02
あたしは席に着くなり、前の席に座る女生徒に声をかける。
「結衣。おはよー」
本を読んでいたその子は、こちらを振り向く。
「あっ、美夜。おはよう」
肩まで伸びた柔らかな栗色の髪からシャンプーの良い香りがふわりと薫る。彼女はあたしの顔を見るなり、優しい笑顔を向けた。
彼女は“兎川結衣”。あたしの幼馴染みで、心の癒し。
「途中で会わなかったから、休みかと思ったよ」
「はははっ。ちょっと、寝坊してね」
「……もしかして、また、あの夢のせい?」
「そうそう。あの夢見ると、頭の動きが鈍っちゃうから」
「ふふっ。大変だね」
大袈裟に困り顔で言うと、結衣は笑って応えてくれる。だけど、あたしの夢見の事情を知っている結衣は、少し心配そうにもしている。
ずいぶん前だけど、あたしは結衣だけに夢の話をした。
二人で遊ぶ約束をしていた日、あたしはあの夢を見て見事に大遅刻をしてしまった。それなのに結衣は怒ることなく、夢のせいで寝坊したという言い訳染みた話を真面目に聞いてくれたのだ。他人の夢の話ほど退屈なものはないのに、最後まで真剣に聞いて、信じてくれた。それが、すごく嬉しかった。
あたしは、そんな結衣が大好きだ。
心から信頼できる幼馴染みで、一番の親友。
あたしたちは、朝のホームルームが始まるまでの僅かな時間を、おしゃべりをして過ごす。内容は色々あるけど、他愛ない話が多い。だけど、そんな下らないようなことでも楽しいのだから止められない。
「おーい。美夜ぁ。結衣ぃ。ノート見せてくれぇ」
突如、あたしたちの談笑を妨害するかのごとく、背後から一人の男子生徒が声をかけてきた。その声に、よーく聞き覚えのあるあたしは、呆れたように振り返る。
そこには、一見爽やかな好青年風の茶髪の男子生徒の姿。彼はあたしの背に縋り付くように寄りかかっている。
「も〜、洸太。また、課題やってこなかったの?」
「いやー。昨日、バイトが忙しくてね。机には向かってたんだけど、気が付いたら朝日が眩しかったよ」
そう言いながら洸太はあたしの背から離れ、教室の窓を眩しそうに見つめた。
彼は“押上洸太”。同じクラスの男子生徒。そして、あたし犬塚美夜と兎川結衣の幼馴染みでもある。小さな頃から何かと一緒に過ごすことが多かったけど、何のご縁か高校に入ってまで同じクラスになっていた。
「洸くん。バイトもいいけど、宿題くらいやって来ようよ」
結衣も呆れたように言う。
「いやっ。やる意思はあったんだよ。……ただ、睡魔には勝てなかっただけだっ!」
洸太は半ば自棄になったのか、なぜか威張るような態度をみせる。あたしと結衣はその態度に反論することを諦め、ノートを差出した。
「たまには、あたしたちにノートを貸すぐらいしてみてよ」
「それは無理だな」
小さな提案を洸太は即答で却下する。あたしたちは呆れすぎて反論の言葉も出せず、がっくりと肩を落とす。
「あっ、でもさ、今度バイト先に来たらサービスするからさっ」
洸太はすぐさま代替案を提示する。それは、あたしたちにとっては魅力的な案だった。
「それは……ありがたいかも」
「そうだね……って、洸くんはバイトでしょ。そんな権限ないでしょ」
「…………」
洸太はしばし悩む。だが、何秒もしないうちに満面の笑みを浮かべ、親指を立てた拳を突き出してきた。
「だいじょーぶ。どーにかするっ!」
「あはは……」
胸を張り宣言する洸太に、あたしたちは再び呆れたように肩を落とした。
言うだけ言った洸太はノートを受け取ると、すぐさま自分の席へと向かった。喜んで戻っていく後ろ姿が、大型犬がブンブンと尻尾を振り全身で喜びをあらわしているように見えて、あたしは思わず吹き出しそうになってしまう。
洸太は爽やかな容姿で、立っているだけなら誰の目にも好青年として映るだろう。
しかし、性格が少しだけ残念だ。言動が加わってしまうと、少しおバカなワンコといった風になってしまう。『黙っていれば格好いい』と、いう言葉が最も適している存在なのかもしれない。
だが、そういうギャップがカワイイと、一部の女性には受けているらしい。昔から、告白されただとかいう浮いた話を何度か耳にしていた。
正直なところ幼馴染みだからなのか、あたしにはそういうギャップの良さとかは理解できないでいた。
洸太の後ろ姿を見送り、中断されていた結衣との談笑を再開しようとした時だ。洸太が突然、踵を返してこちらに戻ってきた。
「そうそう、知ってるか?」
「唐突になに?」
本当に唐突な話題振りだった。
もちろん、洸太が何について尋ねてきたのかも皆目見当がつかない。要領が得ず、首を傾げるあたしたちの様子を見て、洸太はニンマリと嬉しそうにしている。
「やっぱり、知らないか!」
話の本筋を語らず、知らないと決めつける態度に若干の苛立ちを覚える。ここで話しを断ち切ることもできた。しかし、あたしたちが知らない『何か』を話したくて、うずうずしている洸太の姿を見てしまうと、幼馴染みの情けか、無下にすることもできなかった。
「……でさ、何なの?」
尋ね返すと、洸太は待ってましたと言わんばかりの勢いで、答えを返してきた。
「今日さ、このクラスに転校生が来るらしいよ」
「転校生?」
「そうそう。転校生」
勝ち誇ったような洸太をよそに、あたしは周囲を見る。言われてみれば、クラスのみんなも転校生のことを知っているのか、どこか浮わついた感じでソワソワとしている。
でも、あたしは一つ疑問に思うことがあった。
「転校生って……こんな時期に?」
結衣が不思議そうに言う。
「は? そんなことは知らないよ。俺が聞いたのは、転校生が来るって話だけだから」
洸太は何の疑問も感じていないようだが、どうやら結衣はあたしと同じ疑問を感じたようだった。
普通なら、区切りの良いように学期の始めに転校してくるだろう。季節はもうすぐ梅雨に入りそうな五月の終わりごろ。それ以前に、高校に入学して、まだそんなに時間が経っていない時期だ。家庭の事情かも知れないが、転校して来るには少し時期が遅いように思った。
このクラスのざわつきも、転校生が来るという小さなイベントに、季節外れという事柄から想像される憶測が加わったせいなのかもしれない。
結局、洸太が持っていた情報は「転校生が来る」と、いうものだけだった。
情報を出しきった洸太は、借りたノートを手に机に戻っていく。
どんな子が来るのか、気にならないと言ったら嘘になる。他のクラスの子から情報を得ようかとも考えたが、それはできなかった。洸太とぐだくだ話している時間が長すぎ、始業のチャイムが鳴ってしまったからだ。
「おーい。チャイム鳴ったぞ! 早く、席につけ」
チャイムと同時に教室に現れた担任が、落ち着きのない生徒たちを一喝する。
しかし、担任の声を聞くも生徒たちが静かになることはない。このままでは確実に落ちるであろう担任の一喝の恐怖よりも、扉の向こうに見え隠れする新しいクラスメイトの存在に関心が向いている。担任も生徒たちの関心事に気づいているのだろう。それ以上、生徒たちを注意することなく、その人物に声をかけ教室に入るよう促した。
扉の向こうの転校生は、静かに教室に足を踏み入れた。
「――――!!」
その瞬間、教室内にいた生徒全員が息を呑んだ――
ざわついていた教室が全く別の空間になったのではと錯覚してしまうほどに、一瞬で静まりかえった。
その子はフワフワと波打った長い金色の髪を靡かせ、あたしたちの前に現れた。陶磁器のような白い肌、薄く紅をさしたように染まった頬と唇。そして、ガラス細工のような大きな蒼い瞳。
同じ制服を着ていても、あたしとは別世界に生きる人の姿。まさに、お人形という表現がぴったりな少女だった。
「今日から、このクラスに入ることになった“ルーチェ・エタンセルマン”さんだ」
教壇に立つ担任の横で、エタンセルマンさんはニッコリと微笑み丁寧なお辞儀をした。
「ルーチェ・エタンセルマンです。よろしくお願いします」
透き通った綺麗さのなかにも、可愛らしさを残した声だった。
丁寧な挨拶と同時に、男子生徒たちが一気に沸き上がる。担任が静めようとするが、教室内の興奮はなかなか収まらない。それどころか、担任自身もその興奮に飲まれているように見えた。
男たちが、こうも露骨な態度をみせれば、女生徒たちの気分は良いはずもない。しかし、この場でエタンセルマンさんのことを恨めしそうに見る者は、誰一人として居なかった。皆、彼女が纏う不思議な魅力の虜になったのか、うっとりと眺めていた。
彼女は同性から見ても、綺麗で羨むような容姿をしている。
けれど、あたしは妙な感覚を覚えていた。胸の奥がざわざわと逆立ち、どう形容していいのか分からない感情が湧き上がる。
エタンセルマンさんは担任に指示され、用意された席に向かう。その際、彼女の蒼い瞳と目が合った。エタンセルマンさんは微笑み軽い会釈をする。あたしはぎこちない笑みを返す。会釈を返すが、そのまま不自然な形であたしはエタンセルマンさんから顔を逸らしてしまう。
そして、逸らした視線の先で、あたしは不思議なものを見た。
誰もがエタンセルマンさんの存在に興奮しているなか、一人表情を曇らせている洸太の姿を――




