01
嗅ぎ慣れた土の匂い。
埃っぽい乾いた空気。
夜空には満天に輝く星々。
そして、蒼く大きな満月――
……ああ、またこの夢だ。
『あたし』であり、『あたし』ではない自分の居る世界の夢。
だけど、今日の夢はいつもと雰囲気が違う。場所はいつもと同じようだけど、血がたぎるようなあの高揚感がない。それに、黒い翼の男性を待っているようでもない。
周りを見渡し状況を確認したいけど、これは夢の世界。自分の思うように動くことができない。獣の耳と尾を持つ彼女が見た世界しか、見ることができない。そんなもどかしさを感じるなか、ふと気付く。……今日は何となく空が近く感じる。
普段なら見上げるほど高く伸びる赤土色の石柱群が、今日は頂点を見下ろすことができる。さらに眼下には同じ色の地面が広がっている。
どうやら、彼女は石柱の上に立っているようだ。
それを認識したと同時に、視線が上空を向く。視線の先には、手を伸ばせば届きそうなほど間近に満月が輝いている。彼女はいつもより近い場所にある満月を掴もうと、鋭い爪の伸びた手を空に向かい伸ばす。
「どうだ。たまには戦うのを休んで、月を眺めるのも良いだろう」
横から聞き覚えのある男性の声。彼女の視線が動き、声の方に向く。そこに居たのは黒い翼の男性だった。彼は艶のある長い髪を夜風に靡かせ、穏やかな表情で月を眺めている。
夢のあたしは、石柱に腰を下ろす彼の隣に躊躇いなく座る。いつもは武器を手に戦う二人だが、今日は傍らに武器を置き、並んで座って空に浮かぶ蒼い月を眺めている。
「こうやって、ゆっくり空を眺めるなんて、今までしたことなんてなかったなぁ。けっこう良いもんだね。気分が落ち着く」
その言葉は方便でもなく本心だ。今までにないほどに、気分が落ち着いている。隣に座る黒い翼の男性は、その心からの言葉を聞き、嬉しそうにしている。
そんな時、ふいに男性の手が彼女の頬に触れた。あたしはビックリしてしまうが、彼女は動揺することなく平然とそれを受け入れている。
優しい手の温もりを感じていると、突然触れられている部分にヒンヤリとした冷たさが広がる。でも、それは不快な冷たさではなく、身体に浸透していくような心地よい冷たさだった。その冷たさが浸透していくごとに、頬にあったチリチリとした痛みが消えていく。どうやら傷を治してくれたみたいだ。
「ありがと。……でも、いーよね魔法って。あたしも使えたらなぁ」
「こればかりは《世界》の与えた力だから、どうすることもできないな。だが、お前の身体能力も《世界》が与えた力だと思うぞ」
「そうかもしれないけどさぁ。でも、やっぱ羨ましいよ。魔法使えたら、もっと強くなれるのに」
子どもみたいに足をプラプラさせ、男性の持つ魔法の力というものを羨ましがっている。
「お前は、どうしてそんなにも戦いを求める?」
「なに? 唐突に」
「いや、少し気になってな」
「うーん。何だろう。剣を握ると心が踊るんだ。で、強いやつと殺り合って、勝つことで自分の強さと命を実感できるからかな? で、それが、すごく楽しい」
「フフッ。お前らしい答えだな」
彼女の答えが想像通りだったのか、男性は笑みをこぼす。
夢のあたしは、色々な意味で素直だった。現実のあたしのように、様々な感情に振り回され、自分が分からなくなることはない。
『月が綺麗で、気分が落ち着く』
『戦いが好きだから、戦う』
『自分にない力が、羨ましい』
純粋に物事を感じ、感じたままを素直に表に出している。
「だから、次こそはあんたに勝つ!!」
そして、その素直さは強い敗北感でさえ、次への活力に変えてしまう。
「よかろう。――だが、次に勝つのも私だがな」
男性は不適な笑みを浮かべ、彼女の宣戦布告を受ける。夢のあたしは、その強気な発言に膨れっ面になるが、心は弾んでいた。
一度離れていった男性の手が、再びこちらに伸びてくる。その手は迷うことなく彼女の頭に届き、静かに撫でる。すると、頭上にある獣の耳が、くすぐったそうに跳ねる。
「私も、最近はお前と戦うのが楽しくなってきたよ」
弾んでいた気持ちがさらに跳ね上がり、ふさふさとした尻尾が大きく揺れる。尻尾は揺れる度に男性の身体に当たっている。しかし、男性はそれを嫌がる素振りも見せず、嬉しそうに眺め言う。
「お前は、本当に素直で分かりやすい女だな――」
「――――ミヤ」
◇ ◇ ◇
「――――――!!」
心臓が飛び跳ねる勢いで目を覚ました。
見開いた瞳が映すのは、黒い空に浮かぶ満月ではない。見慣れた真っ白な天井。
「…………ミヤって……」
夢から覚めても、心臓は早鐘を打ったまま鳴りやまない。
夢のなかで、『あたし』ではない『あたし』は、『ミヤ』と呼ばれていた。神志那先生によく似た姿と声の、黒い翼の男性に……。
興奮が冷めないまま、いつもと違った夢を思い返す。しかし、思い返していくと共に、あたしの頭は冷静さを取り戻し、ため息が漏れる。
夢とは起きている間に見たり聞いたりした体験の記憶を、脳が眠りという時間で整理し見せているもの。今朝の夢も登場人物こそ以前と変わらないが、出来事なんかは神志那先生の部屋で昨夜体験したものに類似していた。
神志那先生があたしの頬に触れ、二人で並んで月を眺めた。強く印象に残った出来事を、登場人物だけを変えて夢として見た。
結局はただの願望なのだ……。こうなりたい。もう一度だけ体験したい。
そして、あたしは無意識に願っているんだ。神志那先生に「美夜」と呼んでもらいたいと――
その願望の果てが今朝の夢。夢と現実は全くの別物。関係なんてない。
興奮から一変、気分は重くなった。昨日のこともあって、学校に行くのが憂鬱になってしまう。あたしはもう一度布団を被り、目を閉じた。しかし、ほどなくして、それを妨げる大音量の目覚まし時計が鳴り響いた。
いつもと変わらない月曜日。
父はすでに仕事に出掛け、母はお茶を飲みながら朝のワイドショーを観ている。そのテレビの伝える内容も、普段と代わり映えしない。あのオカルトめいた事件の続報。隣町で起こった事件以降、新たな報告もなく調査も進展がないみたいだ。
一人で食べる食事を終え、学校に向け歩く道のりも変わらない。スーツ姿の大人は少し怠そうに会社に向かい、学生たちは友達と楽しそうに登校している。
そんな日常の風景のなか、あたしは色々と考えを巡らせながら歩いていた。
洸太に、自分の気持ちをはっきり伝えると決めたものの、どういう風に切り出したらよいのか、それ以前に洸太とまともに話しができるかどうかも不安だった。そして、神志那先生。今のあたしだと、今まで以上に意識してしまいそうで怖かった。
あたしは思った。夢のなかのあたしみたいに、感情を素直に出せ、伝えることができたならと……。