02
「美夜さん、結衣さん。部活に行きましょ」
満面の笑みのルーチェが金色の髪をフワリと揺らし、お誘いの言葉をかけてくる。
「あ、うん。行こうか」
あたしは、つい素っ気ない返事を返してしまう。
数日前まで、こんな風に部活に行くことを催促するのはあたしの役目だった。
……だけど、最近は違う。率先して誘ってくるのはルーチェに代わり、あたしはそれを受ける立場になっていた。厳密に言えば、あたしが部活に行くことに抵抗を感じ始めているから、こんな現状になっているのだが。
神志那先生に対する気持ちに気付き、それが先生にバレてしまうのでは、という恥ずかしさと恐れ。先日の金髪碧眼の人たちに感じた恐怖。そして、ルーチェと神志那先生が同じ空間に居る時に感じてしまう醜い嫉妬心。
そんな感情が一度に襲い掛かってくる美術室がとてつもなく嫌で、逃げ出したい感情で一杯になってしまう場所になっていた。
だけど、そんななかにも残る『神志那先生に会いたい』という気持ち。
その気持ちは、どの気持ちよりも強く大きい。
あたしはこの気持ちだけを頼りに美術室に向かっていた。
「シオン先生、こんにちは」
入室一番の挨拶も、今やすっかりルーチェのものだ。しかも、彼女は神志那先生のことを『シオン先生』と、名前で呼んでいる。あたしも『紫苑先生』と、名前で呼んでみたい。けど、自分の気持ちに気付いて、先生に対する意識の仕方が変わってしまった今、そんなことは恥ずかしくてできるはずもなかった。
「神志那先生、こんにちは」
そして、あたしは一歩遅れての挨拶。
「おっ、相変わらず早いな」
神志那先生はいつものように美術書に囲まれ、その隙間から顔を覗かせてくる。
あたしは挨拶もそこそこに、すぐに部活の準備を始める。結衣とルーチェは、先生と言葉を交わしながら同じように準備をしている。
最初こそ、あたしたちと一緒にいたルーチェだが、二、三日過ぎた辺りから自分の画材を持ち込み、先輩たちに混じり油絵を描いている。
キャンバスに描かれる色とりどりの世界。
花が咲き乱れ、澄みきった青い空。
そして、そこに舞う白い翼を持つ人々の姿。
心の奪われるほどの美しい世界が、小さなキャンバスに広がっている。
それは、あたしの手には届かない遠い世界。
あたしはルーチェたちから少し離れた、いつもの場所で、いつものように進歩のないデッサンを描いている。本当なら結衣も得意な水彩画で自由に描いていいはずなのだが、「基本が大切だからね」と、あたしに付き合ってくれている。
あの日以来、神志那先生との会話はめっきり減っていた。神志那先生が避けているのか、あたしか避けているのか、お互いが避けているのか分からない。
でも、本当は話しがしたい。声を聞いて、一緒にコーヒーを飲んだりしたい。
同じ空間に居るのに、以前より距離を感じてしまう。
あたしは神志那先生の姿を目で追うが、すぐにそれを止め、目の前にある真っ白なスケッチブックとデッサン用のモチーフに意識を集中させる。早く集中して、聞こえてくる音と自分の意識を遮断してしまわなければ、あたしの気持ちは嫉妬でぐちゃぐちゃになってしまう。
そして、その気持ちが周囲に……神志那先生にバレてしまう。
あたしは鉛筆を握り、意識を一点に集中させる。
しかし、そんな努力もほとんど無駄なことなのだが……。
「シオン先生。ここって、どうですか?」
聞きたくなくても聞こえてくる澄んだルーチェの声。同じ教室に居るのだ。特定の声だけを拒否しようとする考えの方が間違っている。
ルーチェはとても積極的だった。疑問などがあれば、すぐに質問している。疑問が晴れたルーチェは可愛らしい笑顔を浮かべ、キャンバスに向かう。
ルーチェは、あたしにはない可愛らしさと人懐っこさを持っている。転校生の彼女は初日からクラスにも部活にも打ち解け、受け入れられていた。部活の先輩たちも、ルーチェのことをすごく可愛がっている。
それは神志那先生も同様だった。ルーチェの絵の才能に惹かれ、一目をおいている。
そして、彼女の積極性。学校生活や部活にも慣れてきた最近は、その積極性が輪をかけて強くなっている。日を追うごとに、ルーチェと神志那先生の間の会話が増え、距離が縮まっている。
美術を始めたばかりのあたしは、本当に分からないことばかりだ。どう手を動かせば、この白いスケッチブックに自分の見た世界が描けるのか分からない。
分からないからこそ、聞きたい。……だけど、それができない。
あたしにもルーチェのような積極性が持てたならと、考えることもある。
いつから、あたしはこんなにも弱い人間になってしまったのだろう。
以前のあたしは、もっと強かった気がする。誰にでも向かっていき、自分を主張する。そんな人間だったような気がするのに……。
いつの間にか、あたしの手はやる気をなくしたように、だらりと下がり膝の上に落ちていた。ぼんやりと、真っ白なままのスケッチブックを見つめる。
「どうしたの、美夜? 具合でも悪いの?」
無気力状態のあたしを変に思ったのか、横に座る結衣が声をかけてくる。
「大丈夫だよ。……ただね、どうしたらいいのか分かんなくなって」
「だったら、先生に聞けばいいんじゃないの?」
結衣は何も描かれていないスケッチブックを見て、あたしの言った『分からない』を、描き方についての『分からない』だと判断したみたいだ。正直、自分でもどんな意味での『分からない』なのか判断しかねていた。
なかなか先生を呼ぼうとしないあたしに代わり、首を傾げつつ結衣が教室内を巡回している神志那先生を呼び止める。
「どうしたんだ、兎川」
「あっ、わたしじゃなくて、美夜が行き詰まっているみたいで」
神志那先生はスケッチブックを見るなり、「ああ」と、納得したように頷いた。
先生の手がやる気のなくなったあたしの手を持ち上げ、スケッチブックに線を描いていく。手に添えられた神志那先生の大きな手から温もりが伝わってくる。触れられた部分から、熱が全身に広がっていく。
スケッチブックの上を走る鉛筆の音に合わせ、心臓の鼓動が速くなる。
神志那先生はあたしに手を添えたまま、的確な指示を出してくれる。あたしにはその指示を告げる低い声が、嬉しくもあり、苦しいものでもあった。
意識すまいとしても、身体は正直に反応してしまう。顔に熱が集中し熱くなる。
なるべく神志那先生の方を見ないように、俯きながら返事を繰り返すしかできなかった。
この時間は、とても苦しくて辛い。だから、早く離れてほしい。
だけど、そんな想いとは逆に、このひとときを嬉しく楽しく感じ、ずっと続いてほしいと願う気持ちもある。
相反する気持ちが、あたしのなかでグルグルと渦巻いている。
あたしは渦巻く感情に飲み込まれないように、目の前のものに集中した。
あたしの意思とは関係なく動く手が、スケッチブックにモチーフの姿を写し出していく。大まかな輪郭線が描かれると、その上を忙しなく動いていた手が動きを止める。
「……こんな感じかな? 犬塚はまだまだ始めたばかりなんだから、上手く描こうなんて考えなくていいんだよ。まずは、見たままを思ったように描いていけばいいんだよ」
ゆっくりと手を離した神志那先生は、軽くあたしの肩に手を触れ、自分の机に帰っていった。
一度も顔を見ることなく、離れていく神志那先生。あたしは遠ざかっていく後ろ姿を追いながら、先生の手の温もりを思い出していた。
そして、高まった鼓動を落ち着かせるために深く息を吸い込み、鉛筆を握り直した。
あたしは神志那先生の言う通り、自分が見ている世界を自分の力で描き始めた。