源氏物語に見る文学の原型
最近、気になって源氏物語について調べていた。源氏物語、ダンテの神曲、オデュッセイアなどはおそらく傑作なのだろうが、叙事的で自分には苦手な作品だ。ただ、折口信夫の批評を読んでなるほどと思った所もあるので、そうしたものを基準に、文学の原型について考えていこうと思う。前の村上春樹論では村上春樹を批判したが、批判した以上、村上春樹が文学というものにどこまで肉薄し、どこで落伍していったかについても示さなければいけない。源氏物語を例にとって考えてみよう。
まず、源氏物語というのは単純に当時の恋愛、「色好み」、絢爛豪華な平安の恋愛について描いた作品ではない。もしそうであったなら、そうした作品が世界文学となる事はなかっただろう。文学というのは単に現実に埋没したものではない。そもそも、単なる、平安の恋愛ー絢爛豪華ー日本らしいーという漠然とした、通俗的な物の見方しか現れていないならば、そんなものは傑作として現代に蘇る事はありえない。アーサー・ウェイリーのような優れた詩的感覚を持った人間が鋭敏に反応する何かが、源氏物語はあったはずだ。そうでなければそれは傑作とは呼べないだろう。
では、どんな所が源氏物語の傑作たる所以なのだろう。僕は源氏物語を通読していない(というかほとんど読んでいない)ので、折口信夫を例に考えていく。折口信夫は源氏物語のテーマを次のように書いている。
『自分の犯した罪の爲に、何としても贖ひ了せることの出來ぬ犯しの爲に、世間第一の人間が、死ぬるまで苦しみ拔き、又、それだけの酬いを受けて行く宿命、――此が本格的な小説の「テーマ」として用ゐられると言ふことは當然ではないか。』
折口信夫は源氏物語に仏教の倫理ーー『因果応報』の原則が貫かれている事を見る。源氏は若い頃の奔放な恋愛をするのだが、それは彼が年を取ってから、自分の愛人が若い男に取られるという、因果応報の形を取って現れてくる。その事に源氏は苦しむ。
科学史家の伊東俊太郎が源氏物語について書いた文章でも、似たような記述が見える。浮舟という女性キャラクターは、様々な男に翻弄された後、その事に嫌気が差し、最終的には出家する。伊東俊太郎はここに、日本型の女性の自立を見ている。この場合は因果応報というわけではないが、仏教的倫理が常に、現実の社会風俗(つまり平安の貴族的駆け引き・恋愛)の背後に閃いているという事は同型である。
浮舟が『女性の自立』だというのは賛否あるだろう。僕はそういう見方もできるが、紫式部はもう少し柄の大きい作家だったではないかという気がしてくる。浮舟が出家し『色好み』から解放されるという過程は、源氏が『色好み』の中で苦しむという過程と裏表を成していると言える。僕はここに、仏教的な倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている一人の優れた作家というのを見たい。ダンテの神曲と比べると、ダンテはキリスト教的倫理によって当時の社会風俗を批判的に描いている。「ダンテーー男性的ーーキリスト教的」、であり、「紫式部ーー女性的(作者が女性というより表現など含めて)ーー仏教的」という違いはあるが、これらは似たような構造ではないか。もっともこうした事を僕はまともに読まずに想像で語っているので、あくまでも文学を考えるツールとして源氏物語を利用しているという事は強調しておく。
これまで書いた所を整理していくと、源氏物語には二つの要素が互いに絡まりあってできている、という事になる。つまり、当時の貴族的恋愛、社会風俗を描くという現実的要素と、それらに意味づけを行い、それが何であるかという結論部となる仏教的倫理と、である。これはわかりやすく言えば、現実の生は過程的であり、倫理は結論的である。紫式部は仏教的倫理を使って当時の現実を俯瞰的に描いてみせた。この場合、当時の現実、恋愛的要素を如実に描く術が欠けていても、また、それらを意味づける思想の深さが欠けていても、どちらか一方でも欠けていれば源氏物語は世界文学とはならなかったに違いない。源氏物語はその二つをうまく融合している。だから、構成としてはよくできているし、世界的なレベルにある文学と言える事になるのだろう。
ここまで大雑把に源氏物語を見てきたのだが、これまでの分析はあまりに図式的すぎると感じる人もいるだろう。僕自身もそう感じているので、もう少し、創作の内部に入り込んだ分析を行ってみよう。ここでも折口信夫を使う。折口信夫は重要な事を書いている。
『源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない。源氏の生活の中から、作者が好みのままに選択して、こう言う生活をした人に書こうという風に、或偏向を持った目的に源氏が生きて行っているように書かれたと思うのは、どうかと思う』
『源氏自身が其生活に、我々の考えるような目的を常に持ってしている訣ではない。唯人間として生きている。ところが源氏という人間の特殊な性格と運命が、源氏の生活を特殊なものにして行っている。併、たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。唯作者が勝手にぷろっとを持って作った型ではなく、源氏の生活の中に備っている進路に沿って書いているのだと言える。』
少々長いが、文学、創作というものを考える上で物凄く重要なポイントなので引用した。折口信夫はここで重大な事を言っている。まず、次のような語句が見られる。
「源氏物語を書くのに、作者は何を書こうとしたかと言うと、源氏が一生に行った事にあるのではない」
現代においては、小説、アニメ、ゲーム、あるいはその他の企業の商品作りや宣伝、そうした様々なものはみな、このように見られている事だろうと思う。つまり、あらかじめ、作り手の側が細部まで計算し、頭で考えて、「源氏の一生」を描こうとした、というような事だ。相も変わらず陰謀論がはびこるのは、実はこうした僕らの思考の根強い習性にもとづいている。つまり、作り手や発信者の側が、あらかじめ色々な事を計算し、その通りにできるという先入観がそうした思考を生む。確かに人間は理性の力、頭脳の力があるので、そうした事が可能に見える。現代の産業社会は、頭脳により先々まで計算できる事、我々が計画に従う、精密な計画を立てられるという能力の上に築かれた。だが、それが人間の全てではない。
話を文学に戻す。ここで折口は非常に微妙な物の言い方をしている。ネットでの議論やらコメントやらを散々見て、つくづく人はそういう見方をするものだなと感じるがーー人は二択で考える事が好きだ。ここで言えば、作者紫式部は源氏物語を「計画通りに書いた」か、「全く無作為に書いた」か、の二択。しかし、折口はここを微妙な言い抜け方をしている。つまり、源氏の生涯はあらかじめ、作者の手によって確定的に決められたものではない。だが、かといって全て無作為に書かれたものではない。これは現実の人間と同じ事だ。人は一見、自由に生きているように見えるが、人生を俯瞰すると統一的な方向が見えてくる。真の作家は全てを計算して描かない。そうすると、細部が頭脳によって圧迫されてギスギスして、力のないものになってしまうから。かといって、全くの無作為であれば、「作品」という統一性を持つ事が不可能になる。したがって、作品としての構成、統一性を考えながらも、その時のキャラクターの自由(我々の生の自由と同じ)を作家は尊重しなければならない。そこに作家の生みの苦しみがある。
事実、つまらない作品というのはたいてい、キャラクターが生き生きとしていない。キャラクターが図式的であるが、構成は統一されている。ジブリのアニメ作品は構成、ストーリーは予め整然としているが、キャラクターの性格や意志は固定的だ。宮﨑駿のジブリアニメはキャラクターは「生き生きしていない」というほどではないものの、作者によって頑強に決められた枠に当てはめられている。ここに子供も安心して見られる作品の枠組みができあがると共に、目のこえた視聴者には足りない部分があると思える要素が出て来る。
『たとえば実在の人物として考え、後から其生活を見ると、自ら一つのまとまりがついていて、此方向へ進もうとして居たことが考えずには居られぬ。そこに人生の筋道が通っているのである。』
この折口の言い回しは重要だ。作者は源氏の一生を最初から計算づくで書こうとしたのではない。むしろ、作者は源氏という人物がどういう人生を辿っていくか、その推移を見守ろうとした、という方が正しいように思われる。とはいえ、作家の中には、最初からある程度の方向性は見えていたに違いない。つまり、最初に、作家に見えているのは方向性であり、結論ではない。そしてこの方向性とは、人が人生という過程で学ばなければならないもの(仏教の因果応報)である。仏教的倫理は、人生を生きる上で、それに対して当てはめる「枠」ではない。むしろ、人生を生きる過程で現れる結論部である。人は結論から人生を始めるのではなく、生きて迷い、誤ちを犯し、そして何が正しいかを後から知るのである。この順序を逆に僕達は考えてしまう。だから、現代の人間は様々な事を、過去の人間よりも遥かにたくさん知りながら、源氏物語のような優れた作品を産む事ができない。
折口に寄れば、源氏物語成立後、源氏物語を淫らなものを書いた良くない作品というレッテルを貼った時期もあったそうだ。こうした倫理的な観点から、つまり結論から逆算して過程を黙殺するというのは、現代でも普通に行われている。だが、文学というものの力はそうしたものではない。また、文学というものがそういうものではないというのは、人生もそういうものではない、という事でもある。
源氏物語は過程から結論に至るまでの全体を取った作品である。物語はそこでは、現実の社会風俗からスタートし、それがどうなるか、どうならなければならないのか、人はどのように生き、どのような場所に至るのか、という道筋となっている。この場合、物語の入り口に立っているのは当時の貴族的恋愛、つまり当時の社会的現実であり、作品の最後に立っているのは仏教的な倫理である。そしてそのどちらも、現実に根付いた事実と倫理である。源氏物語に物語的要素があるといっても、それはあくまでも、現実の描写であり、現実を乗り越えようとする過程で現れる倫理に分解されると考えて良さそうだ。
これを批判した村上春樹とくらべてみよう。村上春樹は、物語を過程的にとらえているという点では正しい物の見方をしている。村上春樹は結論を作品に当てはめているわけではない。ただ、村上春樹は物語を形式的にとらえている。紫式部においては、現実と理想との矛盾がそのまま物語になったが、村上春樹はあくまでも「文学」という枠組みの中で物語を作っている。村上春樹の作品の端々に出てくる「文学ってこういうものでしょう」「こういうのが文学だよね」という態度は、彼の作品を作る根底的な姿勢からにじみ出てきてしまう。しかし、これは当然村上だけの問題ではない。現代の僕達ーー世界的に見てもーーは、文学というものを「そんな風なもの」として見る事に慣れている。小説を書いて新人賞を取りたい、デビューしたいなんていうのはその代表例であり、先に人生があるのではなく、先に文学がある。文学の形式があって、それによって自分の人生に箔がつくと思っている。
だが、源氏の人生は、正に人生の現実から出てくる。人間が現に生きている現実を見つめるところ、そしてそれを越えようとする所から物語性が出て来る。僕達はこれを転倒して、結論から過程を逆算して、「世界的な作品」と見て取ってしまう。しかし、紫式部が描こうとした所はそういうものではない。そして紫式部は正に、自分が何を書くべきかを、書いていく事によって知ったのだ。作家にとっての技術は、自分にとって未知なものを現出する事にある。
…だが、こんな風に言えば、自分の「無意識」に寄りかかってる村上春樹も同意するに違いない。村上春樹に関しては、彼が未知だと思っている自分の「内部」が、現実と断ち切れている事に問題がある。村上が「物語の力」を語る事と文学を「形」としてしか見れていない事は同じ意味を持っている。生と文学、現実と理想はつながっているが、僕らは知らずにそれをどこか途中で断ち切ってしまう。ダンテにしろ紫式部にしろ、おそらく彼らは自身の苦悩や苦痛を経て、この道筋を現に生き、またそれを言葉に現したのだろう。だから、彼らの作品を辿る事は彼らの辿った道を辿る事だと思う。この道筋に物語というものの方向性はあるのであり、この順序を逆にする事で小利口な作家や評論家で現れてくる。人生は誤ちと苦悩に満ちており、それ故、人は成長する事ができる。だかこそ、生には意味がある。そういう人生こそが本当に文学の主題になるのではないか。源氏物語について思考する内、自分はそんな答えが出るように感じた。