エフェルミア王国の民へ
割れんばかりの歓声がようやく止み、しんと静まった空間に朗々とした王の声が響き渡る。
その声をバルコニーに面した豪華な室内で聞きながら、私は柄にもなく緊張していた。
「聖女様、これは……」
静かにかけられた声。その声の主にちらりと視線を遣る。
「なんでしょうか」
一瞬、リングロッドさんの眉が苦々しげに寄せられる。だが取り合ってもらえないと悟ったのか、彼はため息を一つつくと諦めたように睫毛を伏せた。
――なにかに縋っていなければ、崩れ落ちそうに体が震えている。
緊張で滲み出る汗が伝い落ちてゆく。その汗でベトベトの掌がしっかり掴んでいるのは、リングロッドさんの無骨な手だ。皺一つなかった真っ白な手袋は、既によれよれになって私の汗で湿気っている。
彼は縋られた手を冷たい目で一瞥したが、私は敢えてそれを無視した。
「やっぱり行かなきゃダメですよねー……なんて」
「聖女様、そのために今日この王城へと参っていただいたのですから」
ティリオロ大司教の声まで刺々しく聞こえるのは考えすぎかな。
「聖女様だけが祈りを捧げられるのです。貴女様は貴女様のできることをしなければならない。それをゆめゆめお忘れなきよう」
その言葉が私の甘えを咎めているように聞こえて、少したじろいだ。
「……そうですよね。すみません」
まるで怒られた子供の気分だ。どこか浮ついていた気持ちが萎えて、しょげてしまう。
そんな私を意に介すこともなく、リングロッドさんは無情な言葉を紡いだ。
「聖女様、そろそろ行きましょう」
「……はい。じゃあお願いします、リングロッドさん」
「ああ、聖女様」
やっと決心をつけてのろのろと立ち上がった私に、だけど発破をかけてきたティリオロ大司教その人がなぜか待ったをかけてきた。
「責めているわけではないのですよ。そのご心情も慮れず申し訳ない。ここはやはり側にアデハルドもお付けいたしましょう。その方がより安心なさるかと」
畳み掛けてくるようなティリオロ大司教。かすかにざわめく他の護衛騎士をよそに、アデハルドは白い歯を見せ爽やかな笑顔を浮かべている。
見事な糸目の騎士を前に逡巡したが、結局私は頷いた。
「それじゃあ、アデハルドさんもお願いします」
「光栄です、聖女様。よろしければエスコートも変わりますよ」
アデハルドさんが満面の笑みのまま手を差し出してくる。
形の整った、長い指。皺一つない真っ白な手袋が眩しい。
とても紳士的な所作で差し出された手は綺麗だけど、既に縋っている手を投げ出してまで、その手をとろうとは思わなかった。
「うーん……アデハルドさんはエスコートよりも、その素敵な笑顔をみんなに見せてくれてたらいいんじゃないかな」
「えっ?」
「おい、時間だ。聖女様、ではこちらに」
「はい、じゃあそういうことで」
「あ、聖女様! エスコー……」
まだなにか言いかけている糸目の騎士を尻目に、私はリングロッドさんに導かれてバルコニーへと一歩を踏み出す。
開いた扉から聞こえてくる大歓声。眩しい日差しが視界を奪う。思わずぎゅっと握った手を、ぎこちない力が握り返してきた。
眼前には米粒ほどに小さく見える群衆が無数に集まっている。先ほどまでの轟くような歓声は消え去り、皆が私の祈りを今か今かと待ち構えているのが嫌でも伝わってきた。
「ああ、リングロッドさん、どうしよう」
「……まだなにか」
押し殺されたような声には、この期に及んでまでも話しかけてくる私に対しての苛立ちが滲んでいて、緊張を通り越して笑いが漏れてしまう。
「こんなに緊張するとは思わなかった。足がガクガクして、今にも倒れそう」
着慣れない豪奢なドレス。無数の衆目から浴びる注目。
どこか現実離れしたこの状況に、緊張のゲージは限界に近く、振り切れそうになっていた。
「……そうですか。でも頑張っていただくしか道はないと思います」
「祝福なんてかけられないかも」
「それは困りますね」
「今手を離されたら、確実にへたり込む」
「……では支えていますのでこのままどうぞ」
ちょっと嫌そうな顔をされたけど、でも今はそんなこと気にしている余裕はない。
ぶるぶる震えてきた全身に、倒れないようしがみつきそうなほど強くリングロッドの手を握り締める。
「こんなみっともないへっぴり腰で恥ずかしい……」
「別に祝福さえ授けられたらいいんじゃないでしょうか」
「ちょっと頑張ってみようかな」
思い切って掴んでいた手を外してみる。
「なにを……っ」
「あっ、やっぱり腰が抜ける!」
予想外に力の入ってなかった腰から体が崩れ落ちそうになる。その瞬間、リングロッドさんが咄嗟に腰に手を回して支えてくれた。
それに隣にいたアデハルドさんが抗議の声を上げる。
「リングロッド、貴様……!」
「煩い。いいから前を向いて笑ってろ」
苦々しい言葉も耳元で囁かれると素敵に聞こえるから不思議だ。押し殺したイケメンボイスを耳元で聞くだなんて貴重な経験を噛み締めながら、私は軽く胸の前で手を握ると震える声でなんとか祈りの言葉を呟き、宙へと手を広げた。
その動作に合わせるように、ダイヤモンドダストのような細やかに輝く光の粒が、集まった群衆へ次々と降り注いでいく。
どっと湧き上がった、耳がバカになりそうな程の大歓声。全体重をかけられたリングロッドの、呻くような声。私を見て恍惚とした表情をするアデハルドさん。
一世一代の祝福、決まったかな……!
ちょっとドヤ顔になりかけたが、私は女神テルメンディルの御子。そんなはしたないことはしないのだ。
澄ました顔をなんとか取り繕ったまま、化けの皮が剥がれる前に早々に室内に退散することにした。
聖女の祈りを成功させたその後のことは、気が抜け過ぎてよく覚えていない。なんとかバルコニーに戻ったところまでは覚えているんだけど、気づいたら自室にいた。
いつもと変わらない様子で淡々と侍女の役目をこなしているサネリとモネリ。リングロッドさんとも視線が合うこともなく、彼はいつもどおりに無言で扉の側に立っている。もう一人の護衛の騎士がさっきの祈りがどうのこうの言っているが、耳を滑っていくばかりで内容はちっとも入ってこなかった。
「リングロッドさん」
はっきりと、聞こえるように大きな声で呼びかけてみる。
いつもは決して私を見ようとしない夜明けの瞳がニ、三度揺れ、そしてやっと私の方を見た。長い睫毛に隠れてしまいそうになる瞳を逃さないよう、その瞳をしっかりと見据える。
「さっきは……ありがとうございました」
「お気になさらずとも結構です」
結局、それだけで顔を伏せられてしまった。
……改めて見ても、彼はとても綺麗な人だ。他のスタイリッシュに細い騎士たちと比べるとやや無骨さが目立つけど、それを入れても惚れ惚れするような容姿の良さ。だけど……名前を呼ぶたび、話しかけるたび、彼に縋るたびに、その瞳の奥に浮かぶ感情。周りの異質な反応。彼だけに感じる壁。
――いつも頑なな彼は、どんな顔で笑うのだろう。