05
――るふと? ルフト?
下駄箱に向かいながら、あたしはルーチェの言った『るふと』という言葉の意味を考えていた。どう意味を持つ言葉なのかは分からないが、どこかで聞いたことのある言葉のような気がしていた。
だけど、これだけは分かる。
――この言葉の響きは、とても不安を煽る。
この言葉を耳にした時、身体の奥が焼けるように熱くなった。神志那先生に対して感じる胸の熱さとは全く異なる。身体の内側から炎で焼かれるような、苦しくて恐ろしい感覚。
そして、また聞こえてきた……何かがひび割れるような小さな音。
それらが、あたしを足早に美術室から遠ざけていた。
何だろう。何かがおかしい気がする。
ルーチェが現れてから、あたしだけでなく周囲もおかしくなり始めた気がする。しかし、それは違うと首を振る。
たしかに、ルーチェが現れたことで、あたしは神志那先生に対する気持ちに気づくことができた。だけど、それだけだ。それ以外のことはルーチェには関係ない。
あたしは急激に訪れた変化についていけてないだけだ。自分がいつまでも留まって、前に進めないことを関係ないルーチェのせいにしようとしているだけだ。
「…………」
だったら、洸太の瞳の色は?
あたしを襲う、言い様のない恐怖は?
そして、ルーチェや金色の髪に抱いてしまう、この不安。色々なものが頭の中で渦巻いていく。
「……おっと、危ない、行き過ぎた」
考えながら歩いていて、うっかり下駄箱を通りすぎそうになってしまい、二、三歩、後ろにさがる。
「……あっ」
そこで思いがけない人物と鉢合わせてしまう。そこに居る人と目が合うが、互いに顔を不自然に逸らしてしまった。
「……洸太」
そこに居たのは、靴を履き替えようと腰を屈めていた洸太だった。
「美夜……。一人なのか? 結衣は?」
「……あ、あたし、一人。忘れ物を取りに戻って来たから……。それよりも、洸太は何でいるの? 今日、バイトは?」
「ああ、今日は委員会の話し合いがあったから」
「あ、そうなんだ……」
「…………」
会話が途切れてしまう。沈黙は重い。あたしは、わざと大きな音をたて、靴を取り出した。あたしが靴を履き替える間、洸太は帰ることもせず黙ってその場に立ったままだった。
「なあ、一緒に帰らないか?」
履き終わるや否や、洸太は少し気まずそうに言う。断る理由も思い浮かばず、あたしはそれに応じた。
一緒に帰れば、話す切っ掛けを見つけられるかと思った。しかし、帰り道は沈黙を引きずったままだった。お互い、切っ掛けを探しているのは分かるのに、それが見つけられないのだ。
学校から家までは、そこまで遠くない距離だ。早く何かを言わなければと焦るが、切り出し方も分からず、ただ虚しく時間だけが過ぎていく。
「…………あのさ、美夜」
帰り道を半分ほど過ぎた頃、洸太が沈黙を破り口を開いた。
「昨日は……悪かった……」
ばつが悪そうに、顔を見ることもできない洸太が謝罪の言葉を口にする。
「俺、美夜の気持ちも考えずに……あんなことして……」
沈んだ声のトーンから、洸太の抱いている後悔を窺い知ることができる。
「自分でも分からないんだ。何であんなことをしたのか。……ただ、すげー悔しかった。美夜があいつの話しをするのが! あいつの傍にいるのがっ!! あいつが――」
「――洸太っ!!」
立ち止まり、大声をあげ洸太の言葉を遮る。
洸太は自身の不安定な感情に不安を感じている。そして今、洸太はその不安に流され、感情を高ぶらせ始めていた。それは、昨日の姿を彷彿とさせ、恐怖を感じたあたしは思わず強い口調で叫んでしまっていた。
「――――!!」
ハッと我に返り、あたしの顔を見る洸太。
たった一日、まとまに顔を見なかっただけなのに、なぜかすごく久しぶりに会ったみたいな懐かしさを感じた。
「ごめん。なんか、取り乱して」
「うんん。あたしの方こそ……」
再び、沈黙が訪れてしまう。しかし、今度はあたしの方から口を開く。
「洸太……ゴメン。あたし、洸太の気持ちには応えられない」
一瞬、大きく目を見開いた洸太の顔に、暗い影が落ちる。それでも、あたしは自分の気持ちを言葉にして伝え続ける。洸太にとって残酷であろう言葉を。
「あたし、洸太のことは大好きだよ。……だけど、それは幼馴染みとしての『好き』なの。……あたしは――」
「――あいつが好きなのか?」
核心を突く言葉にドキリとする。しかし、それを尋ねた洸太の声色は、恐怖を抱かせる高ぶりはなく落ち着いていた。その空気に流され、あたしは「うん」と、小さく頷いた。
「…………好きなの。神志那先生が」
その言葉は洸太に宛てたものだが、自分自身の気持ちを確かめるための言葉でもあった。
「そうか。……そうだよな。お前を見てたら分かることだもんな」
無理矢理、自分を納得させようとしているのか、洸太は明るい声で言う。
「洸太……」
「気にすんなよ。誰かを好きになるなんて、理屈じゃないからな」
「ゴメン。洸太」
「あーっ。もうっ! 謝んなよな。これ以上、謝られたら惨めな気持ちになるからさ」
そう言ってくる洸太は、いつも見る明るい笑顔だった。
「それにさ、こういう風にはっきりと言ってくれた方が、こっちも踏ん切りがつくから良かったよ」
照れくさそうに言う姿を見て、また「ゴメン」と、言いそうになってしまうのをグッと堪える。
「……それにしてもさ、神志那センセーのどこが良いんだ? 俺から見たら、ひょろっとしててさ、頼りなさそうなイメージなんだけどな」
「あはは。なんか、酷い言いぐさだね」
「そりゃそうだろ。言ってみれば、恋敵みたいなもんだからな。そんな奴の良いイメージなんて、持ち合わせてないよ」
洸太はニカッと歯を見せ笑う。言い方こそ酷いが、その言葉に悪意はない。あたしのよく知る、おちゃらけた感じの洸太だ。洸太も幼馴染みとしての関係に戻ろうと必死なのかもしれない。
自分の気持ちを受け入れてもらえない悲しさは、あたしも知っている。だけど、洸太はそれも真摯に受け入れ、前に進もうとしている。それなのに、あたしはずるずると引きずり、小さな希望に期待を抱いて掴まったままだ。
「――――ぇ?」
突然、頬に軽い痛みが走る。そして、妙に洸太の顔が近い。
「だーかーらー。前にも言っただろ、美夜」
洸太の指があたしの両方の頬を摘まんでいる。
「なーに、暗い顔してんだよ。美夜は悩んだり落ち込んだりする姿は似合わないって」
洸太の優しさが心に染みる。
「……そうだね。似合わないよね」
あたしは精一杯の笑顔で応える。
「そうそう。笑顔、笑顔」
……笑顔。
『まずは笑顔を見せないとな。泣きそうな顔だと前に進めないから』
目の前に居るのは洸太なのに、昨日の神志那先生の言葉と姿が映る。いつまでも引きずって、あたしは惨めすぎる……。
「…………洸太。そろそろ、離してくれないかな? けっこう、痛いんだけどな」
じわりと滲んだ涙を痛みのせいにする。
「あはは、わりぃ」
パッと手を離した洸太は、笑いながらあたしを見ている。その笑顔に罪悪感を感じながら、同じように笑顔を返す。
洸太には辛い思いをさせてしまった。だけど、あたしたちはふざけたり、笑いあったりできる幼馴染みの関係が一番合っていると思う。それは自分勝手な答えかもしれない。けど、二人が同じ気持ちを持っている今なら、元の関係に戻れる。そう、思えた。
「じゃ、帰ろうか」
「そうだね」
あたしたちは止まっていた歩みを、再び進めていった。
夕焼けの赤い色に満ちた帰り道。昨日と同じ赤い色だけど、今日は澄んだ色に映る。そんな色に染まった道を、あたしたちは他愛ない会話をしながら歩く。河川敷で遊ぶ子どもを見かければ、自分たちも子どもの頃よく遊んだよなとか、昔を懐かしんだりする会話。
日常のくだらない会話もある。けど、今のあたしたちには、そのどれもが大切な会話だった。
しかし、その会話がふいに途切れてしまう。
「…………」
「…………」
二人の視線が同じものを捉える。あたしたちは、視線の先には現れたものの姿に、目を奪われていた。
住宅街の一角から、それは現れた。
それは人なのだが、この場所には不釣り合いな存在に見えた。金色の髪に、恐ろしいほどに白い肌をした男性。おまけに、上下、真っ白なスーツ。遠目だと、どこまでが素肌で、どこからがスーツなのか判断しがたいほどだ。身なりも良く、上品そうで、一般的な家庭が集まるこの住宅街ではかなり浮いてしまいそうな姿だった。
あまりの存在感に、あたしたちは呆気にとられ足を止め、その男性の姿を見ていた。白い男性は道に沿って、こちらの方へ歩みを進めている。
すぐ目の前まで来て、白い男性は青い目を細め会釈をしてきた。すれ違い様の軽い挨拶に、あたしたちも釣られて会釈を返す。
男性は背も高く、整った顔だちをしている。そして、遠目からでは気付かなかったが、右腕の肘から下が無いのか、白いスーツの袖が歩く度に揺れて靡いていた。
白い美しさと痛々しさが同居する姿は、目を引く。それでも、ただの通行人同士のなんの変哲もないすれ違い。
それだけのことのはずだった。
彼の青い瞳を見た瞬間、あたしに妙な感覚が襲ってきた。
それが何なのか分からず動けずにいると、すぐ横まで来た彼も立ち止まり、青い目をこちらに向け大きく見開いた。そして、ニヤリと絡み付くような不気味な笑みを浮かべた。
「――――っ!!」
全身に冷水を浴びせかけられたような悪寒が走る。この男は危険だと本能が告げている。しかし、足が震えて動かない。怖い、逃げたい。だけど身体が動かない。
そんな強ばった身体が、突然、ガクンと動く。腕に痛みが走り、強く引っ張られる。痛む腕に視線を向けると、その先にはあたしの腕を掴み走り出す洸太の姿があった。
洸太も、あの白い男性に何かを感じたのか、険しい顔をしていた。
洸太の走りに合わせ、動き始めた自分の足。走る力を速めて、どんどん白い男性から離れていく。逃げ出すように走り去るなか、一度だけ後ろを振り返った。白い男性はその場に立ったまま、遠ざかっていくあたしたちの姿を見つめたままだった。
住宅街に入り、白い男性の姿はすっかり見えなくなった。走るのを止め歩き出すが、洸太の表情は険しいままで周囲を警戒している。
あたしは洸太に腕を引っ張られ、乱れた呼吸を整え歩く。しだいに呼吸は落ち着いていくのに、なぜか胸の鼓動はいつまで経っても落ち着かない。これが運動によるものなのか、感じてしまった恐怖によるものなのか分からないほどに。
「美夜。家まで送るよ」
あたしの家は洸太の家よりも、いくらか奥にある。それなのに洸太はあたしを送ると言ってきた。普段なら笑いながら断っていただろう。だけど、今日はそれを素直に聞き入れた。
「洸太。送ってくれて、ありがとう」
「いや、礼なんていいよ。……それよりも、しっかり戸締まりしとけよ」
洸太は異常なほどに警戒している。あたしを家まで送ると、外から隠すように無理矢理、家の中に押し込んだ。
「……うん。分かった。洸太も気を付けてね」
ここから離れているといっても、そんなに遠い距離ではない。自分が何に対して「気を付けてね」と、言ったのかよく分からなかった。だけどピリピリとした警戒の空気から、自然とその言葉が口をついて出た。
「ああ、俺のことは心配ないから。じゃ、また明日な」
しごく明るい口調で言い、洸太は来た道を帰っていった。あたしは玄関ドアから身体を半分出し、遠くなって行く洸太の後ろ姿を見送った。
その夜、色々と心配をかけてしまった結衣と、洸太には送ってもらったお礼のメールをそれぞれ送った。間を置かずに結衣から着信があり、しばらく電話越しに会話を交わした。
通話を終えた画面に、洸太からのメール受信はなく変に思ったが、画面に表示され時刻を見て特に気にすることもなくなった。
しばらくベッドに寝転びながら携帯をいじり、結衣と同じように伝えたい人のことを考える。だけど、この携帯にその人の情報は一切入っていない。
「明日、話せたらいいな」
ポツリと呟き、あたしはゆっくりと目を閉じた。