九、考え方をシンプルに戻そう
九、考え方をシンプルに戻そう
プロジェクトの定例会議、私の発言は発作的にも見えただろう。
「人の心が平穏であるためには均一にする必要があります。でも、人の感情は決して同じになることはない。この二つを矛盾させずに存在させる仮説を入れてみたいんです。怒りや喜びを人から切り離して数量化する、そう変えませんか。」
意味を最初に理解したのは、やはりマヤだった。彼女には人の行動への驚きはないから、対応力も早い。
「お金に感情をつけるようなものね。今と逆の考え方になる。でも、それで精度が上がるとは限らないでしょ。」
「その検証はこれからです。」
「なんでそんなこと考えたの。」
それは前々から考えてはいたが、イメージが固まったのはタナダと会った後からだ。
「感情って大きさが劇的に変わると思いませんか。今は負の感情しか計算できていない。でも、喜びだって二倍にも三倍にもなっているはずです。」
「喜びの計算って一体なんのこと?」
当惑したようにナナミが言う。たぶん彼女はスケジュールのことを考えていた。
「貧富の差、大きくなると腐敗が始まっていく。みんな貧乏になれば助け合いがあるかもしれません。何かが貯金されていくんです。その両方を忘れちゃいけないと気づきました。」
「私たちはシステムの話をしているんじゃないの?」
「そうだけど、扱うものの性質を理解し、一番実態と近い形でシステムにする必要があります。」
「それは今までやったじゃない。今から全部やり直す気?」
「計算レイヤーをもう一つ作るだけです。そこに両方の感情を入れる。そして感情以外のレイヤーは均一に扱って、やがて大きく一つの存在になれる、きっとそうなります。」
「手法を変える理由は、シミュレーション結果を自分が思う未来にするため?」
「いえ、違います。負の感情しか計算しないってのが自分の体感と合わないから、だから納得できないだけなんです。マヤさん、手伝ってもらえませんか?」
「難しい問題は嫌いじゃないわ。」
そう言ってマヤは笑った。私は分かっていた。それが彼女の喜びなのだ。
「キーリスとナナミさんはどうです?」
「私はサポート役よ。三人が同意しているなら言うことはない。ウィルダイスさんが締め切り時間を言い出すまではね。」
「ナナミさん、悪いけど私の方を全面的に手伝ってくれない。シミュレーションを回す方はミヤマさんとそのお友達で心配ないと思うから。」
そう言って、マヤは頼みごとをする時の笑顔を見せた。
「はい。私もその方が嬉しいわ。」
いつのまにか、この二人はいいチームになっていた。それは二人が気が合うからだろう。考えてみればマヤの思考レベルをフォローできる人間は限られていたし、ナナミはマヤの思考を好んでいるようだ。
そしてメンバーの視線はキーリスに視線が集まった。ことの成り行きをニヤニヤして見守っていたキーリスは、自分が発言する番になったのを知る。
「このプロジェクトは自由になる時間が多いからな。寿命が伸びるのは大歓迎さ。」
「ありがとうございます。」
私がそう言うと、ふいにキーリス私の方を向いて言った。
「やっぱりな、あんたが一番の変わりもんだ。こだわり過ぎてまわりに迷惑ばっかりかけている。」
「いや、そんなことはないと思いますよ。私は人に迷惑かけずに生きてきました。」
「見えてないんだな。それがあんたの可愛げさ。」
私の思いつきにプロジェクトのメンバーも加わってくれたから、私たちは再び始めることが出来た。
その日の午後、私はゾノ達の所へ行った。彼らの仕事はまるで巨大な船のようで、ゆっくりとしか向きも速さも変えられない。だから、早く伝えておこうと思った。
「システムの構成を大きく変えることにしました。」
ゾノたちは現バージョンの実装準備を進めているはずだ。早く軌道修正を進める必要がある。ここは失敗した時に損害も大きい部門だ。
「おい、ちょっと待ってくれ。やっと安定した所だぞ。」
「ゾノさん、悪いけどやらせて下さい。」
プログラムの入れ替えだけでは済まない。今のハードの組み方ではたぶんダメで、やり直しになるだろう。
「今からやったら安定させるのにいくらかかると思うんだ。」
「はい、すいません・・」
しばらくゾノは黙っていたが、ふいにまわりのメンバーを呼び出した。
「おーい、ミヤマが無茶言い出したぞ。」
ゾノの大声に作業をしていたメンバーが一斉に集まってきた。機械の影にこんなに人数がいたのか、なんだか壮観な眺めだった。
「なんだなんだ。」
「今の計算を一旦止めるらしい。性能アップの調整ごとは一からやり直し。」
「なんでだ。」
「勘弁してよ。」
フロアのあちこちから声が上がる。このチームの仲間は、ゾノと以心伝心だ。
「しかも新しいバージョンは出来上がってないみたいだぜ。」
「しばらく待ちか。」
「いいじゃないか。面白い。」
「はは。」
すぐに出来上がった人の輪、ゾノの仲間たちは盛り上がっていく。皆の気持ちが高ぶるのを私は感じていた。
「まあ、また付き合わなきゃならないってわけだ。」
ゾノはにやりと笑った。それを見て私はただ頭を下げる。彼らとの関係はこのプロジェクトが終わったらどうなるんだろう、私は気のいい連中に感謝した。
二週間が経ち、自分の仕事とは思えない雑なシミュレーション結果を持って、私は第三棟の九階へ向かった。それは感情を新しいレイヤーに移動させた試算だ。そろそろトオサカとミミを巻き込む必要がある。
「基本的なモデルを変えるなら、新しい方が優れているのが必然だよね。」
探るようにトオサカが言う。それは考える材料がまだ足りていないのだ。
「どういうアイデアか詳しく教えてくれないか。」
「ああ、もちろん。」
私は資料を広げながら説明を始めた。
「人や集団の意思に安定したいという絶対的な志向があるとする。逆にルールにしたくないという意思が働くとする。どっちも今の仕組みでは反映できない。」
「それはそうだね。集団の安定は、信頼度の範囲にのみ関係している。」
「それを好き嫌いの感情として別の計算レイヤーを用意する。そして冨や集団の大きさ、保険の効き方にも影響を渡すんだ。その最終的なバランス状態を計算をさせたいんだ。」
「そんな最終形態があるとは限らないだろう。評価はしたのかい?」
持ち込んだデータを目で追いながらトオサカは言った。まだ迷っているようだ。
「マヤとナナミでやっているが、こんな仮計算じゃあんまり意味がない。この最終形がどうなるか、計算させてみたいんだ。きっと今までにない変化があると思うんだ。」
「なにかしらの変化はあるだろうけど、ちょっと想像できないな。」
「翻弄させてしまうかもしれない。だけどね、もうすこし二人の手を貸してくれないか?」
「面白そうではあるかな。」
そこでトオサカは視線をミミに移した。そしたらミミは黙って笑顔を見せたので、それで二人は同意したようだ。トオサカとミミはあっさりと巻き込まれてくれて、これで今まで関わってきたメンバー全員が動きだした。
方針変更を決断して半年が経っても、成果は何も出てこなかった。ゾノたちのシステム組み上げ直しは第一段階はすでに完了し、新しいプログラムを待ち続けている。一方でトオサカとミミは苦戦していた。
「勘弁してくれよ。いったいどうなっているんだ?」
待ち時間が続くゾノからは、何度もクレームが上がってきた。
「すいません、つまってる所があって。」
「別の仕事を入れさせてもらうぜ。」
「今はそうですね。でも、新しいのが出来たらすぐにお願いします。」
「その時次第だな。」
「すいません。お願いします。」
「あんたらのプロジェクトにトオサカ達がかかりきりだって、周りがぼやいてたぞ。そろそろお偉いさんから叱られるんじゃないか。」
「・・今、あの二人がいなくなったら困るんです。」
「あんたも疲れてんだろ。一旦休んだらどうだ。その方がいいアイデアも出るだろうし。」
「そうですね。でも、たぶんもう少しなんです。」
「本当かな? まあいい。がんばれよ。」
「はい、ありがとうございます。本当なんですよ。もう少しです。」
その頃、ミミたちは計算式を理論から本質的なものだけに変化させようとしていた。一方、マヤは現実の推定値からその式を導き出そうという別のアプローチだった。その二つがうまく交わらない、そういう状況だった。それでは実装の準備は進められない。
プロジェクトの進捗がなくなった時期、『曲がりくねった樹木』と『羽ばたきの大きな鳥』の夢では問いかけが続く。
「やり直せるとしたらさ、どうしたい?」
ふいに鳥が木に言った。
「まだ根にコブができない頃に戻ったとしても、あまりやりたいことはない。」
「そうだな。でも、もう忘れたことを思い出せるもしれないなあ。」
「そういえばあんたはどうなんだい?」
ふいに私は鳥に聞かれた。続いて樹木が言う。
「君は十分な大人だし、背負っているものがある。やり直すなんて出来ないんだろう?」
「僕は強くなったけど弱くなった。弱かったけど強かったあの頃と別の感じです。」
太陽に最も近い存在だった鳥にももう仲間はいない。すこし寂しそうに鳥が言う。
「飛行距離をのばして、苔を探すことでなんとか生き残った。無様な音をたてているのは分かっているさ。でも、こんな進化ができたのは僕だけで、それで生き残ってしまったのさ。」
この均一化された世界では樹木と鳥だけが生き残りなのだ。鳥は人の苔を集めて栄養にする。だが、その食事は毒素が身体にたまってしまう。だから鳥は樹木の所にやってきては何かをしゃべって毒素を抜いていく。樹木は付近の地面や空気にはほとんど残っていないから、奇妙な葉や根でかき集めても栄養は足りていない。樹木にとって最大の栄養源はこの鳥の訪れだった。だからこの二人は仲が良い。すでに私はそのことを理解していた。
「太陽の一部を覆った方が地球にいいかもしれない。でも、それを誰も証明できないでしょう?」
私は二人に聞いた。
「それはあんたの仕事だろ?」
「ああ、そうだと思うな。」
「私のシミュレーション結果なんて何通りにでもすることが出来ます。そこに真実はあるでしょうか?」
「真実は知らないが、あんたのお気に入りは一つに決められるだろ。」
「そうだ、僕たちは選択できないんだ。生き残れるか、ダメかそれだけだからな。」
そう言うとまた鳥は大きな音を立てた。その音で私は深い眠りに落ちていく。もう一つの違う答え、別のシミュレーションがきっとあるはずだ。
感情レイヤーを分離する試みを始めて半年ほどが経った。プロジェクトの成果は出ていない。手応えがない日々、私は諦めを感じ始めていた。朝、起きた段階で疲れが全身に残っているのが分かる、そんな目覚めが何日も続いていた。
「おはようございます。」
「ああ。」
生返事でもボッチは照明を調整してくれる。私はそれで壁掛けブラウザに目をとめた。壁掛けブラウザのシミュレーションは最新のデータが動いている。いつものように、地図の海は波を打っていて、その動きより早く、生き物みたいに雨雲が姿を変えていた。滑らかなグラデーション、劇的に発生する変化、その美しさを私はいつも気に入っていた。
シミュレーションを回すことは今まで何度も仕事でやった。でも、仕事でシミュレーションを観賞用に使ったことはなかった。だから、一つの趣味としてこんな壁掛けを作ったんだった。
「結局、論理でなく感情さ。」
見ててきれいなものを作りたいと思った。それはとても手間のかかる作業だ。仕事はシミュレーションをきちんと作ることだから、本来なら無駄な追加作業だ。やっても意味がないのにやってしまう。そこにある奇妙な罪悪感が私は好きだったのだ。
「ところでさ、素晴らしい人生ってなんだと思う?」
ふと私はボッチに聞いてみた。私の思想を一番記憶している彼ならどんな返事がくるか、それに興味が出たのだ。
「晴れていても雨が降っていても、人生は素晴らしいそうですよ。」
「はは、そうだったな。」
そうだ、人生は素晴らしいはずだ。だから今日もがんばってみよう。考えてみれば、このために私は今日まで呟いてきたのかもしれない。
何もかも行き詰まっていて、私はとにかくヒントを探していた。ゾノ達のいるデータセンターに数日ごとに顔を出すのも、そのためだ。
その日、データセンターにはゾノがいなかった。システム構成を先月から変更することにしたので、今はその作業の真っ只中のはずだ。
「スピードアップ、順調に進んでますか?」
肝心のシミュレーションが出来ていないので、見込みの作業だ。私の問いにゾノの仲間たちが答える。
「特に問題ないさ。」
「肝心のシミュレーションが出来てないからな。効果がいまいち分からないけど。」
軽い嫌味を言われたので、私は慌てて別の質問をした。
「ところでゾノさん、どうしたんですか?」
「風邪だって。」
「そう今日は自宅。」
そう答えたのは、ずっと年下のメンバーだ。
「だけどゾノさんから作業指示が、うるさいくらい来てるな。」
「そうですか。作業に影響はなさそうですね。」
「いやいや、いつもよりは随分と楽ですよ。」
そう言って小さな笑いが起こった。
「いい歳なんだから、そろそろ落ち着いてもらわないとな。」
「でも、まあ。お前に心配される年じゃない、とか言うんだろう。」
ゾノとその仲間たち、それは家族のように見えて、それがドットのイメージに重なった。そうだ、ドットとはこういうものかもしれない。
それからプロジェクトスペースに戻ると、マヤとナナミは机を並べて何か調べ物をしていた。
「さっきレポートを一つ上げておいたわ。」
目が合うとマヤは私に声をかけてきた。
「そうですか。後で見ますね。」
「よろしくね。」
それだけ言うとマヤはナナミと別の話を続けた。レポートの出来が良かったのだろうか、この二人には悲壮感はなかった。彼女たちは家族ではない。この関係は今のシミュレーションならどう表現できるんだろう。マヤとナナミ、自宅のゾノとデータセンターの仲間たち、私はぼんやりと考えごとをしながら自分の机についた。
マヤからのレポートと同じタイミングで、トオサカとミミからのレポートも届いていた。まずトオサカたちのレポートから目を通す。そのレポートには洗練された新しい式が示されていたが、残念ながら今までと大きな差異は現れていなかった。より効率良く計算させる方法が分かっただけだった。次にマヤのレポートを読み始めたところで一つの式に目がとまる。
「この式はなんだったっけ?」
トオサカ達の式の一つに似ている。要素はまるで違うが何か共通点がある。なんだろう。トオサカ達の式は、ドットの中の関係を何通りかに変化させた式だ。マヤのレポートにあるのは、ドットの速度の揺らぎを表現している。極端なムラを抑えるためのものだった。
マヤの報告は集団の関係に変化を与える方法を考察している。トオサカとミミのは言い換えると、集団を作るルールをどう簡単に出来るかというチャレンジだ。共通する何かがある。二つの式の違い、その項目の単位はなんだろうか。思考が漂流している状況の中、私はふいにマヤの言葉を思い出した。
「技術革新のシミュレーション、か。」
そうだ、そうかもしれない。糸をたぐり寄せるように、私は思いつきを深めていった。
その夜、乱暴に作ったプログラムを回す。今まで何度もあった淡い期待。そのプログラムの結果は今までとは違うものを示していた。
「いけるかもしれない。」
その結果を見て私は思った。二つのレイヤーで大きく動きが違っている。そしてその差が与える影響を、私は想像することが出来た。
翌日、トオサカとミミに声をかけて、私は緊急で会合を開いた。
「やっと出た答えがこれかい?」
トオサカはすこし安堵したような口調だった。それは結果が納得できると思ったからだろう。
「今までの中では一番いい出来だとは思う。」
私がそう言ったところで、ミミが小さな声でしゃべりだした。
「これで長生き出来る気がしてきたよ。」
「なに?」
「自分の寿命よりもすこし長い仕事の成果、それが目標なんだ。」
「え?」
「このシミュレーションならそうなるかもしれないってね。」
「なんで? だからって自分の寿命とは関係ないでしょ。」
トオサカと私はまるでミミの意図が分からなかった。
「生きた証、僕のやってきた理由はそういうことだと思うんだ。」
「なんだかよく分からないな。」
トオサカが静かに笑ったのを見て、私は何かを思い出した。生きた証、私はなんだか安心した気持ちになって、次のステップへ進むことにする。
それから私たちは夜を徹して準備をした。出来ることは限られているが、朝までには形にしなければならない。夜明けからのわずかな時間、計算が終わるまで私はオフィスの片隅で仮眠をとった。
翌朝、出社したばかりのメンバーを集めた。バージョンを戻す宣言だと思っている人がたぶん多かったはずだが、私は新しい取り組みを宣言した。
「やっと分かりました。個と個を結ぶ距離を変化させる。距離の変換です。昔は距離が感情の広がる基準だった。それがネットワークになったりして、すこし分かりづらくなっていただけなんです。」
「どういうこと?」
当惑した様子でナナミが聞いてくる。
「感情の方のレイヤーは距離の定義が違う。それを変えて百年分シミュレーションを回してみたら成功しました。そしてもう一つのレイヤーは今までと同様の動きでした。これを長回しすれば、きっと実存レイヤーは一つのドットが地球全体を包み込めるはずです。これはつまり感情のレイヤーだけに距離がないってことです。」
トオサカとミミとの検証はまだごく一部しか済んでいない。だけど私は断言することにした。
「それにどれだけ時間がかかるんだ。ほとんど結果は変わらないかもしれないんだろ。」
久しぶりに顔を合わせたキーリスはこの状況を楽しんでいるようで、相変わらずからかうような口ぶりだ。
「そうかもしれません。これで変わらなかったとしても、もう先へ進みましょう。私は納得できます。」
「この半年は何のためだ。なんにしても未来なんか分からないんだろう?」
「でも、一仮説が完成するまでなら、もうすぐですよ。」
そこでふいにマヤが口は開いた。
「まあ、とにかく結果を検証させてもらうわ。それで私は文句はないから。」
「ああ、お手柔らかにお願いします。」
出来たばかりの関係式に私が手応えを感じていたのは確かだったが、マヤの検証に耐えうるものか、それは分からない。ただ、それ以上の答えはその場には存在していなかった。
その日の夕方、データセンターの作業スペースでは、ゾノが機械に手を当てていた。そうして温度を確認しているのだ。それから小さなランプを順番に指しながら視線を動かした。
「なんかあったか?」
背中ごしにゾノがそう声をかけてきた。振り返った私に笑いかけると、急に顔を近づけると小声で言う。
「どうも計算に時間がかかるやつがいるんだ。このあたりのどっかにな。」
「触ってみつけるんですか?」
「こいつらとの会話だ。直接じゃないと分からないこともあるからな。いろいろ心配してやらないと。」
「へえ。」
「今日の演説はなかなかだったな。」
「みんな信じてもらえましたかね。」
「多少結果が良くなってもな。それを俺たちが理解する必要あるかね。前のバージョンでまとめた結果でも十分なはずだ。プロジェクトの成果をみんな認めるだろう。」
「いや、もう少しだけです。申し訳ないけど付き合って下さい。」
すこし私の顔を見つめた後、ゾノはいつものぞんざいな調子になって言った。
「まあ、いいさ。付き合うよ。」
「ありがとうございます。」
「そう言えば若いのは、今朝のお前の話は気休めだって言っているのがいたな。明日にでもちゃんと違いが分かる資料を送っておいてくれ。」
「はい、もちろん。」
それからゾノは、私の肩を叩くと機械の間に消えていった。その日のうちにマヤから届いたレポートを私はゾノに送った。その資料がどう使われたか私は知らない。ただ、その日を境にメンバーの表情が明るくなったようだった。
ゾノ達によって入念に準備された機材で計算が始まったのは、さらに二か月ほど後のことだった。
目の前にやっと現れた計算結果、それは大きく二つになると、その後いくつかに分離してやがてまた集合していく、それを繰り返していた。キーリスは笑顔を見せて私に話しかけてくる。
「これがお望みの答えかい?」
「はい。でもまだ経過です。これを回し続ければいつか世界が一つになる、そんなタイミングがあると思うんです。それで安定するか、ほんの一瞬になるのか、それが見極められればいい。」
「その予想は研究者としてのものかい? 直感にしか聞こえないな。」
そばにいたゾノが咎めるように声を出した。
「そうかもしれません。でも、そうとしか思えないんです。いずれにしてもまだ年数が足りない。」
「おいおい、もう未来の五百年以上も回してるんだ。どんどん動きは不安定になっていく。」
「お願いします。せめてあと二百年、いや、もう五百年。」
「勘弁してくれよ。分かっているだろう。この二百年分で複雑化が進んでいる。この先の計算は今の機材じゃ間に合わない。」
「でも、必要なんです。」
「まったく困ったもんだ。」
ゾノがキーリスに向かって肩をすくめた。当然の反応だ。計算量が劇的に増えていて、桁違いのマシンのパワーがいるからだ。
「この先の未来は、前のバージョンだって動きが破綻してたじゃないか。シミュレーション不能な時代だろ。」
「いえ、このバージョンなら大丈夫です。」
「根拠なく言うな。」
そこでゾノと私の会話に割り込んできたのは、いつもの調子のキーリスだ。
「変わりもんなんだよ、こいつは。俺と違ってさ。このプロジェクトでまともなのは俺くらいなもんさ。」
「まったくだ。」
「もうこれで十分だと思うけどな。」
「まあ、だいたい時間はかかるもんだ。」
そう言ってキーリスとゾノは笑った。私はその間にも次のことを考えていた。処理の高速化が必要だ。処理プログラムの見直し、計算機の増強、私たちは全ての手段を取ることにした。新たな予算追加はナナミがウィルダイスにかけあってくれる。計算機を追加すれば電源も空調もそれに合わせなくてはいけない。
ゾノのチームは昼夜交代で連続作業を続けた。早朝の作業スペースで何人かがイスを並べて寝ているのも、見慣れた風景になっていく。果てしないと思っていたバージョンアップも、いつかは終わる。
一通り完成したシミュレーションをやっと回し始めた。様子が分かったのは、さらに一週間ほど経った後だった。
「ミヤマさん、計算が回ったよ。」
「いつまで?」
「設定時間までだ。今回は最後まで止まらなかった。」
プロジェクトスペースにいる時にゾノの仲間が私を呼びにきた。最終の設定ファイルは手元にないので、確認にはデータセンターに行くしかない。
「すぐ行く。」
その場にいたプロジェクトメンバーと私たちはすぐに移動する。データセンターに皆が集まり一つのモニターを囲んだ。そこには一つになった地球があった。
「これで何年?」
みんなで数字を見る。
「今の人類なんて、まだ半分届いてないんだね。」
「半分の手前、それが今、一番不安だけど充実した時期なんだ。」
「こっちのレイヤーはどう?」
私は感情の動きの方を確認した。呼び出された画面は同じ模様を繰り返していた。これはどういう状況だろう。最初から統合も分離もしない。永遠に蠢き続けるだけだった。感情はバラバラに存在し続けるのが最終形ということだろうか。
「そうか。社会が完成したとしても、人は全然完成していない。そういうシミュレーションになったな。均一化は到達点かもしれないけど、終わっていない。」
「未来は、このシミュレーションの中にきっとあると思いますよ。それぞれに実現していく未来です。」
「面白いな。見せてくれ。」
「それをこれからやるんだよ。」
新しいシミュレーションになっても、選んだエネルギーによって結果が大きく変化するのは変わらない。それにマヤの調査結果を入れると、それぞれの未来予想が完成した。厳選した七つのストーリー、それがシミュレーションの結果だった。
ようやく訪れた平穏。明日は久しぶりにゆっくり休めるかもしれない。気がつけば週末だ。このところ身体を休めている間も頭の中は何かに囚われていた。やっとそれから解放されるのだ。
いつもの荒野、空の色では気づけないが夕暮れ時だ。『曲がりくねった樹木』が一人佇んでいる。今日は『羽ばたきの大きな鳥』はいなかった。
「あいつならまだ帰ってきてないよ。苔が見つからないんじゃないかな。」
「そうですか。寂しいですね。」
それからしばらく『曲がりくねった樹木』と私は遠くの街を黙って眺めていた。人間の街だ。そこには人も光も全てのエネルギーも集まっているはずだ。
「長くここにいるから、もう慣れている。今日の僕の相手は、あんた一人さ。」
「でもたいしたものです。あなた達は。」
「はは、僕たちは神様になれないだろ。」
「そうなんですか。」
私には『曲がりくねった樹木』と『羽ばたきの大きな鳥』が神様だとしても不思議には感じないだろう。
「お互い五百年以上は生きているからな。もう十倍くらい生きたら人生は素晴らしいって言えるのかな。なにぶん孤独だから。」
「あなたは、昔は仲間に囲まれていたって言ってましたね。」
私がそう聞くと『曲がりくねった樹木』は枝の先をわずかに揺らしてから返事をした。
「僕はたった一人の生き残りさ。森は砂漠になったり、漂流物にまみれたりしたが、僕はこんな風に枝や根を伸ばした。身体の中に毒と栄養を同時に蓄えることでなんとか生き残っていたんだ。」
「他の仲間はそれが出来なかったんですね。」
「僕だって偶然さ。そうした樹木はだんだんと減っていて、とうとう最後の一人になっていた。それを教えてくれたのは唯一の友達、あの鳥さ。」
「そうなんですね。」
私はなんと言って良いか分らず言葉を濁す。
「君もそろそろ行った方がいいよ。仲間が待っているかもしれない。僕たちはもう二人しかいない。だけど、あんたの世界はまだまだいろんな考えの人がいるんだろう。」
そこで私は意識が戻った。プロジェクトは一区切りのタイミングだし、今はのんびりと夢を見てもいいかな。そんなことを思った。そして次の日、私は久しぶりに散髪に行った。