05
あれからどのくらい時間が経ったのだろう。あたしは駅から離れ、家とは逆方向に歩いていた。
時々、後ろを振り返ってみるが、洸太が追いかけてくる姿はない。
だけど、今のあたしにはその方が良かった。追いかけてこられても、どう接したらいいのか分からない。対峙してぎこちない戸惑を見せあうだけなら、まだ良い。もしかしたら、感情まかせに罵声を浴びせてしまうかもしれない。
今のあたしに、まともな顔で洸太と向き合えることなんてできない。現に、あたしの頭は現状を処理することができず、混濁したままだ。そして、色々な感情のこもった涙が止まることなく流れ出ている。
時折、すれ違う人が驚いたような顔であたしを見ていたが、そんなのが気にならないほどだ。
日もすっかり沈み、空は夜色に染まり始めている。川沿いの遊歩道を歩いていると、川から涼しい風が吹きつけ、涙で濡れ火照った頬をヒンヤリと冷まし気持ちが良い。その涼しさで、熱くなっていた頭も冷静さを少しずつ取り戻していく。
このまま歩いていれば、気分も落ち着いてくると思い、あたしは歩く速度を緩めていった。
無心で遊歩道を歩いていたが、涙が止まるよりも早く道の終わりが見えてきた。このまま進めば、人通りの多い大通りに出てしまう。来た道を帰ろうか、それとも遊歩道に設置されているベンチに座り休もうかと、考えていると、そこに思いがけない人物が現れた。
「あれ? もしかして、犬塚か?」
大通り方面から来たその人は、少し離れた場所からあたしの名を呼ぶ。落ち着いた低い声に、ドクンと鼓動が強く打ち付ける。
「……神志那先生」
そこに居たのは神志那紫苑先生だった。
先生はコンビニ帰りなのか、普段の服装とは様相の異なった、かなりラフな格好で小さなビニール袋を手にさげ立っている。
あたしにとって予想外の出会いだったが、神志那先生も同様だろう。もしかしたら、あたし以上の驚きがあったかもしれない。最初は偶然会った驚きの笑顔で近付いてきたが、あたしの顔を間近にするとその驚きは動揺に変わり、落ち着かない様子になった。
そうなるのも仕方ない。よく知る生徒が泣きながら歩いているのだ。しかも、暗くなり始めた道を一人でだ。
「い、犬塚?」
すぐ傍に神志那先生が立っている。川からのヒンヤリとした風が吹いているのに、すぐ傍の温もりを強く感じてしまう。落ち着き始めていた気持ちが、再び複雑に動き始める。
思いがけず出会えた嬉しさ。
今は会いたくなかった苦しさ。
そして、その気持ちの根底にあるのは、洸太との出来事による困惑。
「…………かみ……しな……せんせぇ」
溢れ出てくる感情を止めることができない。両目からは、再び涙が溢れ出ていた。
周りや神志那先生のことなど考える余裕もなく、公衆の面前で恥ずかしげもなく大きな声をあげ、子どものように泣いていた。
「お、おい。どうしたんだ、犬塚?」
神志那先生は慌てふためきながらも、慰めようとしてくれている。でも、一度爆発してしまった感情は、なかなか止められるものでもない。あたしは泣くことでしか、自分の意思を表すことができなかった。
「と、取り合えず。少し、落ち着こうな。……どこかで、ゆっくり休んで落ち着こう。なっ、犬塚」
小さい子どもをあやすように、大きな手であたしの頭を優しく撫でる。そして、力強くあたしの手を掴むと、返事を待つことなくどこかへ歩き出した。
場所も告げられず連れてこられた場所は、マンションの一室だった。
部屋に入るなり、勧められるままにリビングのソファに座らされ、しばらくすると眼前に湯気の上がるカップが差し出される。そのカップからは、芳ばしいコーヒーの香りが漂ってきている。
目の前のローテーブルには置かず、あたしに直に受け取らせると、神志那先生は自分用のカップを手に、少し離れた位置に腰を下ろした。
神志那先生は何も聞かず、何も言わず、特にこちらを意識する様子も見せずコーヒーを飲んでいる。あたしはカップから手に伝わる温もりを感じながら、ゆっくりとカップに口をつけた。一口、二口と飲み進めていくと、身体に温かさと香りが染み込んできて、少しずつ気分が落ち着いてくる。あんなに溢れていた涙が止まり、代わりに吐息が漏れ始める。
高ぶっていた感情が、しだいに冷静になっていくのが分かる。
そうなると、ここがどこなのか知りたいという欲求や好奇心も出てくる。あたしは視線だけを動かし、この部屋を観察した。
この部屋の住人は、あまり物を置くことを好んでいないみたいだ。読みかけの雑誌なんかが机の上に放置されたままだったり、何かとゴチャゴチャとしたあたしの部屋とは全く違う。家具なども黒を基調とした物で揃えられ、シックで大人の雰囲気の漂う空間だ。
全てにおいて、あたしとは正反対。でも、妙に落ち着いてしまう。
あたしは、この部屋で一番目を引く場所に視線をやる。この部屋が何階にあるのかは分からない。でも、この部屋が上層階にあるのは分かる。ベランダに通じる窓からは、広い夜空がきれいに見えているからだ。
「……先生、ここって……」
「おっ、落ち着いたか? ここは、先生の部屋だよ」
持っていたカップを落としそうになった。
……いや、よく考えなくても分かることだ。わざわざ他人の部屋に連れてくる理由なんてないのだから。考えなくても、この部屋の主が神志那先生だって分かるはずだ。しかし、そうと分かってしまうと、急に意識してしまい緊張してきてしまう。
「無理に連れてきて悪かったと思っている。男の部屋に来るなんて、抵抗あるよな」
緊張を察してか、神志那先生はすまなそうに言う。
「でもな、あのままだと先生が女の子を泣かしているように見えるからな。さすがに、変質者として通報はされたくないからね」
「…………ごめんなさい」
口では困ったように言っているが、先生の顔は笑っていた。きっと、あたしの気を紛らそうと、冗談っぽく言ってくれているんだと思う。
「……で、犬塚。何があったんだ?」
「……あっ、えっと……」
言い躊躇っていると、神志那先生はおもむろに立ち上がった。
「そうだ。茶菓子を出してなかったな。たしか、クッキーがまだあったはずだ。ちょっと待ってろよ」
そう優しく微笑みながら言うと、あたしの頭を撫でキッチンへと向かった。
しばらくキッチンでガサゴソと棚を漁り、目当ての物を見つけた神志那先生は嬉しそうに器にクッキーを盛り付け戻ってくる。
ローテーブルに器が置かれ、「どうぞ」と勧められたあたしは、一枚手に取り口に運んだ。口に残っていた苦く芳ばしいコーヒーの香りが、一気に甘い砂糖とバターの香りに変わっていく。
クッキーを優しい甘さを味わっているあたしを見ていた先生は、微笑みながらクッキーを摘まんだ。
「神志那先生も、こういう甘い物食べたりするんですね。なんか、意外です」
一枚目を食べ終え、二枚目に手を伸ばしていた神志那先生の手が止まる。
「んー。意外か? これでも俺、けっこうな甘党なんだよね。酒も煙草もやらないから、口寂しい時とかクッキーやチョコみたいな甘い物を食べてるんだよ」
「甘党なんですか。でも、コーヒーはブラックですよね」
「この苦いコーヒーで、甘い菓子を食べるのが良いんじゃないか」
先生は柔らかく目を細め、二枚目のクッキーを口に放り込んだ。
心落ち着く優しい甘さに包まれ、ふと思い出す。学校で先生の傍に行った時、たまにこれと似た甘い香りがしていたことに。
「神志那先生。もしかして、学校でもお菓子食べてます?」
「えっ……」
神志那先生はギクリといった感じで、明らかに動揺している。不自然に視線を泳がせ、誤魔化すようにコーヒーを飲む。そして、チラリと横目であたしの方を見た。
「……バレてたのか」
「やっぱり、そうなんですね。時々、甘い香りがするから不思議に思っていたんです」
「小腹が空いたときに、たまーに摘まんでた程度だったんだがな……」
先生は顔を逸らしたまま、照れくさそうにしている。
「んー。バレたなら仕方ないな。今度、犬塚にも分けてやるからな」
「あははっ。楽しみにしてますねっ」
何となく、買収された気分になってしまう。
だけど、そこからはお菓子の効果か、空気はより穏やかになっていった。ここが神志那先生の部屋だという緊張も、しだいに緩んでいく。
あたしたちは以前と変わらない感じで、他愛ない会話を楽しむ。あたしが生み出したぎこちなさなんて、まるで最初からなかったみたいに。
この時間は、とても嬉しく楽しいひとときだった。先生の意外な一面が見れたり、自分のことを「俺」と言うことを知ることができたり、とても幸せだった。
……だけど、そんな楽しい時間にも、時折フラッシュバックのように、赤い瞳の洸太が現れる。