第三話（完結）
やがて、秋葉原駅に到着した電車はドアを開き、乗客は次々と駆け出し、皆一様に『巻き込まれてなるものか』という形相で、急いで電車から降りて行った。お互いをつかみあっている、焦点の二人も、その後に継いで、互いに牽制し合いながらも、おもむろにドアの方向に向かった。これからホームで血みどろの戦闘が始まろうとしていた。
しかし、そのときである。ドアの横の優先席に座っていた、背の低くその身はか細い、白髪の老人が、何かを決意して席から立ち上がり、まるで二人の行く先を塞ぐように、前に進み出たのである。私にはもちろん、この明らかにかよわい老人が、その勇気を振り絞って、二人の喧嘩の仲裁に入ってくるように見えたし、それは極めて危険なことであることもわかっていた。
老人はほっそりとした温かな目をしていて、紺のブレザーを着こみ、その胸元には銀色の勲章をつけていた。何者かはわからないが、普通に考えれば、こんな脆弱な老人が、この乱暴な猛獣のような二人の勢いを止めることはできないだろう。すっかりいきり立った若い男は、老人のすぐ目の前まで勢いよく進み、鋭い眼光を放ち、無理にでもこのか弱い老人を自分の目の前からどかそうとした。そして、『どけ！』とばかりに、この老人を拳で突いて吹き飛ばそうとした。しかし、その次の瞬間、老人は少し腰をかがめて、争っていた二人に向けて掌底打ちを放ったのである。二人は共に腹を打たれ（それはさほど強い威力を持っているようには見えなかったが）、その動きを瞬時に止めたのである。
私は今この場で何が起こっているのかを知りたくなり、二人の表情がよく見える位置にまで急いで移動してみた。すると、老人に打たれた二人は、ともに呆けた顔になっており、記憶を一時的に失ったかのように、自分たちが今どういう状態にあるのか、ここで何を争っていたのかを、すっかり忘れてしまったようである。そして、まるで前世での絆でも思い出したかのように、お互いの服をつかんでいた手をごく自然に、そして反射的に離したのである。善徳の神に励まされた二人は、自分たちを救った老人を、まるで仏を見るような尊敬の顔で見つめ、また自分たちが見苦しく争いあっていたことを恥じるかのように、お互いに豊かな笑みを浮かべて目を合わせ、その場は一変して和解ムードになったのである。
この現場を直接に見ていた私の目にも、先ほどまでどす黒く見えた二人の顔が、まるで金色の輝きを帯びてきたのがわかった。二人の肌の色合いやつやまでもが、別人のように変わって見えたのである。数分前まで恐怖と嫌悪感に包まれていた車内の雰囲気までもが、まるで天使の降臨の時のような光を帯びてきたのである。火事場泥棒のような、ひねくれた考えを持って、この争いごとを見ていた私の心も徐々にではあるが、春風の吹き抜ける、美しい庭園で、思いっきり深呼吸をしたかのような、清々しさに包まれていった。きっと、周りにいる乗客たちも同じような気持ちを共有しているのだろう。
老人は先ほどまで悪鬼のように争っていた二人の様子や、この車両の他の乗客の穏やかな様子を見て、満足そうに少し頷いてから、二人の目の前で下から上へ、そして右から左へと慣れた様子で大きく十字を切った。その瞬間、数分前まであれほど乱暴に言い争っていた二人の顔に、これまでまったく見られることのなかったような、落ち着いていて、しかも穏やかな、まるで尊敬する老師に神技についての教えを乞うている修行僧のような表情が浮かんでいたのである。それは、この老人に出会えたことを至福の喜びに感じているようでもあった。そして、生まれ変わった二人は、一度老人から目を離し、お互いに尊敬のまなざしで見つめあった。
「すべて、私が悪かったんです。本当に申し訳ない……」
若い男の口から、当たり前のことのように、そんな謝罪の言葉が出てきた。あの醜い争いからたった数分で、この男性にこんな変化が訪れるとは誰が予想できたであろうか。
「いや、俺の方こそ、公共の場で、車内マナーを破って、その上、乱暴なまねをしてしまって申し訳なかった……」
今度は角刈りの商人風の男がそう言って心からの謝罪をした。この様子を周囲から見ていた数名の乗客が感動のあまり涙を流しているほどであった。老人は自分の方からは事件に踏み込まず、常に第三者として振舞っていたが、そんな友好的な雰囲気を見てとると、ここで初めて口を開いた。
「あなたがた二人は決して悪くないですよ。集まってきた乗客たちの徒労とため息によって、半ば必然的にこの場に生まれている邪気がすべて悪いのです。怒りを感じた時は少し余裕を持って考えてご覧なさい。人間のあらゆる行動は多かれ少なかれ邪気を生みますが、それに飲まれないように自分をコントロールする必要はあります。世の中に悪い人などいないのです……」
二人はその言葉によってさらに安心感を得て、その表情もさらにぱっと明るくなった。老人はしばらく二人と一緒に、にこやかに笑い合い、やがて、ポケットから二枚の見慣れない金貨を取り出して、二人の手にそれを握らせた。私の位置からでは、配られた硬貨の細かい紋様までは見えなかったが、そのコインは窓の外からの光を反射してきらめき、表面には複雑な細工が刻まれていた。二人はねだっていたおもちゃを買ってもらった子供のように無邪気にそれを喜び、老人に深々と礼をした。そして、肩を並べて電車から降りると、ホームで固く握手を交わした。「今度は友人として会いましょう」とお互いに声を掛け合い、もう一度深く礼をしたあと、別々の方向に歩み去っていった。
老人は二人のその様子を確認すると、すっかり安心したように、一人の乗客の立場へと戻り、元の席に腰を降ろした。いつの間にか、数名の駅員が急を聞いてここに駆けつけていたが、その一部始終を見て、すっかり感嘆し、トラブルが起こる前に解決してくれた老人に頭を下げ、ほんの一言だけ、何か礼を述べているようだった。電車はそれ以上の大きな時間の遅れもなく、順調に秋葉原を出発した。車内ではトラブルを解決してくれた老人に向けて惜しみない拍手が送られていた。皆、笑顔であった。老人の言っていた、『この世に悪人などいない』という言葉を、この場の心地よい雰囲気が証明していた。しかし、性格の曲がった私は、二人の大喧嘩を見られなかったことに、少し不満もあり、この場の雰囲気にひっかかるものがあり、ついていけなかった。そんな私の立場を見てとったように、隣にいた老婆が話しかけてきた。
「あの方はこの電車の車内トラブル解消人なんですよ」
私はその言葉の意味もわからず、いまや自分の真向かいに座っていた、あの老人に再び目を移した。老人は相変わらずにこやかに笑いながら、私の不満そうな顔を見て一度頷いた。その表情は、まるでこれまでの人生で大量に溜め込んできた私のストレスや不満感の量を見透かしているかのようだった。
『あなたも本当はいい人なんですよ』
ふと、そう話しかけられているようで恥ずかしくなり、私は老人から不自然に目をそむけ、下を向いてしまった。
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