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五、初めてだから許されること

 五、初めてだから許されること


 柔らかな音楽が流れ始めて、私は起きるべき時間になったのを知った。

「おはようございます。」

「ああ。」

 いつも通りのボッチとの会話で私は目覚めた。ボッチはすぐに私のスケジュールを確認したようだ。

「今日はプロジェクトの臨時ミーティングですね。」

「ああ、そうだったな。」

 昨日になってウィルダイスから急に集合がかけられたのだ。

「それにしても今朝も人生は素晴らしいなあ。」

 いつも通りに壁掛けブラウザが動き始めた。今のプロジェクトが落ち着いたら、これもバージョンアップしたいものだ、ふとそんなことを思った。それからボッチに天気予報を聞いてから私は家を出た。


 ミーティングは第一棟にあるウィルダイスの部屋で行われた。広々とした空間、そこでウィルダイスは私たちにまず問いかける。

「結論から先に聞くのと、経緯から聞くのとどっちが好みかね?」

「結論とごく短い経緯というのが効率的だと思います。」

 マヤが言うと、ウィルダイスは嬉しそうに笑った。

「いい答えだ。さすがマヤくん。このプロジェクトメンバーは思った通り優秀だった。キーリスくんのような役割の効果もよく分かったしな。」

 そこでウィルダイスは言葉を切ると、すこし声を張った。もともとよく通る太い声がゆっくりと響き出す。

「このプロジェクトメンバーは信頼に足ると私は確信した。それに頭の体操も十分だろう。そこで最初のプロトタイプの発表を六か月後に決めてきた。展覧会の調査部門ブースの入り口に置く予定だ。」

「六か月後って今年の総合展覧会ですか?」

 それは年に一度の大々的なイベントだ。自分の血の気が引くのが分かった。

「ああ、それに三か月前には内容の審査を受けてもらう。それに合格しなくては話にならないがね。」

 日付が先に決まってしまうと最短距離を探るしかなくなる。それで心配になるのが完成度だ。だから私はすぐに質問した。

「どこまでのレベルが必要でしょうか?」

「この前の君の作ったものがベースでもいいが、球体スクリーンにする必要がある。そこにマヤくんやキーリスくんからの要素も活かせるものは加えてくれ。話はどれも面白いからね。まあ、キーリスくんはデザイン的な観点で見てもらった方がいいかもしれない。ミヤマくんの色づけは目には優しいが、ちょっと新鮮さに欠けるからな。」

「球体スクリーンは私が手配をかけたわ。でも絵の作りかたは合わせなきゃいけないわよね。」

 ナナミは念押しするように言うと、球体スクリーン用のガイドラインを私に手渡した。ウィルダイスの秘書でもある彼女は、事前に内容を知っていたわけだ。ガイドラインをざっと見てコメントする。

「はい。こっちは難しい話じゃないです。機材が揃えばたぶん出来るでしょう。」

「そう、良かった。」

「それよりマヤさんやキーリスさんのアイデアをさらに加えるというのが、正直出来るか分からない。現段階では全くやり方が浮かばないんです。」

「まあ、みんなで相談してくれ。楽しみにしているから。」

 ウィルダイスとの打ち合わせが終わり、プロジェクトメンバー全員でエレベーターに乗りこんだ。他に誰も乗り込んでこないのを確認して、ナナミは次の仕切りに入る。

「具体的なスケジュールが入ったんだから、この先は計画的に進めましょう。」

「ああ、そうだね。」

「目先の具体的なゴールね。」

 第二棟のプロジェクトスペースに移動すると、メンバーで詳細な確認に入った。ナナミはまず私に確認してきた。

「球面スクリーンに出すための座標変換はミヤマさんにお任せして問題ないわよね。」

「いや、それはたいしたことないです。問題は中身のバージョンアップの方です。」

「そうね、単位を人とするのか家族かもっと社会的な集団とするのかを決めて、気候以外のパラメータを入れる必要がある。」

 マヤが確信を持って言う。

「それは必要だと思うし、モデル化もマヤさんならやってくれるかもしれない。ただ、実装はちょっと、まだ難しいかもしません。」

「自信がないのか? あんた、なんでも出来そうじゃないか?」

「それらしく作ることは出来ると思うんです。でも確証を持って説明できるかとなると、話は別です。」

 私の考えを察したのかマヤも同調してくれた。

「今の統計的な手法では街が栄えたり滅んだりしないわ。分布が環境の変化によって動くだけ。そこに人の集まり、意思を持って移動する単位を加えて変遷させる必要はあるのよ。」

「おいおいシミュレーションだろ、シミュレーションなんて当てにならないことの方が多いだから。今回それが正しいかどうかなんて、どうでもいいんじゃないか。」

「いや、実際とまるで違うシミュレーションなんかディスプレイにもならないですよ。例えば、何世紀か分の人口分布なら、戦争はともかく衛星都市の発展とかくらいは見えないと。」

「変なところにこだわるねえ、まあ好きにしな。」

「キーリスさん、なんで人ごとなの。あなたも役割をこなさなきゃいけないのよ。」

 ナナミが釘を刺すようにキーリスに言った。

「役割?」

「言われたでしょ。シミュレーションの中身は別にして、映像効果はあなたがやるの。」

「俺は歴史学者なんだけどな。」

「気まぐれだけど優秀なデザイナーということで、この会社から対価を得て暮らしているわ。あなたの前のボスも作品はいいって、なんの文句はなかったわ。勤務態度や成果物の管理方法には問題があるって、そっちで頭に来てたけどね。」

 そういえばキーリスはデザイン部門のエースだった。同じプロジェクトに属していると、どうしても勤務態度の方が印象に残ってしまう。

「分かったよ。それはまあ考える。六か月もあるんだ。」

「いえ、二か月にして。まずは審査よ。色を変えるのはすぐでしょうけど、効果を出すならミヤマさんが対応しなくちゃいけないし、プロジェクターや照明に細工がいるなら、その用意もあるの。そうそう、ミヤマさん、だからあなたも二か月で座標変換は終わらせておいて。」

 どうやらナナミの頭の中にはすでに全体スケジュールが出来上がっているようだ。

「ああ、分かってますよ。それより問題は計算方法です。」

「ミヤマさん、私が考えたものをあと三日でまとめるから、まずそれを見てくれない。」

「・・そうですね。それから考えますか。」

「マヤさん、資料集めや整理とか、私が手伝えることはある?」

「ええ、もちろん。お願いしたいわ。」

 マヤはそう言って笑顔をつくると、それからナナミは二人は話を始めた。マヤとナナミによる合同作業はそうして自然に始まった。

 きっちり三日後にマヤからは詳細な計算方法が送られてきた。集団は段階的に成長し、個人、家族、国、新たな共同体になっていく。別々の属性とする考えだ。それは一つのモデルにはなっていたが、残念ながらシミュレーションできるものではなかった。私は送られてきた内容を見て一つ思い立ち、ナナミに連絡をした。


 次の日、第三棟に私とマヤは向かった。私が以前に所属していた部署、精度を競って研究するのが好きな連中が集まるフロアだ。この部署への協力要請は、ナナミからウィルダイスに伝わり、短期間に許可がおりた。私の目的はそのうちの二人、トオサカとミミだ。

「二人とは何度も一緒に仕事をしています。能力は第一級と言っていい。」

「ええ、いい研究者だって聞いたことがあるわ。」

「ただ、ミミはちょっと声が小さいから、丁寧に話を聞く必要があります。」

「コミュニケーション方法は必要なら変えますので大丈夫。」

「まあ、そうでしょうね。」

 ミミはちょっと不思議な男だった。普段から口数が少なくて「何かをなくしたと思っていたら、結局持っていなかったんです」とふいに呟いたりする。愛想の良いトオサカとはいいコンビだ。

 エレベーターが開いて九階のフロアに足を踏み入れた。何か月ぶりだろう。

「ミヤマさんじゃないですか。」

「久しぶり。」

 早速、昔の顔馴染みに声をかけられる。

「ご無沙汰でしたね。今日はどうしたんですか?」

「今のプロジェクトのからみでトオサカとミミにアポとっているんだ。」

「ああ、打ち合わせがこれからだって言ってましたね。あっち、右側の一番奥の会議室だと思いますよ。」

「ありがとう。」

 その中に入るとトオサカとミミは並んで座っていた。トオサカは私を見つけると大げさに手を振って喜んで見せる。気配を読み過ぎるのは昔と変わっていない。一方でミミは音を立てずに、ただ会議が始まるのを待っている様子だ。

「なんか面白いプロジェクトだって、うらやましい。」

「いや、手を借りにきただけさ。」

「初めまして、マヤさんですね。トオサカです。こっちがミミです。よろしく。」

「よろしくお願いします。」

 トオサカはそつなくミミの分もまとめて紹介した。だからミミは笑顔で頷くだけで済んだ。

 久しぶりに見たミミは、やっぱり内気そうに静かに微笑んでいた。そうして敵意がないのを伝えると、後はトオサカの後ろに隠れるように椅子を引く。

「ミヤマは技術があるし柔軟性が高いからな。プロジェクト向きだよ。」

「あら、そういう評価なの。」

「ええ、もちろん。この部屋にいる連中は研究しか出来ないような人ばっかりだからさ。僕なんかもその典型。あんまり余計なことが考えられない。」

 自分を卑下したようにしてトオサカは私に笑ってみせた。そうやって場を和ませているのだ。トオサカが人に気を使うのは後天的なものらしかったが、私は自然に見える気づかいが単純に嬉しかった。

 挨拶の後にトオサカと私でお互いの近況やプロジェクトのことなどを話した。ミミは昔と変わらず人の話を熱心に聞いて、ただ一度も声を出さずに聞き役に徹していた。話題がプロジェクトの進捗になったところで私は本題に入る。

「ここで今悩んでさ。共同体の成長と考えるのは悪くないと思う。でも、今の気候ベースのシミュレーションとは相性が悪いというか、うまく両立させる方法が浮かばなくてさ。」

「そんなの得意分野だったじゃないか。」

「今回は勝手が違うんだ。それに時間が限られている。プロトタイプを総合展覧会までに完成させなくちゃいけないんだ。」

「一か月でいいから手伝ってくれって聞いていてさ、ずいぶん短いなと思ったけど、そういうことか。それじゃ基本部分の評価だって十分じゃないのに実装までだもんな。」

「ああ、頼むよ。妥当性を担保しなきゃいけないし、一部はフィルターが必要になりそうだ。たぶん単純化より、どう表現できるかのアプローチの方が早いと思うんだ。」

「なるほどなあ。でも、いまいちイメージがつかない。」

「マヤさんの資料を見てもらうのが早いと思う。マヤさん、説明してくれる?」

「ええ、もちろん。」

 そこからマヤの資料の読み込みが始まった。基本的な説明の段階で、はじめてミミが口を開いた。

「この式、究極的には証明できないです。推定の根拠をどこまで考えるかが基準になると思います。」

 こういう仕事に関しては、ミミは決して無口にはならない。ただ、声が極端に小さいので、ミミが口を開く時はまわりのメンバーは音を立てないように気をつける。ミミが入る打ち合わせは必ず小部屋で行うのだが、それは周囲の音を遮断する意味が大きかった。

「それはそうだな。ここ百年、二百年なら人口分布の確からしい数字は事実と比較できるけど、それより長い時間のデータはない。」

「そうなの。でも、過去から現代までは最近の近似だけで証明はできるんじゃないかって。」

 マヤの資料についての議論は一時間ほど続いた。トオサカとミミは熱心に質問をし、ミミは途中から猛烈な勢いでメモを取り出した。

「入れなきゃいけない要素がこんなにあって、まだ一つも推定値が揃っていない。精度の話の前にちゃんと計算を終了できるかだね。」

「まあ、目標としてはそんなところ。」

「今回の話ってさ、人の争いをどう数量化するかでもあるんだろ? 普遍的な事実が得られるかどうか、科学というより宗教の話で終わるかもしれない。」

 誰に言うでもなくトオサカが呟いた。確かにそうだなと私も思った。幼い頃は、人が作ったものなんかより、自然の方がずっと長く残ると思っていた。でも、どうやら違うようだ。それが世の中の仕組みなのかもしれない。

「確からしい値なんか限られているから想像が多くを占める。変わったプロジェクトだな。」

 トオサカがミミに向かって呟くと、ミミは黙って笑みを浮かべる。それが二人の間での研究を始める合図だった。


 翌日、第三棟に行くとトオサカが昨日の資料を壁に並べて眺めていた。しばらくはそれぞれが考えを深めるタイミングだと思っていたが、想定通りのようだ。

「どうだい?」

「おはよう。さっきまで人口学の論文を漁っていたんだ。まあマヤさんの考え方と違いはなかったよ。というか、その辺の論文よりマヤさんの方がずっと緻密だった。あと網羅的な記録がない時代をどう評価するかも大事だけど、分布推定はまだ熟してないというか、いろいろ自分たちで作らないといけない。今の材料はミヤマのプロトタイプとマヤさんの手法。マヤさんの手法は出来る範囲で検証が終わっているから、それを信じて実装だけ考えていいものかどうか。」

 トオサカの言葉は後半ひとりごとのようだった。

「ミミはどう?」

「集中モードになっているよ。今は話しかけても無駄だな。」

 遠くの窓側の机に全く動かないミミが見えた。そうだった、ミミは集中するとまわりの情報が目に入らなくなり、頭の中は高速で回転している。そういう時、背中から無数の手をのばして様々な論理を触診しているような幻想が見えるのだ。

「二、三日待とうかな。」

「そうだね。」

 理論を自分なりに扱えるようになるまでミミの状況は変わらない。その後、短いメッセージと丁寧な資料が届くのがパターンだ。ミミとトオサカは電子的な会話を繰り返して、トオサカは必要な情報を人から集める仕事をこなしながら、ミミの理論を拡張していく。ここ何年も続いている二人の役割分担だ。

「少なくとも、手に負えない話じゃないってことさ。」

 私が手ごたえを探っているのに気づいたのか、トオサカは言った。トオサカの気づかいは常に狙いがあって、毎日が疲れるんじゃないかと私はいつも感心していた。

「わずかな人間性をさらってそれをやっていると言っていたっけ。」

「なんの話?」

 マヤが聞く。

「気づかいの話さ。」

 それはミミがぼそっとトオサカを批評した時の言葉だ。トオサカもそれを思い出したのか、それから二人で笑った。


 数日でそれぞれの新しく組み込むアイデア出しが終わり、マヤの設計をシミュレーションにする方法がミミから届く。すでにシミュレーション技術が存在している部分はトオサカが把握し作り上げていく、その全体の実装は私となった。

「それにしても随分な計算量になるな。」

「まだまだ十分じゃないよ。」

「もっとシンプルなやり方はないの?」

 マヤがぽつりと言う。マヤの式も簡単ではなかったが、シミュレーションにすれば複雑さは格段と増す。それをマヤは疑問に思っているようだ。

「最も事実に近い形にするならばこうなる。」

「複雑には複雑にする意味があってそうしているってこと。」

 私とトオサカがそれぞれに答えた。

「知識レベル、その共有、教育っていうのはモデルにしやすいな。厄介なのは経験だ。」

「経験による能力だって数字には出来るだろ?」

「うん、でもマヤさんの書いている経験の質ってのは難しい。成長するきっかけ、危機っていうか、そういうのがあった時に加速する。歴史で習うことだろ。」

「そうだな。戦争で科学が一気に進むっていうのは定番だ。」

 それから一週間で基本設計まで終わって、テスト計算を始める。アウトプットの評価をマヤとナナミがやったが、結果はよくなかった。ドットの変化が、実際の大都市の変遷の歴史と大きく異なったのだ。都市の一つ一つの動きは説明できる分、シミュレーションに大きな問題を持っている可能性が高かった。


 数週間かかってなんとか原因を見つけ出した。それは生存可能性のパラメータだ。人が増えることによるリスク、途中からその判定が効き過ぎて全てを抑え込んでいたのだ。計算式を調整して仮説を足していく。毎日それを繰り返してもわずかに改善していくだけだ。一か月だけの予定だったトオサカとミミの協力期間は、すでにかなり延びていた。

 このところマヤと私は第三棟の九階にばかりにいて、プロジェクトの定例会は開催されなかった。そのせいだろうか、時間を持て余していたキーリスがふいに現れた。

「やあ、キーリス。」

「最近こっちにこもりきりだろ? 何しているのかと思ってさ。」

「気にしてくれて嬉しいですよ。集中したくて、会議どころじゃなかったんです。」

「まあ集中したいからキャンセルってのはよく分かるよ。」

 そう言ってキーリスは笑った。どう考えても暇つぶしか冷やかしという感じだったが、自分たちの頭の整理を兼ねて、私たちは丁寧にキーリスに現状を伝えた。

「なぜか途中から人が増えないんです。知恵でリスクを減らす式を足したせいだと思う。現状以上に人を増やすのは危険だと判断になるんですよね。そこから人の動きが止まる。」

「保守的な考え方が度を越して、身動きとれない感じかい?」

 キーリスの問いにトオサカが答える。

「そうかもしれませんが、実際には都市の規模が止まるなんて、ありえないですから。」

 トオサカに私、それにマヤとミミにまで囲まれて、代わる代わるキーリスに説明する。さすがのキーリスも居眠り出来ないでいた。

「富の増え方をすこし穏やかにする。その分、リスクが減る。ここをルール化すれば、マヤさんの考えたのが全部流し込めそうなんです。」

「へえ。やっぱりあんたの話はよく分からないな。」

 それを聞いてマヤが説明を代わった。

「同族、共同体の中で分担させるの。例えば一人一人がやるのは難しいけど、その村の分を誰か一人がやればいいってこと。」

「そう、それは社会が一つのドットになるということです。」

 私も説明を補足してキーリスに伝える。

「組織の中にあるシステムが概念だけでうまく働かないの。」

「マヤもこいつに付き合ってから、すっかりまともに話すことが出来なくなっているな。」

「そうかな。」

 私に責任があるとは思えなかったが、特に否定はしなかった。

「だいたい、それって人類の昔からの知恵だろ。農村でもギルドでも同じ。」

「昔からの知恵?」

「いくら払っておいて、いざという時にいくら返ってくるか、その決め方がポイントだな。」

「なんの話ですか?」

「保険だよ。支配階級がない所で発達する機能さ。歴史的にはとっても意義深い。いざという時の共同貯金。」

「保険、ですか。」

「そう。」

 その時、私たちの会話の間で小さな声する。

「それ、いいですね。」

 そう言ったのはミミだった。それから急に皆に背中を向けて机に向かう。

「なんか閃いたみたいだな。」

「ああ。」

 付き合いの長い、トオサカと私だけがミミの興奮を理解した。

「そうか、安全性の判断だ。そうしたら、うまく動くかもしれないな。言われればその通りだ。」

 閃きが戻ったミミにつられて、トオサカの頭も回転し出したようだ。それから議論は活発になった。複雑なことは簡単にする、そこにある落とし穴に一つ気づいたのだ。保険という複雑なシステムは実際に存在している。仲間を助ける、それが自分の役にも立つ。そういうモデル化が共同貯蓄というルールなのだ。

「簡単にする。その時に先陣の知恵をなくしてしまうもんさ。」

「それって真実だよね。」

 トオサカが笑う。

「複雑に計算するのがいい場合、単純にシンプルな答えに気づかない場合、両方あるもんさ。」

 キーリスは自分の手柄をあまり意識していないようで、いつものように軽く笑ってみせた。


 プロジェクトの進展がやっと見えた日。『曲がりくねった樹木』と『羽ばたきの大きな鳥』の夢を見た。私は二人の会話に耳を傾ける。

「あの街の連中は、ゴミ箱になんでも捨てられると思っている。隠しただけなのに気づいてない。やりっぱなしで考えないよな。」

「ああ、それに、いつまでも太陽は存在すると思っている。一日生き続ける大変さが僕たちとまるで違うんだ。」

 似たように私も感じていたはずだ。だけど、もう私はずいぶん昔から基準が分からなくなっていた。複雑なことの反対はなんだろう。役に立つことと真実って関係があるんだろうか。そんな疑問ばかりが次々と生まれていって、いつからか私は考えるのを止めてしまっていた。

「毎日の生活が確保されていれば、それで理想の世界になるでしょうか? 二人だけでも理想の世界ですか。」

 私は話しかけた。でも誰に問いかけているのかは、まだ分かっていない。

「一体なんの話だい?」

「今、考えているシミュレーションの単位が分からないんです。自分と一体と考える最小単位、それは一人でしょうか。あるいは家族かもっと大きなもの。誰かと一緒にいたい人、一人でいたい人、両方います。好きなもの、生きる目標、どこまでが自分と同じと考えるのか、それは無限の組み合わせに思うんです。」

「はは。自分と自分たち、僕たちにはその二つしかないからな。」

 『曲がりくねった樹木』は、その奇妙な枝の一つを揺らせて答えた。そして『羽ばたきの大きな鳥』もそれにつられて大きな音を立てる。

「そりゃあいい。確かにそうだ。自分と同じものはいない。自分と似たようなのが一人だけいる。これ以上の分かりやすい真実はないな。」

 たぶん私が知りたい世界は、この二人の関係ほど簡単ではないだろう。そう思ったので、私は続けて聞いた。

「仲間になるのと争い合う関係、それは計算できるものでしょうか。歴史や経験を数字で表すことも同じ。私にはまるで分かっていません。」

「時間をかけ過ぎたら僕たちみたいな形になってしまうよ。」

「ああ、それで僕たちは生き残ることができた。」

「でも、僕たちの場合は二人までだからな。単位を考える意味ってあるのかな。」

「悲しい事実だな。まあ、今をどう生きていくかだけでいいじゃないか。」

 いつの間にか会話から私は外れていた。この二人の言葉はどこか心地良いから、私は考え続けていられる。『曲がりくねった樹木』と『羽ばたきの大きな鳥』の言葉はやっぱり特別だ。

「大きなものが自分と同じだと思えるには、何か特別な仕掛けがなきゃだめさ。」

「そうそう自分を騙すようなね。」

「自分以外のものを大事にする、その幻は危険なのさ。」

 夢の中で仕事の話が混ざっていく。今、私はうまく考えられているのだろうか。でも、良いと思っていたのに別の一面が見えてしまうのは、きっとこんなタイミングだ。

「今のやり方は正しいんでしょうか?」

「僕たちに聞くことじゃないさ。答えを出すのはあんた達なんだろう。」

 そう言うと『曲がりくねった樹木』と『羽ばたきの大きな鳥』の姿が見えなくなった。薄暗闇の世界の夜はさらに深まり、遠くでは人間の街がかすかに瞬いた。


 保険システムをとり入れたシミュレーションは安定性が一気に増して、動きに様々なパターンが現れるようになった。良いシミュレーションである証拠だ。

「なんだかこれでいけるような気がしてきた。」

「まだもう一つ、懸念があるように思うな。」

 そこでトオサカが言いよどんだ。

「なんだい、懸念って?」

「マイナスをなくす動きは正しいが、爆発的な成長が生まれない。保険と逆の要素を取り込まないといけないかも。」

 そこでマヤが急にしゃべりだした。

「トオサカさんの話、私の検証結果でもそういう傾向が出ていてね。じつは保険の裏を走るようなシステムを探してみたの。残念ながら適したものは見つからなかった。」

「保険の逆?」

「ギャンブルとか、宝くじみたいなもの。でも平等な分配じゃなくて、誰かに資金が集まるのが必然でなければ無理。広い意味での経済学の導入、会社組織の盛衰含めてなんて考えると、ステップが飛びすぎ。」

「潜在的な問題があるってことか。」

「ええ、でも今の出来栄えでも世の中にはないものだし、革新性は十分だとは思う。」

「結局さ、まだ分かってないことの方が多いのかもしれないな。」

「それは間違いないだろう。」

 そこでトオサカは何かを思い出したようだ。

「でも、この世界が素晴らしいのに変わりはないか。」

 そう言ってトオサカは笑った。そういえばトオサカは、私が自分によく言い聞かせているのを知っていた。そう、人生は素晴らしいはずだ。だから生きる意味があると信じたい。それは自分が確信したいからだった。

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