PHASE.5
(どうしようか)
その朝、僕はずきずき痛む頭を抱えながら、考えをまとめた。ついに、やってしまった。いや別に、やってないんだけども。藤谷さんと僕の仲は潔白だ。だが、立夏には壮絶に誤解された。これからどうしよう。とりあえず朝ごはん作らなきゃ。
部屋に立ち込める味噌汁の香りだけが、僕の味方のようだった。いつもと同じ日常だ。しかし、それ以外は、しっちゃかめっちゃかだ。藤谷さんは深い寝息を立てているし、立夏は台風のように部屋を荒らして立ち去った。これ、どうすりゃいいんだ?
それから三日経ったが、立夏とはまるで連絡が取れなかった。携帯電話は着信拒否にされていたし、メールを送っても返ってこない。僕がいない間に戻ってきたと言う形跡もないと言う完璧さだ。プチではない、完全な家出だった。
このアパートを絶対の安全基地に、籠城生活を営んでいた立夏がだ。それどころじゃないのだが、むしろちょっと感心してしまった。これまでも僕と口げんかの挙句、冷戦状態の挙句脱出、と言うのはちょくちょくあったのだが、結局出られたのは駅前の漫画喫茶くらいまでで、ほぼ二十四時間以内にはここへ帰って来ていたのだ。気がつくと、まるで船外活動に堪え切れなくなった宇宙飛行士みたいに戻って来ては、ソファでぶるぶる震えたりしていたのだ。
立夏が来る前と同じ静けさが、僕の周りに戻りつつあった。どこかひんやりとした、安らかな孤独だ。まあ、どれだけ大人気ないとしてもあいつだって大人だ。いつもより長く帰ってこないのには驚いたが、少し気持ちが落ち着けば、何事もなかったかのように帰ってくるだろう。日ごとに心配は薄らいでいった。
それより大変だったのは、藤谷さんのことだった。
「ごべんあさい…」
大好きなチャーハンズのライブで盛り上がっていたところを、知り合いの僕に逢う(遭遇する?)と言うサプライズを経て、藤谷さんは外すべき羽目のリミッターを大幅に振り切ってしまったのだろう。
翌日の後悔と二日酔いたるや凄まじく、状況が分かってから半日、何を話しかけても謝るばかりでソファから一歩も動かなかった。幸か不幸か藤谷さんが、事前に休みをとっていたお蔭で助かったが、授業があったら送って行ってあげなきゃならないところだ。
我が経済学部が誇る女神を、泥酔させて部屋へ連れ込んだことがゼミ生に少しでもばれてみろ、僕の洋々たる学者人生の前途が絶たれるところだった。
あまりに二日酔いがひどすぎて、藤谷さんは何にもコメントはしなかったが、やっぱり立夏がここに住んでいることには、気づいてしまったのだろうか。そう言えば立夏はほぼ普段着でステージに出たのだ。
「んん…冴島くん。申し訳ないんだけど、昨夜何があったか、もう一度最初から話してもらってもいいかなあ?」
だが、見たところ藤谷さんは、気持ちいいくらいにぶっ飛んだ記憶喪失だ。まかり間違って立夏の部屋を開けたりしなければ案外、気づいてはいないかも知れない。切にそう願いたい。
(まあ、子供じゃないしな)
と僕は放置しておいたが、週が終わる頃にはさすがに立夏の消息が気になりだした。だってもう学期末なのだ。苦労して探ってみると、立夏は相変わらず大学の講義にも出ていないようだし、そもそもあいつどこに泊まっているのか、それすらも不明のまま。コミュ障ぼっちで日本人の女友達が一人もいない立夏を泊めてくれるとしたら、バンド仲間以外にはないのだが、でもバンド仲間って行ったら、北原たちだぞ。考えたくない。あああ考えたくない。
(まさか、冗談であってくれ)
金曜の夕方、僕はついに決心した。あれほどもう行きたいと思ってなかった三軒茶屋のスタジオで練習している北原たちのところに、顔を出したのだ。用事があるらしく、北原はまだ、到着する前だった。
「うちには来てねっすよ。他のメンバーんとこにもいないんじゃないすかねえ」
チャーハンズの坂本くんの言葉にまず救われた。あろうことか、立夏がバンド仲間の家を泊まり歩いたりなんかしてたら、それこそ僕の監督不行き届きである。完全に僕がギター教えたせいで立夏は不良になってしまった、と言うことになる。お義父さんに、顔向けできない。
「それより冴島さん、この前のライブ来てくれたんですよね。出来、どうだったすか?」
僕は率直にライブ評を話した。あれは立夏がステージ慣れしていないことを差し引いても、中々に『事件』ではあった。
「でしょう。俺たちの間だけじゃなくって周りからもすんげえ反応いいんで、びっくりしちゃいましたよ。さすがは北原さん、音楽に関しては法螺ばっかじゃないから」
「北原!?」
その名前とライブの話を聞いて僕は、最悪の予感に思い当った。そうだ、北原だ。立夏の宿探しに、まず第一に悪魔の誘惑をしてくるだろうこいつを忘れていた。
「北原さんとこですか!?立夏ちゃんが?いやあ、それはないでしょう!」
だが坂本くんはじめ、北原と一緒に練習しているメンバーたちは一様に口を揃えて否定した。
「安心させようと思って言ってるんじゃないですよ。だってなあ、北原さん、あれだもんな?」
坂本くんたちは、目頭で示し合わせて頷く。それで僕も察した。北原のやつめ、まーた彼女に部屋を追い出されたのだ。
「なんかそうみたいっすよ。俺の知り合いの女の子が遊びに行ったら、もう何日か前に荷物まとめて出てったって。実家もそうそう帰れないだろうから、バンド仲間ん家渡り歩いてるんじゃないですか?」
あのホームレスミュージシャンめ。あんな金遣いの荒さじゃ、長くは続かないとは思ってたが、案の定だ。自業自得としか言いようがない。しかしこれで安心した。立夏を引き込もうにも、北原はそもそも宿無しで囲い込むねぐら自体がないと言うのだから。
「あ、でも北原さんと立夏ちゃん、最近二人とも揃って練習来ねえよな?」
ん?ちょっと待って話が怪しくなってきた。
「どう言うこと?」
ま、まさか偶然じゃないよな。
僕に迫られて、坂本くんは困ったように鼻を掻いて、
「いやどうすかね。でもたまーに北原さんだけ来るんですけど、何か立夏ちゃんと一緒に特訓してるようなことをちらちらっと」
と、そこにちょうどスタジオ入りした北原に、僕は無言で詰め寄った。
「ちょっ、ちょ、ちょっと待った!冴島さんっ、暴力はやめましょう!暴力はやばいっすよ!おいみんな、見てないで止めて止めて!」
で、いつものファミレスである。いかにものほほんとした顔で北原がギターケースを担いでスタジオに入ってきたので思わず、殴りかかってしまった。坂本くんたちが皆ですんでで取り押さえなかったら、僕は北原を確実に殴りつけていただろう。まあ、ファミレスに押し込まれた時には僕は冷静になってはいたが。
「弁解を聞いたら、殴ってもいいんだよな?」
じろりと僕は、殴り損ねた北原を睨みつけた。
「殴っていいとは、一言も言ってない。大体殴られると、酒や熱い食べ物が沁みるからな。だからさ、食ってからにしようよ。お前のおごりで」
もはや怒る気力すら湧かない。投げやりに注文した僕に便乗して北原も好き勝手にオーダーしやがったが、もう好きにしろだ。その代り、絶対泥を吐かせてやる。
「まあ見たところ、金はない。それは本当みたいだな」
「ああ、そう言うときは誰にでもたかるのが、俺と言う生き方さ。見ろこれ、ぺらっぺらやぞ」
と、ぺしゃんこになった財布を叩きつける北原。中に一三二五円しか入ってなかった。中学生か。そもそもこれで、女性にアプローチしよう、と言う感性が、さっぱり分からない。
「で?立夏をどこへやったって?」
「待てよ。それ、前提がおかしいじゃないか。まずは俺が、立夏ちゃんを匿ってるって証拠があるのかって言う…」
と、北原が頼んだハンバーグとハーフボトルの赤ワインが到着した。僕は北原より先にそれを受け取ると、奴の手の届かないところへ置いてやった。
「さ、冴島…それはいくらなんでも、やり方が汚いんじゃないのか?」
「こっちとどっちがましだ?」
僕は固く握った拳を突き出してやった。
「分かったよ、分かったって!俺のところにいるよ。もう帰りたくないってさ。とにかく、お前の顔は見たくないから、何とかしろって言うんだ。俺だってさあさすがに、男として?女の子が頼ってきたときは、何とかしなきゃいけないじゃん?」
「とか言って千載一遇のチャンス、とか思ってるんじゃないのか?」
「よく分かったな」
北原は堂々胸を張った。
正直、こいつの話芸は見飽きた。やっぱり一発、殴った方がいいのかも知れない。
「わわっ、とにかく待てっ、冴島。ここでおれを殴っても、一文の得にもならないってばよ!」
反射的にいらっとした僕はおもむろに、振り上げた拳を引っ込めた。
「まあ、殴りはしないよ。それより北原くん、お腹が減ってるだろう。お酒も飲みたいだろう。食べて飲んだらいいじゃん。そのハンバーグもワインも、君が欲しくて頼んだんだろうからさ」
言われて奢られ体質の北原、熱々の鉄板ハンバーグをひとくち食べた。ワインを飲み始めた。
「美味いか?」
「とても美味い」
「それは良かった。これからそのハンバーグとワインの分、お前はこのお店で頭を下げるんだから。警察沙汰にならないといいな。しかし残念だよ、長年の友人が無銭飲食で訴えられる姿を見るのは」
「さっ、冴島お前っ!」
僕はさらに、テーブルから北原が出した財布を引っ手繰った。これでやつは正真正銘の無一文、無銭飲食者だ。
「やり方が汚いぞッ!」
「それはお互いさまだ。本当によく立夏を、巧妙な手段で音楽の道へ引きずり込んでくれたよな?」
「なあ、その点は誤解じゃないか。ようく、考えろ。立夏ちゃんを、おれたちが練習してるスタジオに連れて来たのは、お前だ。バンドをやらせたのも、お前だし、歌詞を書かせたのも、お前じゃないか。つまり音楽の道に立夏ちゃんを引きずり込んだって言うのは、どう見てもお前の責任…」
僕が拳を振り上げたので、北原はひっ、と悲鳴を上げて身構えた。だが僕は、殴らなかった。だって、そんなことをしても仕方がないことくらいは、自分でもよく分かっていたからだ。
「大失敗だ。僕が、お前と、音楽に出逢わせたこと、それ自体が」
北原をこれ以上痛めつけても、立夏が戻ってこないことくらい、身に沁みて分かっている。だが情報を得るためには、なりふりなど構っていられなかった。
「俺と立夏ちゃんが特訓だって?…ああ、そのことね。いわゆる武者修行ってやつで」
「(舌打ち)武者修行?」
いちいち、人をいらっとさせなくては収まらない奴だ。
「おっ、おい、ふざけてないぜ。今、知り合いのツアーに、ゲストとしてちょくちょく参加させてもらってるんだ。立夏ちゃんがもっと、ステージ度胸つけたい、って言うからさ」
と、北原は、インディーズではそれと名の通ったバンドを、三つ四つ、口にする。
「今月は頭に仙台、んで千葉かな。俺が皆が知ってそうなカバー曲、一、二曲弾いて立夏ちゃんと、ステージに出てる。こっちのメンバーに暇が出来たときは呼んで、対バンしたりとかもするんだけど。知ってるとは思うが、こうすりゃ寝る場所くらいは確保出来るしな。運が良きゃ、風呂つきのホテルにも泊まれるわけさ」
それは僕も経験している。知り合いのつてや安ホテルを頼って、地方の小さなライブハウスを回るのだ。にしても、あの立夏が。呆れるより先に、言葉を喪ってしまった。すると北原の目が、油断なく光った。
「ふふん、お前、今、安心したろ。この分じゃ毎晩メンバーと雑魚寝だ。さすがおれでも手も出せそうにないってな」
「自分で言うな」
相手は他人様が眠っている横でも、追っかけの女の子と不埒な行為に及んだことを酒飲み話にするような男である。
「誓って手は出してないから、心配するな。俺はじっくり煮込んで貝殻が開くのを待つタイプだ」
「お前を強火で煮込んでやろうか?」
ほとんど本気で、僕は言ってやった。
「今度うち、ちょうど圧力鍋買おうと思ってたんだ」
骨までとろとろになるだろう。だが北原の煮込みなんて、犬だって避けて通る。
「なんでそんな殺気立つかなあ、立夏ちゃんの消息を報せてやってるのに」
「立夏を家出させた張本人が言うか」
それでも北原は鼻を鳴らして、減らず口を叩いてくる。
「立夏ちゃんに聞いてみろよ。主要原因は俺じゃない。お前、だろ?」
僕が言葉に詰まりかけたのをみて、北原は満足そうに頷くと、
「いきなり怒ってみたり、テンション下がったり、人のせいにしたり。相変わらずめんどいなあ。女子か?これでHカップの黒髪女子大生だったら、抱きしめちゃうところだぜ?」
とか言いつつ、北原は興味深そうにファミレスのスウィッチをいじくっている窓際の席の女子大生っぽい女の子にしきりに色目を使う。
「表へ出ろ」
立ち上がりかけた僕の前に、北原は一枚、チケットを差し出す。
「千葉だ。来週水曜ワンナイト、これっきりだ。これ逃したら後悔するぜ。次に立夏ちゃんみたけりゃ、後は名古屋だがもうこっちはソールドアウトなんだからな」
「まさか…」
嘘だろ?思わず言い返したが、北原は、笑わなかった。
「俺の目に狂いはない。もう火は、ついちまってるのさ」
オケのバンド演奏をバックに、北原と立夏だけが生楽器で歌っている。曲はヒットチャートの曲だったり、誰もが知っているロックピースだったりしたが、なんだこの動画の再生回数。恐ろしい数字になっていた。
他にもだ。『北原くんが連れて来た子』『北原光成と歌う女性ボーカル激カワww』『歌スゲ北原光成のバンドのボーカル萌え』…と、まだまだ北原の名前が先に出ているものの、立夏は急速に認知度を高めていたのだ。そしてやっぱり、最大のインパクトを残したのは、僕が藤谷さんと立ち会った、下北沢での飛び入りライブだった。
あの日に撮影していた人がいたらしく、プレイした三曲はそれぞれ、タイトルをつけられて紹介されていた。もちろん誰もが知ってるカバー曲に比べれば、まだまだ反応は小さいが、僕が肌で感じた、『事件』と言う言葉を同じように使っている人がちらほらいたのには、正直、驚いた。
僕はいつしか、あの夜、最後に聞いたあの曲を、何度もリプレイしていた。
立夏が自分自身のことを、訴えるように書いてきた『MARGINAL SAVAGE』。立夏があれを僕に持ってきたときの少し不貞腐れた表情を、思い出していた。
「何を言っても、嘘みたい。あなたといると、口が利けない野蛮人になった気がする」
立夏が書いた英詞は、そう訴えていた。僕がそれを日本語に意訳したとき、その気持ちが一番前に出てきたような気がした。
本当は知っている。伝えたい、気持ちがある。でもその気持ちの間をうろうろしてしまう。確かにそこにあるのに、吐き出すための言葉がない。
今、踏み出すべき場所がある。でも、あなたは前に進めない。本当に択ぶべきことを、知っているから。でもわたしは、伝えられない。それはあなたと、わたしでしか択べない道なのに。
(自分がいじった詞だ)
隅々まで憶えているのは、そのせいに過ぎない。あっさりと僕は、要らない言葉を削っていって整えただけだと思っていた。でも徐々に最初から分かっていたような気がしてきた。これは立夏が訴えることの中から、紛れもなく僕自身が選び出してきた言葉だった。
水曜日になった。早めに授業を切り上げた僕は、千葉までの切符を買っていた。改札を通るまでの口実は、立夏に来週、お義父さんが来日すると言うことを告げるためだった。
(もうすっかり、秋だな…)
今年は中々涼しくならなかったが、街の中の桜の葉は落ち、銀杏がすっかり色づき始めている。同じくらいいつまでも暑苦しかった立夏と北原のお蔭で時間を忘れてしまったが、僕の中の時計の針は、きっちりと前へ進んでいる。
立夏がいなくなったのと前後して、九月の試験に僕は合格していた。そのときは独りで集中できて納得いく結果を残せたと思ったし、合格したときはなりに嬉しかったはずだ。
「でも、本当に嬉しい?」
最初に僕の変化に気づいたのは、藤谷さんだった。合格のお祝いと、この前のお詫びを兼ねて(これはオフレコだが)創作パスタの店でご馳走してくれたのだが、そのとき藤谷さんは、真っ先に僕に言ったのだ。
「そりゃ嬉しいですよ。この前落ちてるし、親に迷惑かけてますし」
「そうだよね。でも、浮かない顔してたよ。あ…もしかして、この前の義理の妹さんのことで?」
思わず口を突いてこぼしてから、はっとした顔を藤谷さんはした。
「ごめんね。立ち入ったこと、聞いちゃったかな」
「いいですよ。あいつはあいつで、好き勝手やってますから。今、別になんとも思ってませんし」
そう、とどこか寂しそうな笑みを浮かべると、藤谷さんは、僕にスマホの動画をみせてきた。あの夜の立夏のライブ映像だ。
「これ、その義理の妹さんでしょ?」
「ええ、今、バンドの連中と一緒にずっといるみたいですね」
これだけ動画が拡散してしまっているのだ。今さら、隠しても仕方がない。気が付くと北原との関係についても、僕は藤谷さんにあらかた話してしまっていたのだ。
「だったら、すごかったんじゃん。冴島くん、今でもプロ目指そうとか、そう言うことは考えないんだね?」
「ミュージシャンなんかで食っていこうとは、思いません。僕は、そう言うやくざな商売は向かないたちですから」
「学者もやくざな商売なんだけどなあ。この前、話したでしょ?」
藤谷さんは一緒に動画を眺めている僕を見ると、スマホの中で歌う立夏を指さした。
「この子をバンドに誘ったのは、本当に北原くん?」
「そうみたいですね」
僕は、他人事のように答えていた。藤谷さんは、それを見てなぜかため息を吐くと、軽く肩をすくめた。
「冴島くん、これからすごく忙しくなるよ?」
ふいに藤谷さんは、話題を替えた。
「院生って、助手の助手だから。学会の準備もそうだけど、教授のために授業の準備やら、研究の資料集めやら。うちの先生は人使い粗いから、合格したからには覚悟しなよ」
「ええ」
それは、ここへ入る前から覚悟していたことだ。
「で、もう一つ言うとそれでも研究室に残れるのは、限られた人だけだから。教授に尽くして徹夜繰り返して、それでも選ばれない人もいるし、わたしみたいになっても、毎日毎日、地方まで出張しなきゃ食べて行けない」
藤谷さんは僕から離れると、地鶏と九条ネギのパスタをひとくち啜った。
「それでもわたしは、この仕事が好きなんだ。将来こうしたい、って希望があるからだけじゃない。そりゃ嫌になることもあるけど、毎日はそれなりに充実してるの」
覚悟を試すように藤谷さんは、僕を見た。そして言った。
「本当に好きなことしか、人は続けられないんだからね?」
秋が更けた千葉駅は、冷たい風が吹いていた。辺りは都内より昭和で、猥雑な街だ。ここへ来ると、路上にアンプを持ち出して、エレキギターで爆音奏でてる連中も普通にいたりする。会場があるのは、栄町だ。巨大なソープランドのビルやファッションヘルスの看板、ラブホテルが鎮座する風俗街のど真ん中だった。
会場は、二、三十人来れば満杯になってしまう。それが開演一時間ほど前から、いるわ、いるわ。入りきれないほどの人の列だ。
北原は、MARGINAL DIVA名義でのミニアルバム制作を発表した。自分が今、参加しているそこそこ雑誌にもとり上げられるインディーズバンドの制作発表に合わせたのだが、反響はむしろこっちの方が大きそうだ。
通好みの北原のファンもちらほらいたが、大方の客は立夏が目当てのようだ。物販もかなりはけているらしい。売り切れのままの商品が、すでにあった。
時間通り開演、これがまたぎゅうぎゅう詰めの超満員だった。小さい箱とは言え、詰めかけるお客さんに勢いがあると、ライブの熱気は悠に限界を突破する。全体の構成は、武者修行ツアーでかなりこなれてきた三曲を中心に、北原が書いた曲のカバーなども入れるが、未発表の新曲もどんどん演奏する。
立夏のステージングは、長足の進歩を見ていた。相変わらずのコミュ障キャラはMCで隠しえないが、歌は一曲のへたりもなく、迫力はバンド演奏に負けていない。北原は新曲で容赦なく、立夏を鍛えるつもりなのだろう。キーの難しい曲や、声量のいるサウンドの曲がいくつもあった。
客の目は、立夏中心になりつつあった。もちろんどこか珍獣扱い、と言うか、プロのバンドに馴染みかけの、でも美少女、と言うギャップが妙に受けているのか。
その立夏がアコギ一本の弾き語りで、自作の曲を披露したのが今夜のサプライズだった。ごく単純な構成の曲だったが、立夏自身で書いたと言う、英詞のリフレインが耳に残った。ザ・ローリング・ストーンズの『無情の世界』のもじりに過ぎない、とも思ったが、本当は違った。立夏はこう歌っていた。
「自分が本当に欲しいものしか、あなたの手には入らない」
終演後、僕は立夏に会えた。すでに出待ちも出ているほどだったが、立夏を含むメンバーは密かに、富士見町にある居酒屋に移動したのだ。
「なあなあ!打ち上げ来ないのかよう、冴島ア!水臭えやア!お金持ちの旦那はよオ」
うざいほどに居酒屋の前で僕の袖を引っ張る北原が、僕の財布目当てなのは、分かっていた。会費は五千円ほどだったが、付き合うもんか。その代り僕は財布から万札を引き抜いて立夏に手渡した。立夏は僕を睨みつけたが、やがておずおずとそれを受け取った。
「怒らないのか?」
立夏が上目づかいで聞いた第一声がそれだった。僕は、言下に首を振った。
「怒ってたのは、お前の方じゃないのか?」
「そ、そうだ!…(今さら思いついたみたいに、立夏は頷いた)ぼ、僕はっ…貴教なんかとは縁を切ったんだ!なんで会いに来た!?」
僕は来週、立夏の父親が会いに来る日程を告げた。やっぱり立夏は、知らなかった。
「伝言残したけど、答えがなかったって言ってたぞ」
「うるさいな!そんなことより、わざわざ観に来たんだから、ちょっとはましなこと言ったらどうなんだ?どうせ、北原に来いって言われたんだろうけど!」
「良かったよ」
僕は素直に、言ったつもりだった。立夏はどこか拍子抜けした顔をした。
「でも北原にどこまでついてくかは、自分で考えた方がいい。これは僕が立夏の義理の兄だから言うんじゃないからな。その意味、分かるよな?」
立夏は僕を見ると、軽く唇を噛んだ。
「つまりさ、貴教は、北原とやっていく気がなかったってことだろ?」
「北原は関係ないよ」
でも僕自身が、今の状態でやっていける気がしなかった。だから辞めたのだ。
「だったら他の誰かとは?」
ふいに、突きさすように反問してきた立夏に僕は、一瞬返す言葉を喪った。その他の誰かとは、と言う言葉が仄めかす、言いきれなかったことに僕は気づいていたからだ。案の定立夏は、そんな僕にはっとした顔をすると目を背けた。
「帰れば?べっ、別にバンドのメンバーじゃないんだから、打ち上げ、出るつもりないんだろ?」
「うん、とにかく、来週は顔出せよ」
「うるさいなっ」
立夏は子供みたいに頬を膨らませると、ぷいっと顔自体を背けた。
「…僕は貴教が一番好きなことを、教えてもらったんだと思ってたのに」
棄てるように言った、その台詞だけが僕の耳に、いつまでも残った。
「本当に好きなことしか、人は続けられないんだからね?」
藤谷さんが念を押すように言った言葉が、胸を突いていた。僕は一度、好きなことを諦めた。でもそれは、新しい好きなことを見つけたからじゃなかった。
「自分が本当に欲しいものしか、あなたの手には入らない」
家に帰っても、立夏の歌詞が耳に響いていた。僕が、本当にしたいと思っていたことは、結局なんだったんだろう?