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第一話 藪蛇


「はぁ……散々な一日だった」


 大阪駅へ着いた幸彦はいつものように、改札を通りぬけプラットフォームに向かおうとする。しかし駅の中は人妖でごった返し、彼は意図せず心の声を無意識に拾だてしまうのだった。


『明日のテスト八十点以上絶対取るぞ!』


『あ〜あ〜、イケメンで頭良くてスポーツもできる彼氏欲しいなぁ〜』


『アイツ、人間の癖に舐めやがって……絶対ぶっ殺してやる、ズタズタにして引きちぎってやる!』


『死にたい、死にたい、死にたい、死にたい……』


『ここで財布落としたと思ったのですが……見当たりません。むむむ、どうやって帰りましょう』


決意、願望、怨嗟、絶望、困惑、それらの声が延々と幸彦には聞こえ続けていたからだ。


 他者の考えを読む。それは戦闘や交渉、人身掌握(しょうあく)など幅広い応用が効くものだった。

 都会の群衆の中でなければ。また彼の精神が不安定な状態でなければ……

 視界が揺らぎ、吐き気がする。手に力が入らず、幸彦は今にも倒れそうだった。


(あんなことがあったから疲れているのだろうか……)


 彼は自分をごまかし、なんとか姿勢を維持しようとする。しかし悪意の声は止まない。


『お前だけがしんどいんじゃねーよ。下手な演技するな、腹立つ』


『うっわぁ、何アレ迷惑になってね? 倒れるなら駅にくんなっーつーの』


『酔っ払いか? って学生じゃないか……酒なんぞ飲んで。ったく全く最近の若いもんは、マナーがなっとらん』


『死んだ方がいいんじゃないですかぁ。いや死にましょう。そうした方がいい。クヒヒヒヒヒヒ!』


『うざい』『さっさと倒れろ』『まじで迷惑』『外出ないで欲しい』『体力なさ過ぎ』『風邪うつすな』『マスクしろ』『死んだら楽になれますよ、クヒ、クヒヒヒヒヒヒ』


 悪意や決めつけが幸彦の体に重くのしかかる。追い詰められた彼の精神は幻聴も聞こえ始めていた。


『しーね』『しーね』『しーね』『しーね』『しーね』『しーね』『しーね』『しーね』


『皆さんが貴方の死を望んでいます。これは死んだ方がいい。絶対に死んだ方が良いですよぉぉぉぉぉ!!』


 幸彦の死を願う大合唱は止まらない。彼の歯がカチカチと音を立てる。幸彦は極寒に放り込まれたかのように寒くて寒くてたまらなかった。


 汗が止まらない。空気が恋しい。手足の震えが加速する。今にも死に絶えそうな幸彦であったが、ある声で正気に戻る。それは可愛らしい少女の声だった。


『やばい、やばい、やばい、やばいですぅ!!駅員さんに聞いてみたら落とし物届いてないって……はぁーーーー⁈ フツーこう言うのってぱっと見つかってぱっと帰れるもんじゃないですかねぇ⁈ 真白の財布はどこに言ったんですかぁーーー!!』


 悲痛(ひつう)な心の叫びが聞こえてくる。それは悪口よりもよっぽど耳が心地良かった。


 その方向に顔を向けて見ると、彼女は肩に竹刀ケースを背負って微動(びどう)だにせず直立していた。


 いやよく見たら汗をだらだらとかき、せわしなく眼球が動いている。どうやらパニックになっているらしい。

 幸彦は、少女の焦る様子を第三者として冷静に見た結果、自分のさっきまでの悲劇のヒロインっぷりが恥ずかしくなってきた。


(なんだろうか。自分より焦ってる人見るとなんか一周回って冷静になってくるのは……)


 彼女は落ち着くことなく、目線をキョロキョロとせわしなく動かす。

 そして手を引っ込めたり出したり誰かに助けを求めようとしていた。


『財布ないから貸して下さいって真白頼むんですか? イヤァーーーー!! めっちゃ恥ずかしいじゃないですかぁ! 財布ですよ財布。後一年で高校生になるのに財布無くすなんて恥ずかしくて親に言えない……』


 彼女はオロオロとしながら周りを見渡していく。するとたまたま彼女を見ていた幸彦と目があった。


 彼はなんとなく親近感を感じたので手を振るのだが、彼女は体を抱くようにして幸彦と距離を取った。


『なんでしょう。じーーとこっち見られてます。目とか腫れてるし姿勢は悪いし、なんかだめそうなオーラが漂ってる……痴漢(ちかん)とかでしょうか……あっ目線逸らしました。怪しいですね……通報した方がいいかな……』


 彼女は気が動転しているのかスマホを取り出してどこかに電話をかけ始めようとしていた。



 それを見て幸彦は頭を抱える。



(あぁくそ、今日は厄日だ……同級生に襲われるわ、心配してたら通報されそうになるわ。これも全部、全部、全部、全部、保奈美のせいではないだろうか)


 彼は拳を握り締める。すると手の中からグシャッと何かが潰れる音がした。それはお付きの人から渡された茶封筒を握りしめる音だった。


(あぁこんなもん持ってるのが悪いんだ。よし……!)


 彼はそれを穴が開くほど見つめた後、何かを思い付いたかのように中学生にズンズンと近づいていく。

 


 すると彼女は完璧に痴漢だと決めつけてしまっているのか驚きの行動をとってきた。



『ヒィィ ちょっ直接くるタイプのチカンですか⁈ くっ来るならかかってこいやぁ!! ぶっ飛ばしてやる!! ブラブラしてるもん潰してやるぞコラァーーーー!!」


 彼女は意を決したかのように目を鋭くし口を引き結ぶ。そして肩から竹刀ケースを取り外し、それを上段に構え足を一歩後ろに引いた。

 すると周りはすわ何事かと、危険を察知し、波が引くように群衆が移動する。するとどうだろうか。改札前のスペースが円周上にガラッと空き、幸彦と少女のタイマン空間が出来上がった。


(痴漢とか喧嘩じゃないんだけど……まぁいいや、とっととこれ渡そう)



 幸彦は何の躊躇(ちゅうちょ)もなく彼女の間合いに入ろうとする。



 それは幸彦の能力ゆえの接近だったが彼女には分からなかったのだろう。ムッと唇をへの字にし手に持っていたそれをきつく握る。


 緊張しているのだろうか。彼女は一撃を入れるのに集中しすぎており、周りへの配慮が足りていないように思えた。

 だとしたらこの方法が一番の平和的解決方法だろう。


(女だからと思って舐めてたら痛い目見ますよ。悪は真白が成敗いたします!! 覚悟して下さい!!)


 少女は絶妙(ぜつみょう)のタイミングでそれを振り下ろそうと幸彦の一挙一堂に注視したいので逆手に取ることにした。

 彼は唐突に指で少女の足元を指して顔に手をやる。


可哀想(かわいそう)に……」


「なっ何がですか!! 私の注意を引こうったてそうは行きませんよ」


 仕込みは出来た。後は引っかけるだけである。


「いいのか? ゴキブリ踏んでるって言ったらショックだろ。あっ……ごめん言っちゃった」


「本当ですか? ……嘘じゃないですか?」


 少女は振りあげた姿勢のまま固まった。そして沈黙の後絶叫を上げるのだった。


「ウギャーーーー⁉︎ ウッソォー!!!!!! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いぃぃぃぃぃぃーーーー!!」


 少女は構えを解いてすぐさま靴の裏側を確認する。しかし、彼女の赤色の靴にはゴキブリを踏みつぶした後など無かった。


「よかったぁ……っていないじゃないですか⁉︎ 騙しましたね! なんと卑劣(ひれつ)な! あだ⁉︎ っっーーー!」


 少女の無防備な脳天に手刀が振り下ろされる。彼女は頭を抱えて痛そうにしゃがむのだった。


「――ほい、チェックメイト。ったく。勝手に痴漢扱いするな」


 不平たらたらの顔で少女は困惑(こんわく)した表情をする。


「えっ? えぇぇぇぇ…… そんなぁ、だってついさっきまでそこにいたのに……」


「集中力があんなに乱れたら、気配だって感じ取れんわな。もうちょい精進しろよ」


 そして幸彦が何かを渡そうとすると少女はビクッと肩を震わせた。

 ぶたれるとでも思ったのだろうか。彼女は目に大粒の水滴(すいてき)(にじ)ませた後、大声で叫び出す。


「親にもぶたれたことないのにーーーー!何なんですかぁーーーー!! 年上が年下に勝って嬉しいんですかぁーーーー! ワァァァァァァン!! 悔しい悔しい悔しい悔しい悔しいぃぃーーーー! 負けてないもん、負けてないもん、負けてないもん、負けてないぃぃぃぃもぉーーーーん! 真白は負けてないもぉぉぉーん!!」


 少女は悔しさのあまり、制服が汚れることを(いと)わずにその場で寝そべって、手足をバタつかせる。そして幸彦の足をしっかり掴むのだった。


(こ、こいつ。勝ち負けなんて関係ないってのに。あぁ人が集まって来やがった。くそ!)


「再戦、再戦、再戦、再戦、再戦、再戦んんんんん! 真白が勝つまで諦めないんだからぁぁぁぁ!!


「――あぁ、もう君の勝ちでいいから。釣りは要らん。さっさとそれ持って家に帰れ!! じゃあな!!」


 そうして幸彦は彼女の手を振り解き逃げるように改札を渡って駅のプラットフォームに向かうのだった。


 幸彦が去ってから数十秒すると、騒ぎを聞き付けた駅員がシクシクと泣いている彼女に事情を聞いてくる。


「君、痴漢被害(ちかんひがい)にあったって? 犯人はどこにいるんだい? 近くには見当たらないが…… 逃げたのか?」


「黒星がぁぁ! 真白に黒星がぁぁ! うわぁぁぁぁん!! ぐす、それになんか渡されました。きもい、死ねばいいのに、手加減しろぉ!! 逃げるなぁ!!」


 そう言いながら彼女は勢いよくそれを駅員に渡す。


「なんだ……? 封筒? っっ⁉︎」


 彼はそれを開いて中身を見た後、驚いた顔をする。


「――君、これ何て言って渡されたんだい!」


「えっ? ぐす、電車賃って……釣りは要らないって言って渡されました。あれ、でも……真白財布無くしたって言いましたっけ?」


 彼女は不可解な現象に眉を潜める。しかし駅員はそれどころではなかった。


「いやいや、電車賃にしても多すぎるよ…… 彼? もう帰っちゃったかなぁ……」


「多すぎるって……一体幾ら入ってたんですか?」


 一万円札でも入っていたのだろうか?


 彼女は駅員に渡していた茶封筒を返して貰い紙幣を取り出して枚数を確認していく。


(一枚、二枚、三枚、四枚…… ひぇ、お札がいっぱいです)


 少女は途中まで数え出して、四枚目で数えるのを辞めた。確かに電車賃にしては多すぎだった。


「……元の財布に入ってた量より多いです。一万円近くも入ってるなんて……」


 彼女は茶封筒を震えながら封を閉める。しかし、駅員の口から驚愕(きょうがく)の事実を告げられた。


「はい? あぁ、それ千円札じゃなくて全部一万円札だよ。電車賃に十万円ポンと払うってちょっと僕には想像できないなぁ。はははは……」


 一万円札? それはよく見ると少女が普段使っているチョビ髭のおっさんではなく、仏頂面のおでこを強調したおっさんが書いてあった。


「十万⁉︎ ウェェ!! 野口じゃなくて諭吉⁉︎ あわわわ!そんな貰われても真白困ります……

連絡先とか知らないのにどうやって返せばいいんでしょう……?」



 お年玉並みの現金を所持してしまった少女は、途方に暮れたようにしばらく立ち尽くすのだった。



「しょうがない。こちらでも彼のことは探しておくよ。特徴とか覚えてる?」


「確か、青い髪と青い目、それと学ランを着てました」


「というと、学生の誰かかもね。それなら案外早く見つけられるかも」


「ほんとですか? なんというかもう一度会ってみたいです!」


(あんな負け方納得いきません。真白の財布のこととか気になって仕方がないし。そこんところちゃんと説明して貰ってお金返さないと)


「次こそは真白が絶対勝ちます!!」


 彼女は鼻息を荒くし、名も知らぬ青年を絶対見つけ出してやると息巻くのだった。





「はっくしょん⁉︎ 風邪でも引いたかな……ぁぁすいません。口押さえます。はい」


 ティッシュで鼻を拭う(ぬぐ)幸彦。

 出来れば風邪であって欲しかった。誰かに(うわさ)されるとなれば悪口と相場が決まっているのだから。


物語って難しいですね……

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