03
退屈な授業が全て終わり、放課後がやってきた。
このクラスにとって、今日の授業時間ほど煩わしいものはなかったかもしれない。なにせ、男女関係なく休憩の度にエタンセルマンさんの席に赴き、お決まりの質問攻めにしたり、自分の存在を知ってもらう為に話しかけたり、少しでもお近づきになれるようにと必死だったのだから。
あたしはといえば、ほとんど接触のないまま今に至っている。最初に感じた、あの妙な感覚のせいで避けている訳ではない。長い一日の間に、何度か彼女の姿が視界に入ってきたり、目が合ったりすることもあった。それでも、今朝のような感覚を感じることはなかった。
そして、神妙な面持ちだった洸太も、気が付けばいつもと変わらない様子になっていた。
だから、今朝のことも、今までにない独特な空気に飲まれたせいだろうと、特に気に留めることなく一日を過ごしていた。
なんて言っているが、あたしがエタンセルマンさんに関心が薄いのは、彼女の存在以上に関心を持っている人が居るから。他のクラスメイトたちとは、放課後を待つ意味合いが違うからだ。
あたしは急いで荷物を鞄に詰め込み、結衣に声をかける。
「結衣っ。早く、部活に行こ」
ゆっくり丁寧に整理整頓をする結衣を急かし、あたしたちは教室を駆け足で出ていった。
向かう先は、美術室。
どちらかと言えば、身体を動かすことが好きなあたしだけど、高校に進学し選んだ部活は美術部だった。
中学の時は運動部に所属し、部長を任されたりもしていた。あたし自身も部活動が好きでやる気に満ち溢れていた。当時は高校に進学しても、その部活を続けるつもりでいた。
だけど、その意識は高校に入学すると同時に覆されてしまった。
「失礼しまーす」
静かにだが、存在感があるように教室の扉を開け、挨拶をする。しかし、返事は返ってこない。
美術室に、他の部員は来ていないようだ。
そこに居るのは、窓際の机の上に無造作に積み重ねられた美術書に囲まれ、黙々と本を捲り眺める男性教師、一人だけ。
「神志那先生。こんにちは」
すぐ傍まで行き、改めて美術教師“神志那紫苑先生”に声をかける。すぐ間近まで来て、ようやく存在に気付いてくれたのか、神志那先生は美術書から顔を上げた。
「……んっ、犬塚に兎川か。……あれ? もう、部活の時間なのか?」
神志那先生は本を丁寧に閉じると、目頭を押さえた。そして、大きく背伸びをして、座っている椅子をくるりと回転させ、教室の時計を確認した。
「よーし、君たちには一番乗りのご褒美として、先生特製のコーヒーをご馳走しよう。飲むだろ?」
「はい。いただきますっ!」
元気よく返事をすると、神志那先生は少しばかり嬉しそうにあたしたちの頭をポンポンと軽く撫で、美術準備室に入っていった。
先生特製のコーヒーを待っている間、あたしたちはイーゼルなどを準備していく。静物デッサン用のモチーフを机の上に並べ、スケッチブックと鉛筆も用意する。
あらかた準備を終え、自分が描きやすいように座る位置やイーゼルの位置などの調整をしていると、フワリと芳ばしい香りが届き、器用に三つのカップを持った神志那先生が戻ってきた。
「はい。どうぞ」
「ありがとうございます」
カップを配り終えると、神志那先生は近くの椅子に腰を下ろし、美味しそうにコーヒーを飲み始める。
カップから広がる良い香りを感じながら、あたしは少しずつコーヒーの味を堪能していく。そして、カップの向こうに居る神志那先生の姿を、盗み見るように見つめた。
今までは授業でしか触れることのなかった美術。そんな運動好きなあたしが美術部に入った理由……。
それは、今、目の前で美味しそうにコーヒーを飲んでいる神志那紫苑先生の存在だった。
あたしは高校に入る前に一度だけ、神志那先生と会っていた。
会ったといっても、そんなに劇的な出会いではない。いつも通りの日常のなかにある、ほんの些細な出来事。だから、この出来事を神志那先生は覚えていないと思う。あたし自身も、そこに居たのが神志那先生でなければ、すぐに忘れていただろう。それほどに、小さな出来事。
――去年、中学最後の夏休み。
あたしは形だけでも受験生をしようと、参考書を買いに本屋に来ていた。しかし、そこには集めている漫画や小説の新刊が並んでおり、あたしの手は参考書ではなく誘惑の方に伸びていった。
大量に漫画などを抱え店内をふらふらしていたあたしは、うっかり人とぶつかり手にしていた漫画を床にぶちまけてしまったのだ。慌てて謝り、ぶちまけてしまった漫画を拾っていると、なぜかその人もしゃがみ手伝ってくれた。
お礼を言おうと顔を上げたあたしは、この時、人生で一番驚いたかもしれない。
なぜなら、そこにいる男性が夢に出てくる黒い翼の男性によく似ていたからだ。
立ってみれば、背格好も同じくらいの細身の長身。艶のある少し長めの黒髪は、風に舞うあの黒髪に似ていた。
目の前の男性は終始笑顔で話しかけてくれている。夢のなかで、黒い翼の男性の笑顔は見たことがなかった。けれども、彼が笑うとこんな風なんだろうなと、容易に想像できてしまった。
そして、終始笑顔のこの彼が見せる寂しげな表情も、夢のなかの黒い翼の男性のようなんだろうなと、想像することができた。
たった数分の出会い。だけど、その数分があたしのなかで大きな印象となって残った。
また会いたくて、何度か同じような時間に本屋に行ってみた。だけど、会えたのは最初の一回だけだった。
仕方ないと諦めはしたが、やはりどこかで会いたいという気持ちが残っていたのだろう。この頃から、あの夢を見る頻度が多くなっていった気がする。
受験も終わり、無事に希望通り近場の高校に合格することができ、心機一転迎えた入学式。そこであたしは、あの日と同じ驚きを味わった。
教師陣の席に、あんなにも会いたいと願っていた人が居たのだ。彼の姿を見つけた時、あたしの胸は跳ね上がった。
ずっと見続けていたあの夢。気が付けば、黒い翼の男性があたしの理想の男性像になっていたのかもしれない。
夢のなかは手が届かない。けど、今は頑張れば手が届くかもしれない場所に、理想の男性に似た人がいる。
一方的な憧れだとは分かっているが、あたしは神志那先生の傍に居たかった。だから、ほとんど興味のなかった美術部に入部することにしたのだ。
その際、最初から美術部希望だった結衣は、不思議そうに尋ねてきた。親友とはいえ、理由を言うことに少し躊躇いがあった。結衣のように『絵を描きたい』という、しっかりとした理由ではなく、『憧れの人の傍に居たい』という不純な理由で入部しようとしていたのだから。けれども、やっぱり結衣には黙っておくことはできず、理由を話した。
結衣は当初、あたしが夢のなかの男性に『憧れ』という感情を抱いていることに驚いていた。そして、その『憧れ』を神志那先生にも抱いていると聞き、さらに驚いていた。けど、結衣はそんなあたしを否定せず、応援をするような言葉をかけてくれた。
「いいんじゃないの? 好きな人の傍に居たいって思うのは、誰でも思う普通の感情だからね」
そう言われ、『好き』ではなく『憧れ』なんだけどね……と、内心思いつつも、許された気持ちになり気分が楽になっていた。
あたしは勉強や趣味のためではなく、自分の欲望のために美術部に入ったのだ。
最初は不安や妙な罪悪感もあった。けど、一ヶ月も経つと、それらも多少は和らぎ、神志那先生との関係や絵を描くことに関しても前進したいという欲も出てくる。しかし、意欲があっても、そんな簡単に進むことができるはずもなかった。
「ん? 犬塚、どうしたんだ?」
自分を見つめる視線に気付いたのか、神志那先生はあたしの眼前まで顔を近付けてくる。男性のものとは思えない、お菓子のような甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。
あたしは見つめついたことがバレた恥ずかしさと、顔の近さに照れてしまい、思わず顔を逸らしてしまう。それを横で見ていた結衣が、必死に笑いを堪えている。
神志那先生は姿勢を戻し椅子に座り直すと、地味に動揺しているあたしと笑いを堪えている結衣の様子を不思議そうに眺め、カップに口をつけた。
「あっ、そういえば、犬塚たちのクラスに転校生がきたんだよな」
突然の言葉にドキリとする。
「ルーチェ・エタンセルマンさんのことですか?」
神志那先生の顔は、あたしの方を向いていた。だけど、なかなか答えようとしないあたしに代わり、結衣が答える。
「そうそう、その娘。職員室で見かけたけど、すごい迫力のある娘だったな。金髪碧眼で」
神志那先生は興奮気味に語る。先生も若い男性だ。あれほどの美少女を気にかけない訳がない。
あたしは恋人ではないのだ。神志那先生がどんな人を気にかけようとも、ただの教え子であるあたしがどうこう言う権利はない。だけど、憧れている人が自分ではない誰かのことを楽しそうに話す姿を見るのは、けっこう辛い。
「たしかに、綺麗な人ですよね」
「美少女って言葉が、ぴったり当てはまるような娘だな」
しばらく結衣とエタンセルマンさんのことを話していた神志那先生だったが、何を思ったか急に押し黙った。その時見せた表情が、なぜか今朝の洸太の姿と重なる。
「…………けど、あの娘は……」
何かを言いかけた、その時だ。
「失礼します」
遠慮ぎみなノックの音の後、扉が静かに開き、聞き覚えのある澄んだ声が聞こえてきた。
その場に居た三人の視線が扉に集中する。
そこに現れたのは、今まさに話題に上がっていたエタンセルマンさんだった。




