04
「エタンセルマンさん。どうしたの?」
誰よりも早く、結衣が声をかける。
「ここ、美術室ですよね? あの……私、美術部に入部したくて来たんですけど……」
少し不安げな表情でエタンセルマンさんは言い、あたしたちの方へと寄ってくる。
「入部希望? 入部届けは持ってきましたか? もし、まだなら職員室に行って、貰ってきてください」
神志那先生がカップを机に置き立ち上がると、入部希望者であるエタンセルマンさんの傍に立つ。
長身で整った容姿の神志那先生と、金髪碧眼の美少女であるエタンセルマンさん。先生の黒髪と全体的に白いエタンセルマンさんがお互いの姿を引き立てあう。
二人が並んで立つと、とても絵になる姿だった。
だけど、その絵は胸の奥の不安を煽り、心を掻き乱す。そして、今まで感じたことのない痛みが胸の奥に走る。
すでに入部届けの用紙を持っていたエタンセルマンさんは、神志那先生の説明を受け必要なことを済ましていく。全て終えると、彼女はふわふわとした金色の髪を揺らし、嬉しそうな顔でこちらに向き直した。
「同じクラスの方ですよね。これから、よろしくお願いします」
エタンセルマンさんは可愛らしくお辞儀をする。
「あっ、わたしは兎川結衣です。よろしくね、エタンセルマンさん」
「……犬塚美夜です。よろしく」
「結衣さんに美夜さんですね。あらためまして、私はルーチェ・エタンセルマンです。ルーチェって呼んでくださいね」
再度、丁寧に頭を下げるルーチェ・エタンセルマンさん。
「でも、良かったです。同じクラスの方が居ると、なんだか安心しますね」
ルーチェは安心しきった笑顔で、胸を撫で下ろす。
それもそうだ。転校してきたばかりで、親しい友人もいない。心細い環境で、少しでも見知った人がいれば、とても安心できる。
そんな不安な環境に置かれたルーチェに、あたしは一方的に不快な感情を抱き、素っ気なく挨拶を返してしまった。なんだか、自分がとても小さくて惨めな存在に思えてしまう。
小さな頃から、あたしの傍には結衣が居た。そして、洸太も居た。だから、ルーチェが感じているだろう不安を、今まで体感することなく過ごしてきた。
それなのに、あたしは自分に襲いかかってきた不可解で妙な感情に流され、ルーチェと距離を置きたいと考えてしまった。でも、こうやって話してみると、本当に自分は愚かだと思えてしまう。ルーチェの持つ穏やかな雰囲気は、周囲の気持ちも穏やかにさせようだ。
しばらく、神志那先生を含めた四人でお喋りをしていると、数少ない美術部員が一人、二人と教室にやってきた。美術室に入るなり、彼女たちの視線はルーチェに釘付けになる。そして、あっという間にルーチェを中心とした人の塊ができてしまった。
あたしと結衣は、その塊から抜け出し自分たちが飲んだカップを洗い片付け、一足早く部活動を開始した。
イーゼルに置かれた真っ白なスケッチブックを前に、あたしはゴクリと息を飲む。
絵を描くことを始めたばかりのあたしは、この真っ白な場所に何かを描くということに慣れることができず、緊張してしまう。神志那先生は「リラックスして描けばいい」と、あっけらかんと言うが、なかなかそう上手くいかない。
あたしは先生の言葉を思い出し、静かに深く息を吸い込み、さらに深く吐き出し、鉛筆を握る。
そして、目的の物を捉えようと、視線をモチーフの置かれた机に移した。
「…………?」
モチーフを捉えたつもりだったけど、あたしの視線はその先に居る神志那先生の姿を捉えていた。
あたしたちが部活を始めると同時に、美術書の積み上がった自分の机に戻った神志那先生。いつもなら、そのまま様々な世界が描かれた美術書を手に取り眺め始める。しかし、その視線は美術書に向けられていなかった。神志那先生は複雑な表情を浮かべ、何かを見ていた。今までに見たこともない、その表情にあたしは困惑し、つい先生の視線の先を追ってしまった。
「……ルーチェ?」
そこには皆に囲まれ、楽しそうにお喋りをしているルーチェの姿があった。
でも、神志那先生の表情は、いつまでも部活を始めない生徒たちに怒りを感じている風ではない。困惑しているようだけど、その奥には冷たい嫌悪のようなものも感じる表情。
見ているこちらが戸惑ってしまいそうだ。
なぜ、先生がそんな複雑な表情をしているか、あたしには見当もつかない。だからといって、理由を本人に聞くなんてこともできない。
……いや、聞いてはいけないような気がする……。
あたしは、また自分の視線がバレてしまう前に、本来見るべきだったモチーフへと静かに戻した。
ルーチェを中心としたお喋りは一段落したのか、美術室は僅かな話し声を残し、集中した静けさに包まれていた。
質問ぜめから解放されたルーチェは、あたしの横にイーゼルを立て、同じモチーフのデッサンを始めていた。シャッシャッと軽く、テンポ良く紙の上を走る鉛筆の音が聞こえてくる。音の心地よさと、同じモチーフをを描いているという好奇心で、あたしはルーチェの手元を覗いてみた。
「…………」
覗かなければよかった……。激しい後悔があたしを襲う。
はっきり言って、上手い。あたしより遅くに描き始めたにも関わらず、ルーチェのデッサンはすでにモチーフの姿を完璧にとらえ描いていた。あたしの方はといえば、まだ四角や円といった大まかな形しか描けていない。しかも、自分の性格からは考えられないような、自信がなく不安定な線ばかりだ。
「美夜さん? どうかしたの?」
落ち込み、ため息をついたところで、ルーチェが小声で話しかけてきた。
「んー。上手いなぁって思って……」
何に対して「上手い」と言ったのか分からなかったのか、ルーチェは可愛く首を傾げる。しかし、あたしが画用紙に描かれたデッサンを指差すと、意味を理解し、表情をパァっと輝かせた。
「私、幼い頃から絵を描くのが好きで、時間があれば何かと描いていたんです」
と、自分の絵が褒められた嬉しさか、楽しそうに言った。
「やっぱり、ちっちゃい頃から上手かったの?」
ルーチェは首を横に振る。
「上手くないですよ。ここまで描けるようになるまで、何度も繰り返し描いたの。それでも、本当に納得できる作品はなかなか描けないです」
「そうなんだ」
ルーチェは謙遜気味に言うが、あたしはその謙遜が納得できなかった。
「美夜さんは、いつから美術を始めたの?」
「あたしは、……この春から」
熟練者を前に、自分の浅い経験値を晒すのが恥ずかしかった。
「だったら、これからどんどん上達していくんですね」
ニッコリと微笑むルーチェ。あたしも釣られて微笑み返す。彼女は激励の言葉をかけてくれるが、やる気は急激に下降していく。
あたしは自分とルーチェの絵を見比べ、弱者と強者の力関係のような感覚をおぼえていた。経験の差だと言ってしまえばそれまでだが、なんとも言えない敗北感のような感じだ。
それ以前に、あたしには絵を描くという才能が無いのだろうなと思わせられる。
「手を止めてたら、上達するものもしなくなるぞ」
自分の才能のなさに落胆し、ガックリと肩を落とすあたしの背後から、突然男性の声がかけられる。不意打ちすぎて、手から鉛筆が転がり落ちてしまう。あたしは鉛筆を拾い上げることもせず、そのまま声のする方へ顔を向けた。
そこに立っていたのは神志那先生。
先生は足元に転がってきた鉛筆を拾い、指先でクルクルと回しながら、並んだ二つの作品を眺める。
「エタンセルマンは、なかなか良い線を描くな」
「そうですか。ありがとうございます」
「ここに、もう少しだけ陰影をつけてやれば、もっと良くなるんじゃないかな」
「あっ、そうですね。やってみます」
ルーチェは神志那先生のアドバイスを素直に受け、自分の絵の完成度を上げていく。
彼女は向上心の塊なのか、鉛筆を紙の上で走らせながら、次々と質問を重ねていく。神志那先生はそれに対し真剣だけど楽しそうに答えている。
あたしは、そんな二人の姿を横で羨ましそうに眺めていた。
質問があり、それに答えれば的確な反応が返ってくるのだ。教える立場の人間からしてみれば、楽しくないわけがない。一方的に教わるだけで、返す反応も微妙なあたしなんかより、しっかりとした反応がある方が教えがいがある。……ついさっき見せていた、複雑な表情が消えてしまうほどに。
あたしもルーチェのようになれれば、神志那先生の楽しそうな顔を見ることができるのかもしれない。でも、あたしがその域に辿り着くまで、何年かかるだろう。
などと、二人の姿を見つめながらぼんやりと考えていると、突然、神志那先生の身体がこちらに向いた。
「だから、犬塚。手を止めていたら上達しないぞ」
あたしの鉛筆を指でクルクルと回しながら、神志那先生は呆れ声で言う。
「でも、あたしの鉛筆……先生が持ってて……」
「……あれ? ああ。わるい、わるい」
慌てて鉛筆の回転を止める。
しかし、鉛筆はあたしの手に戻ってこない。神志那先生はスケッチブックとモチーフの間に視線を交互に送り、手に持ったままの鉛筆でスケッチブックに線を描き始めた。
「犬塚。もっと自信を持った線で描いてみろ」
身体が密着してしまいそうなほどの至近距離で、神志那先生は描いていく。その距離の近さに、胸の鼓動が速くなる。低く優しい声が耳許で聞こえる。
自分の顔が熱くなってくるのが分かる。
先生の声は聞こえるのに、説明が頭に入ってこない。
こんな風に教えてもらうことは、何度かあったはずなのに……。なぜ、急にこんなにもドキドキとしてしまうのだろう。
「……で、こういう風にすれば……。犬塚、分かったか?」
一通りの説明を終えたが、全く反応がないことを妙に思ったのか、神志那先生が顔を覗き込んでくる。
目が合った瞬間、神志那先生の笑顔が固まった。そして、困惑したような顔になり、不自然に視線を外した。 あたしから少し身体を離した神志那先生は、スケッチブックを手に取り無造作に捲っていく。
「誰も最初から上手い訳じゃない。犬塚も、最初の一枚から見ると上達しているのが分かる。もっと上手くなりたいと思うなら、物の形をしっかりと見て、何枚も描き続けることだな」
それだけ言うと、先生はスケッチブックを元に戻し、目を合わせることなく他の生徒の方へ行ってしまった。
あたしは神志那先生の温もりが残る鉛筆を持ち、続きを描こうとした。けれど、そこから先に描き進めていくことができなかった。
あの時の神志那先生の表情……。
あたしの顔は、自分の気持ちが前面に押し出された表情をしていたのだろう。
自分ではどんな顔をしていたか分からない。だけど、それは神志那先生に抱いている気持ちが現れたものだと思う。
……神志那先生は気づいてしまったかもしれない。あたしの気持ちに。
そして、あたしも気づいてしまった。自分でも知らなかった気持ちに。
この気持ちが、夢のなかの男性に対しての『憧れ』ではなく、神志那紫苑という一人の男性を『好き』だと感じている気持ちだということを――