追憶
金色の髪が日の光に照らされて煌いた。神話に在る太陽の神様は、きっとそんな綺麗な髪をしていたのだろう。今でこそそんな益体も無いことを考えるけれど、当時の僕はといえば、ただその髪の持ち主の少女に見惚れていただけだった。
彼女は、とても美しい少女だった。
あの頃から。
そして、今でも。
あのとき、見られていることに気がついた少女は、私の方を振り向いて、まさに太陽のように笑った。長い金の髪は窓辺に差す光のように、柔らかく波打った。
――君の名前は。
少女は確か、そう言った。およそ子供らしくない、大人びた調子で。
僕は名乗る。少女は得心がいった、というように頷いた。
――この場所が好きなの。
少女は温かい窓辺を指してそう言ったと思う。
それからというもの、僕もまた、そんな場所が好きになったように思う。
彼女は、色々な物を与えてくれた。
知識を。知恵を。感情を。思い出を。
そう、彼女との思い出は、きっとかけがえの無いものだ。
きっと。
少女は僕に沢山のものを与えてくれた。だから、僕が彼女についていこうと思うのは、当然のことだった。
孤児院からの脱出。
これだけは確かに、確実だ。少女は、それを提案した。
そう提案した彼女は、泣いていた。いや、緊張に張り裂けそうな顔をしていた。いやいや、真剣そのもので、確固たる意志を感じさせた。いや、いや、いや……小さい頃の記憶は曖昧だ。
彼女は孤児院での生活の中で、何度か姿を眩ませていた。
少女は孤児院の中で一番の美人。訪れる黒い服の男たち。貴金属を身に纏い、下品な金色を帯びたそれら。僕は、あの男たちが少女を連れて部屋に消えるのを見た。追いかけようとしたけれど、先生たちに阻まれ、その先を見ることは叶わなかった。少女に再び会ったのは次の日の朝だった。その時の彼女は、どんな表情をしていただろうか。
思い出せないのはなぜだろう。
とにもかくにも、僕は彼女についていくことに決めた。それが結果として、彼女を苦しめる結末を招いたのだろうか。
孤児院を抜け出すのは容易いことだった。施設を囲う大きな壁には、子供だけが通り抜けられるような小さい亀裂がある。そこから必用最低限の荷物だけを持っていけばよかった。先生たちの財布からくすねたお金。配給のパンと缶詰。着替えを少し。それだけ。
塀の向こうは知らない世界。僕は恐怖から泣いた。歩いても歩いても、人のいる場所には辿り着かない。少女が僕の手を引く。その腹が膨らみかけていることに、僕はそのとき気がついた。ただ不思議に思っただけで、それ以上のことはなかった。
ようやくたどり着いた街。五日は掛かったが、そのうち三日で食料は尽きていた。僕と少女とで空腹に耐えながら、どうにか歩いて来たのだ。なぜだか孤児院からの追っ手はなかった。
街に着いて、なけなしのお金でパンを買った。二日ぶりの食事はこれ以上なく美味しかった。少女がお金の使い方を知らなければ、泥棒になってしまうところだった。
実のところ、僕は彼女が居なければ何もできなかった。孤児院の外は未知の世界で、あらゆる知識は少女頼みで。
路銀はそこで無くなった。
少女は日に日に大きくなっていく腹を抱えて、一つ宿を借りた、と嬉しそうに笑った。それは意地悪そうな笑みを浮かべた男の宿で、少女は僕に聞こえない小さな声で何かを話していた。男はいっそう不気味に笑みを深めて、少女と僕を部屋に案内する。少女は僕だけを残して部屋を出て行った。大人しく待っていたが、彼女が帰ったのは夜が明けてからだった。彼女はその度に少しのお金を持って帰って来た。それは夜ごと何度も繰り返された。
ひと月もすると、少女のお腹はバスケットボールよりも大きくなっていた。痛みを訴える彼女は宿の男に連れられて病院に言った。三日ほど経って、衰弱した少女が帰って来た。少しのお金を持って。
ひと月ごとに彼女はお腹を大きくして病院に行き、三日ほど経ってまたお腹の平たくなった少女が帰ってくる。それを何度も繰り返すうちに、僕も少しずつ賢くなった。
そしてようやく気がつく。彼女が妊娠と出産を繰り返していることに。
しかし、本で得た知識とは大きく違っている。妊娠しても子供はそうすぐには産まれてこない。しかし、彼女はひと月で子を産み落とし、また次の月には産んでいる。僕が何も知らないと思って、彼女もそれを話そうとしない。
おかしい。そう思いながら、しかし何もできないまま、僕は十五になった。
このころになると、少女を見て妙な気を起こすことがあった。それは思春期にありがちなもので、つまるところ性の目覚めであった。
少女を見るたびにむらむらと燻る感情が湧き出し、その体を支配しようという衝動が僕を蝕むのだ。他の女性を見ても簡単にそうはならない。彼女だけが、激しく僕を惑わす。
あるとき、衰弱した彼女が戻って来たときのこと。僕はとうとう我慢ならなくなって言った。
僕も働くから。君ももう、こんなことはやめないか。
少女は泣いて、泣きながら笑った。
このころの記憶は未だに鮮明だ。
「ありがとう、ごめんね」
僕はきっと、愛してる、と応えを囁いた。
その日の夜、僕は彼女と夜を共に過ごした。
だが、きっと遅すぎたのだろう。
その夜を境に、かどうかは判らない。しかし、彼女は身籠ることがなくなった。彼女が下着を赤く染めることもなくなった。
彼女はまた、あのときのように泣いた。僕はどうすることもできなかった。
あの夜以来、身体を売るようなことをしなかった彼女は、不妊の発覚を境に変わってしまった。戻った、という方が正しいだろうか。夜ごとに宿を離れ、翌朝に帰るような生活。僕は怒りを彼女にぶつける。
どうしてそんなことをする。もうやめると言っただろう。
少女は、変わらぬ美貌を悲しみに歪ませて泣き叫ぶ。
「君にはわからない。本当に愛する人の子を授かれないなんて」
そうだ、僕には分からない。僕は女じゃない。彼女と同じ思いは、抱けない。
そういえば、彼女が産み落とした子らはどこへ行ったのだろう。
疑問が解決するのには、長い月日を要した。
僕は日中、働きに出ていた。家に帰れば書物や論文を読み漁った。少女は夕方に起き出すと、僕に何も言わず部屋を出て行った。作り置きのスープは大抵、僕の好きなオニオンスープだった。
僕の勉強には目的があった。遺伝子に関する分野を軒並み修め、生体工学についても勉強を進めた。すべては彼女の為。
彼女の不妊を解決する。それが当時の僕の全てだった。
あるとき、奇妙な論文を発見した。それは止まるところを知らない少子化を解決する糸口になるものだと喧伝されていた、かなり昔のものだった。
遺伝子操作による促成児の実験。
体中が総毛立つ思いだった。
まさか、そんな。
『遺伝子操作によって生殖に関する部位の発達を促したメスの動物A。それに対し操作を行っていないオスの生物Bを交配し、受精した卵の発達を調べたところ、従来のおよそ十分の一の期間で正常な出産に至った。また、操作を行っていない生物に比べ受精の確率が高く、生まれた子生物ABに関しても雌雄問わず同じ性質が見られた。子生物ABは従来よりも早い速度での成長が見られ、およそ五年で成人と同じ知能と身体能力が得られた。また生物A並びにABについて、それらの閉経は早く、一度の射精における精子数は倍以上に多いことを確認している。この実験による寿命の増減は目下、調査中である』
ずっと昔の論文、あるいは実験レポートだ。倫理にもとるとして、この実験は人間に対して行われることは許されない、とされている。しかし、これが彼女の現状と酷似していることは言うまでもない。きっと、悪い予感は当たっている。
彼女はあまりに早い閉経を迎えた。それは遺伝子操作によるもの。閉経によるホルモンバランスの乱れも関係しているのだろう。無作為に男へ体を委ねる毎日。得られる僅かな日銭。
体の安売りは、きっと加速していくだろう。
あるいは、すでにこの世界の人間はみな、そうなっているのだろうか。それとも、これからそうなっていくのだろうか。きっと僕にも時間は残されていなかった。
しかし、そんなことは恐怖ではない。彼女が子を成すことができないことに悲しんでいる。それを解決できない現状こそが、僕の本当の恐怖だったのだ。
もう一つ、僕は奇妙な論文を発見していた。
生命の『再生』についての実験。
『生物の遺伝子の情報を解読し、その情報をもとに元素から細胞を生成することに成功した。またその細胞を卵細胞へと変化させ、人工子宮にて胚を経て、胎児へと分化させることができた。現状、実験用ラットにおいて、ほぼ確実な成功を収めている。他の生物においては目下、実験中である。我々は、この技術を『再生(Repeat)』と呼称することとする』
これについては、実験の継続はすぐに取り止めになったようだ。理由は推して知るべし、だ。
どうしてこの論文が僕の手に渡ったのか。いま思えば疑うべきだった。けれど今更、何を言っても詮の無いことだ。起こってしまったことは、もう取り返しがつかない。
僕は妄執に囚われていたのだろう。人の禁忌に触れたのだ。ヴィクター=フランケンシュタイン博士の禁忌をなぞるが如く、僕は果実に手を伸ばした。しかし彼とは違う。僕は、後悔なんてしていない。
論文をもとに独自の実験を繰り返して、その機会は――機械は産まれた。
生命再生装置。打ち込んだデータをもとにして、生命を『再生』するものだ。まるでテープやディスクを読み込んで音楽を『再生』するように。
神は死んだ。いや、初めから居なかった。だからこそ僕は神の領域に踏み込んだのだ。永遠の空席に、我がもの顔でどっかりと座り込む。彼女を救わぬ神など、僕は平気な顔で冒涜しよう。
第一子は、僕の精細胞と彼女の体細胞のデータから生まれた。産まれればすくすくと育ち、五年もすれば、きっと立派な大人になってしまうだろう。彼女が、あの実験の賜物であるのなら。
本当なら、機械の中で初めから赤ん坊として産まれる予定だった。
だが、彼女の意思で人工授精によってその身に子を授かり、ひと月で産み落とした。その少女は、直後に命を燃やし尽くしてしまった。最後に、子に名前を授けることもなく。
僕は、小さな赤ん坊を腕に抱き、二人ぼっち。
彼女はすでに弱り切っていたのだ。繰り返す出産は彼女の命の火を子に分け与える行為だった。それはそうだ。成長し切っていない身体での出産なのだから。
機械の作成の為、働きにも出なくなっていた僕の蓄えは、子育ての中で瞬きよりも早く消えていく。
稼ぎが必要だった。
だから、僕は機械を使うことにした。
不妊に悩む全ての人へ、機会を――機械をくれてやることにしたのだ。
素晴らしい金になった。きっと一生遊んで暮らせる。しかし、僕はそうしなかった。できなかった。
子供はすぐに大きくなっていく。少女に似た、美しい女の子だった。
風の噂で、たくさんの少女の子供が孤児院に移されていると知った。彼女と、顔も知らない男との実子。胸が張り裂けそうだった。
でも、今は、彼女との娘が傍にいる。誰が何と言おうと、僕と彼女の、自慢の一人娘だ。彼女が腹を痛めて産んだ、僕らの愛の結晶だ。
娘にボーイフレンドができた。近々、結婚するそうだ。僕は大いによろこんだ。
しかし、子供はできそうにないと言う。どうやら娘は不妊に悩んでいる。
あの機械で生まれた子らには、生殖機能が欠けてしまうのだろうか。
でも大丈夫、あの機械があれば子供を作るなんて簡単だ。赤ん坊そのものを作ることだって出来るのだから。産みの痛みも苦しみも覚えることはない。彼女のような末路を辿らなくて済むのだ。
いつか、人類があの機械無しでは続いていかなくなっても、それはもう僕には関係ないことだ。
終わりに向かうかもしれない世界。私は薄らいでいく世界を窓から見つめながら、ゆったりと深い眠りに落ちた。暖かい日差しが僕を包み込む。
深く、深く、眠りに落ちる。
君に会いに行くために。
後味の良し悪しは、問うまでもなく、きっと悪いものでしょう。
しかし正しい倫理に沿うことは、必ずしも人を幸せにはしてくれないのです。
--もっとも倫理と幸せとは、そもそも無関係かも知れませんが。