ラブレターとかもいっぱい貰ってるんでしょ? わざわざ俺を選ばなくても……」
遠回しに彼女の好意を断る幸彦。何かあっても外野がいちいちうるさすぎる。そんな損な役回りは頼まれても嫌であった。
しかし、彼女はしつこい。とんでもなくしつこい。
「それを決めるのは貴方じゃなくてぇ……わ・た・し。好きも嫌いも他人に指図されるのは嫌いなのよね。例えそれが誰であろうとも」
「はぁ、立派な主義をお持ちで……じゃあ気持ちが変わることを祈ってるます」
緊張のせいで噛んだ。とてつもなく恥ずかしい。
「ねぇねぇ、今どんな気持ち?」
そんなに目を輝かさないで欲しい。恥ずかしさが何倍にも膨れ上がる幸彦。
「穴があったら入りたいよ」
いつもこうなのだ。保奈美はぬらりとやってきて、幸彦のパーソナルスペースを奪う。
彼女は幸彦が会話に詰まりかけていることなど素知らぬ振りで距離をどんどん詰めてきた。
「それで、どこが分からないのかしら。よかったらノート見せて貰える?」
彼女は幸彦の言い分などは聞く耳を持たない。
「ちょっ⁉︎ 近い、近い!! おっぱい、おっぱい当たってるから!!」
スライムのように柔らかい胸は、幸彦の肘に沈んでどんどん形を変えていく。青少年には刺激が強すぎる代物だった。
「よかったぁ。ホモセクシャルじゃないのね。私困ったわね。性別を変えるの踏ん切りはなかなか付かなかったから」
「さすがにこれは目立つって! ヤバイって!」
髪の毛から色濃く漂ってくるシャンプーと汗の匂い、密着される肢体はどうにも幸彦を動揺させるのだった。
「さてさて、どこまで書いてあるのかしらって……あら? ゆ〜き〜ひ〜こ〜く〜ん? 白紙じゃない。駄目よ〜サボってちゃあ」
幸彦は白紙のノートを保奈美に咎められるのだった。
「お前には……関係ないでしょうが……」
幸彦は目を逸らしながら、告げる。流石に面と向かって白紙で問題ないと言う度胸は彼にはなかった。
幸彦が差し出したノートを見て、保奈美は困ったように頬杖をつく。
「真っ白ね……授業は真面目に聞かなくちゃ駄目よ。それと敬語なんか付けちゃって……もっと親しくしましょうよ」
彼女は困ったようにため息を付いた後、こちらにしなだれかかって来ようとする。それを幸彦は手で押しのけて、本心を言う。
「――だから、そんなに近づかれたら。勘違いするだろうが!」
それを聞いて彼女は、いっそう楽しそうに笑う。
「あら、あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。お姉さんとっても嬉しいわ。そんな素直な幸彦には、出血大サービス。私直伝の裏技を教えちゃおうかしら? この勉強方を知ればテストで百点間違いなしよ」
保奈美はさりげなく幸彦の手を握る。普通の男子は喜ぶのだろうが、幸彦はそれを振り払う。どうも彼女はきな臭く、受け入れられない。それは一年前からずっと変わらなかった。
「いや、答え教えてくれるだけでいいんだけど……」
「いいから、いいから。何も悪いところはないのよ? ほら、ほら」
この時彼は、素直に返事をしなかったことを後悔した。あんなことになるとは想像が追いつかなかったのである。
「今だけだから! ちょっとだけ! ちょっとだけ! 話を聞いてちょうだい。お金あげちゃうから!」
「いや、話し聞いてる? 俺答えだけ教えて貰いたいんだけど……ええぃ、札束を出すな! いかがわしく見えるだろうが!」
その理由は、保奈美がより熱心にプッシュしてきたからだ。断っているのになぜ、ここまでグイグイ押してくるのだろうか。そこまで勉強を教えたいのか。それはちょっとした執念のような何かを感じた。
「えっ? 他の教科も教えてくれって? 天田君って随分欲張りさんね。 保険体育の実習がしたい。もぅ、困ったわねぇ。ズボン一人で脱げる?」
「ちょちょちょちょ! ボリューム! ボリューム下げて! お願いだから」
いきなり彼女はアクセルをフルスロットルにする。幸彦は慌てて保奈美の口を手で押さえる。そして教室を見渡すとあら不思議。
教室の大半のクラスメイトが彼に冷たい視線を向けていた。
(うっ……汚物でも見つめるような視線でこっちを見るな……ていうかそこの女子、想像するな。気持ち悪い。言ったの俺じゃないし。言ったのはこの痴女だし)
幸彦の思いとは裏腹に、視線はどんどんと集まってくる。そうなると、豊田の目も自然と幸彦の方に吸い寄せられるのだった。
「なんだ。天田、元気そうだな。そこまで独り言を言う元気があるなら答えてみるか?」
「いやいやいや! 俺答え分からないんですけど……えっ、独り言?」
「お前の他に誰かいるのか? まぁいい。間違っても大丈夫だぞ!」
豊田は親指を上げ、自信満々に言う。それを見た幸彦は思う。
(保奈美には気付いてないのか? じゃあ保奈美と俺がイチャイチャしてるようには見えてない?)
胸を撫で下ろす幸彦。しかし、それは保奈美にとって好都合なだけであり、決して彼に得があるわけではないのだった。
「よし。これ解いてくれるかって…… うぉ、鈴木お前いたのか? 白百合がそこにいたんじゃなかったのか? あぁ?」
どうしようかなと考えている間に、彼女の口を抑えていると、突如手がなめられる。
「うひぃ⁉︎」
「お前何言っとるんだ? それは何かのギャグか? 滑ってるぞ……」
違う。別にギャグを言おうとしたわけではない。保奈美がべっとりと舌を押しつけて手をなめてきたのだ。幸彦はそのベタついた感触が気持ち悪くて仕方がなかった。
「ぷはぁ、先生、私が解きます」
彼女は、幸彦の手を無理やり下げさせると、しっとりとした落ち着きある声を放つ。そしてなぜか、幸彦の手を確保するのだった。解せぬ……
彼女はこちらをじっと見つめてきた。お礼でも言えば満足するだろうか? それとさっさと手を離して欲しい。
「あっ……ありがとう?」
「何言ってるのかしら? 貴方も解くのよ」
立ち上がった彼女はスルリと幸彦の腕を組み強引に立ち上がらせた。
「ちょおぉぉ⁉︎」
「さっ、一緒に解きましょう? 早く」
「はぁ⁉︎ 強引すぎ、誰があんたみたいな痴女と ――アタタタタ⁉︎ 腕千切れる! 千切れる! 何考えてるんだアンタ!!」
彼女はその柔らかそうな腕を持ってギロチンのように幸彦の肘を極めるのであった。
「今……何か変な単語が聞こえたけど、気のせいかしら?」
彼女はさらにぐっと力を入れる。幸彦は彼女の容赦ない力のかけ方に叫ばずにいられない。
「あぁぁぁ! 気のせいです。気のせいですから早く外して下さい。チクショウ! なんで、なんでこんな痛いんだ! 森へ帰れこのゴリラ女アギャヤァァァ! ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさいぃぃぃぃ!」
肘がビキビキと嫌な音を立て始めていた。さすがに冗談で済まなそうなので幸彦は全力で謝る。
「問題一緒に解く? それとも……壊す?」
「解きます! 解きます! 解きますから、早くこれ外して!!」
「なら、緩めましょう。保険は一応かけとくけどね」
彼女はすぐさま力を抜くと幸彦の指と己の指をねっとりと絡めるのであった。
恋人繋ぎだが、全然ドキドキしない。むしろバクバクと恐怖が襲ってくるのだった。
「えーっと……何のつもり……?」
「逃げたら指の関節を一本増やすとしましょう。大丈夫、私の治療の腕は確かだから。むしろ治す前より、丈夫になるからいいんじゃないかしら?」
保奈美は、真顔で言った後に、ニコッと笑う。それを見て幸彦は頭がくらっとした。
イカレテル。本当にイカレテル。
「あははははは、面白い冗談だなぁ」
「うふふふふふ、面白い冗談にしましょうね」
彼女に話かけたのは失敗だったかも知れない。今の幸彦の癒しは、保奈美の水風船のような胸の感触だけだった。
文字がキツキツでもしかしたら見にくいかも知れません。後で編集しておきます。