PHASE.4
僕は果たしてどうして、バンドを辞めたのか。
正直それは、北原がでっち上げたようなドラマみたいな理由なら、これほど悩んだりはしないだろう。問題はシンプルなのだ。ただ、僕には生まれつき、物事への情熱や執着心が薄い。それに尽きる。
つまり突き詰めると、なんとなく。僕はバンドを、辞めたのだ。
素直に認める。確かに、バンドは楽しい。でも僕はその居心地の良さに浸ってきただけだったのだとある日、気づいてしまった。それだけじゃなく僕はただ、自分が当然の流れだ、と言うものに無批判に従ってきた。生まれつき、そう言う性格なのだ。
例えばベースを弾き始めたのも、ギターの上手い北原とバンドをするのには当然の流れだから、必要に応じてパートを変えただけで、楽器にこだわりはなかった。歌詞を書き始めたのも、ヴォーカルのパートを務めたのも、北原に引っ張られて、何となくそうしていただけだ。
僕に僕自身で表現したことなんて、実は何もなかったのだ。
にも拘らずのフロントマンだ。ヴォーカルで作詞もして、などと普通はかなりの前に出たがりしか務まらないのだが、僕はそれを何となくやってしまった。たぶん、並んで同じステージに立てば、僕より北原の方が圧倒的に目立ったからだ。
そもそも、北原とバンドをやるには、あいつと並び立たないメンバーでなくてはいけない。本人の前では絶対言いたくないが、北原は紛れもない天才なのだ。あいつがもう少し文才があって、人間が出来ていて歌が上手かったら、今頃一人で活動していたし、スターとして注目されていただろう。僕には言わないが、実際、具体的なオファーだってなくもなかったはずだ。つまりは僕は、そのニッチな需要にたまたまハマっていたに過ぎない。僕の音楽人生の最大の不幸は、ある日突然、自分はただ、それだけに過ぎないのだ、と言うことに自ら気づいてしまったことだ。
曲が完成に近づいたのか、立夏はほとんど毎日、外へ出るようになった。スタジオでの練習はもちろん、バンドのメンバーと待ち合わせてカラオケで音合わせをしたり、出来る限りのことをしているようだ。みるみる僕の手を離れていく。
でもとりあえず、誰の目から見てもすでに引きこもりではない。それは喜ばしいことだ。話も活発になって、以前とは別人に思えるときすらある。
しかし心配事の種は尽きないものだ。
「うっ、うっ」
と、ある日、変なうめき声がするので、僕が部屋に行くと立夏がミノムシのように縮こまっていた。思わず声が上擦った。
「なっ、何やってんだ真夜中に!?」
「見れば分かるだろ」
両手を頭にやった姿勢のまま、立夏は唇を尖らせた。確かに見た目で、一目瞭然ではある。ジャージ姿だし。なんと立夏は、腹筋運動に勤しんでいたのだ。もう、零時を回っているってのに。
「ステージを想定して、ちょっと広いところで歌う機会があったんだよ」
それを聞いて僕は、一発で事情を解した。立夏はバンドでステージに立つ練習をしたら、今の自分の声量に限界を感じたのだ。
「広いところで皆に向かって歌うのって、難しいよなあ。楽器の音に負けないように声張ったら、裏返っちゃうし、何曲も歌ったらへたってくるし」
「ステージで歌う気なのか」
僕がずばり聞くと、立夏は目を丸くしてからうつむいた。
「北原に乗せられてるんだったら、よく考えた方がいいぞ。お客さん呼んだら、途中でやめられないぞ。お前が急にみんなの前が恥ずかしくなって、歌うの嫌になったって、誰も助けてくれないんだからな」
「う、うるさいな。別にいいだろ、ただの練習なんだから」
むきになって言い返してから、立夏は急に声のトーンを落としてうつむいた。
「…そっちだってもう、静かに勉強できるだろ。家の中で練習しなくたって、もう済むようになったんだから」
「あのなあ、そんな問題で俺は言ってるんじゃないんだぞ」
「じゃあ貴教はさ、結局ボクをどうしたいわけ?」
その時だ。立夏が遮るように、僕に声を上げた。
「どうして、ボクにギターを教えようと思ったの?ボクが日本語苦手で、引きこもってるだけだったら、他に方法あったろ?でもなんで音楽だったんだよ?」
「それは」
僕は、思わず言いよどんだ。立夏はしばらく、僕の言葉を待ったが、僕がそれを言い出さないのを見ると、途端に表情を硬くして、
「ともかく迷惑掛けないから、そっとしといてくれよ。貴教は貴教で、今はやりたいことがあるんだろ。だったらさ、もうボクになんか構わないで、そっちに集中したらいいんじゃないか?」
「なんだよその言い方」
正直、僕は少しむきに言ったが、立夏は売り言葉に乗りはしない。
「そっちが言い出したんだろ」
と、これ以上言い合いをする気もないらしく、黙々と腹筋運動を再開した。
「つまんない勉強」
去り際、立夏がぽつりと吐き棄てた独り言が、やけに僕の耳に残った。
「で?そんなわけで、冴島はついに研究室を電撃脱退して、俺たちのバンドに加入したい、と、こう言うことか」
「お前、全然話聞いてなかっただろ」
元凶はのほほんとして、いつものファミレスに来やがった。頭きた。
「あ、俺、このリブロースステーキのセット。後、ワイン、ハーフボトルで。赤ね」
「昼からファミレスで酒を頼むな」
「いいじゃないか、メニューにあるんだし。それに、俺の金だ」
北原はジーンズから裸の一万円札を放り出すと、片目をつむってみせた。
新しい金づるを見つけたのだ、このヒモめ。
「そんなことはどうでもいいよ。俺が聞きたいのは別のことだ」
「あん?」
すっとぼけて目を丸くする北原に、僕はまくしたててやった。
「立夏を本当にステージに上げる気か?この前までコミュ障で引きこもりで、コンパに行ったら、涙目で帰ってくるような奴だぞ?そんなあいつに、人前で演奏が務まると思うのか?」
北原は首を傾げると、黙ってやがった。僕は構わず続けた。
「とぼけるなよ。しかもフロントマンだ!?お前だって分かるだろ。お前たちをバックバンドにして、まともに一曲、演奏が出来るかどうかぐらいは!」
「一曲くらいだったら、出来るだろ。あの曲、『MARGINAL SAVAGE』はもう、立派な完成品だからな。他ならぬお前のお蔭で、な」
最後の皮肉を強調すると、北原はマルボロの箱から煙草を取り出し、火を点けようとした。
「大体さあ、今さら言われても困るなあ。あれはもう新しいバンドのテーマ曲だし、お前だって曲作りに参加したんだし。つーかもうライブもブッキングしてるんだよ。知り合いに頼んで今度、ライブの前座にちょこっとだけ、プレイさせてもらうつもりなんだから」
「それはお前らが勝手にやりゃいいじゃないか」
僕は火が点く前に煙草を奪ってやった。この席は禁煙だ。何度もここで会ってるはずなのだが、北原はまるで意識したことがない。
「それは無理だ。あの曲は完成品、って言ったろ。立夏ちゃんが歌うから、それで完成品なんだってば」
「ふざけんな」
「ふざけちゃいないさ。至って本気だ。歌うのはお前じゃない、あの子だろ。本人の諒解も得ている。何か問題あるか?」
「お前、本当はそれが狙いだったんだな?」
「えぇっ?何のことかなあ?」
僕は思いきり、北原を睨みつけてやった。昔なら、胸倉を掴むところだ。でもこんな奴に感情をぶつけてもしょうがないってことは、バンド時代の経験から痛いほど分かっている。
「立夏は、自分のことなんか何にも分かっちゃいないんだ」
「ほっほう。大きく出たね。こいつは驚いた」
北原は露骨に目を丸くすると、唇を尖らせた。
「ついこの間まで他人だったお兄さんは、一緒に住んでるから立夏ちゃんのことなら、隅から隅までご存知ってわけだ」
「皮肉や当て擦りは、うんざりだ。お前だって分かってるだろ。立夏はバンドをステージに上がることなんか、想像もついてない。そう言う自分のことが、分かってないの、お前にだって分かってるはずだろ?」
「へえ、知らなかったなあ。この世には初めから、自分のことがすっかり分かる偉いお方がいらっしゃるんだ。でもさそれ、お前みたいに、何にもやってないうちから、分かったふりしないで、なんだろうなあ?」
「北原、お前いい加減にしろ」
僕は北原を睨みつけてやった。今の台詞は僕がバンドを辞める、と言ったときに北原が投げつけた捨て台詞だ。その話はもう、僕たちの間ではとっくに終わったことで、合意したはずだった。
「俺は納得したつもりはないぜ。ただ、譲歩したんだ。お前がもう一度物事を整理して、きちんと考えられるようになるまでな」
と、ワインとステーキが到着した。それに、頼んだ覚えがないクラブサンドとアイスコーヒーがくっつている。席を立ち上がりかけた僕に向かって、北原はあごをしゃくった。
「たまには奢るぜ。こんなことは滅多にないんだ。いいか、聞けよ。戻ったってどうせ、立夏ちゃんと喧嘩するだけだ。もう少し頭を冷やして俺と話した方が、絶対得だ。とりあえず無駄に俺以外の誰かを傷つけなくては済む」
「正気か?お前となんかもっと、する話なんかないぞ」
「そう熱くなるなよ。俺はな、お前と喧嘩するつもりなんか最初からない。その調子で行くと、立夏ちゃんかわいそうだぞ。いいから座れって」
言われる前に僕は自分が、大分熱くなっていたことに気づいていた。人間のチューニングが狂っている北原と話していると、こっちまで調子が変になってくる。せっかく組み上げた積み木を、足元から抜かれているような嫌な気分だ。
「もうバンドはしないからな」
とにかく冷静になろうと思って僕は言った。ワインをボトルでがぶ飲みしながら北原はその様子を満足げに観察すると、バザールのインチキ商人みたいに手を振った。
「そんなことは話してない。話すつもりもない」
「立夏だって、お前の好きにはさせないぞ」
「分かった、分かったって。とりえあずそろそろ、そこに座ったら」
僕はついに座ることにした。すると北原はぬけぬけと聞いてきた。
「じゃあ、バンド以外で何の話をしようか?」
「ふざけんな」
「ふざけてないさ。そうだな、じゃあ、この前の質問に答えてもらおう」
北原は、黒板に命題を書きつけた数学教授みたいに言った。
ロックはどうやって生まれたのか?
「またその話か」
「またってことはないだろ。お前には、宿題を出したつもりだったんだ」
僕は胸糞悪いクラブサンドに噛みつくと、これ見よがしにため息をついてやった。
「この前の答えは、落第だってことか?」
「ミュージシャンとしてはな。零点もいいとこだ」
「俺はミュージシャンじゃない、って何度言ったら分かるんだ?」
「落ち着けよ。じゃあ、一つ賭けをしようじゃないか。お前が俺が思ってる答えを出したら、立夏ちゃんがバンドを諦めるように計らってやる」
「…お前が解答を操作しないって言うなら、受けて立ってやるよ」
「人聞き悪いなあ。分かってるくせに。俺の答えは昔からただ一つじゃないか」
グラスビール。を声高らかに注文してから、北原は言った。
「じゃあ、もう一回答えてもらおうか。ロックはどうやって生まれたのか?」
赤身肉を切り分けながら、北原は悠々と答えを待ち受けている。にやにやしやがって、どうせこいつにだって、答えなんてありゃしないのだ。何かまた、魂胆があってやってるに違いないのだ。その罠に、みすみすハマるのは癪だが、売り言葉に買い言葉で勝負は受けてしまっている。
「分かったよ。ミュージシャンとして答えればいいんだろ?」
「ああ、さっさとやってくれ。俺は余計な頭を使わず、久々の牛肉が喰いたいんだ」
「じゃあ、話は簡単だ」
舌打ちを堪えつつ、僕はその答えを口にした。
「テクノロジーだ」
「テクノロジーだあ?」
ビールが先に来た。北原はそれをせわしなくがぶ飲みし肉を頬張りながら、わざとらしく声を上げた。
「具体的に言うと、音響技術の飛躍的発展。二十世紀初頭に発明されたエレクトロニクスの恩恵を受けて爆発的に誕生したのが、ロックンロールだった」
「ぶち上げるじゃないか。でもその理屈、無理がないか?戦前から電気はあったんだ。ジャズやブルースのミュージシャンだってアンプを使った楽器を演奏してたし、レコードだって出してたぞ」
「それは音量の問題だ。僕が言っているのは『音質』の話だよ。電気楽器の普及によって、楽器は、生の音ばかりを出すものじゃなくなった。エレクトロニクスのテクノロジーの発展の申し子が、まさにロックンロールだった」
何万人にも楽器の音色を届かせるPAやアンプ、レコーディング技術の発展は、音楽に不可欠とも言える『楽器』の音色にも、大変革をもたらした。
「その象徴的なものが、なんと言ってもギターだ。お前に話すのも癪だが、黄金期のロックバンドは皆、個性的なギタリストが看板だ。その誰もが独自のフレーズばかりでなく、ギターの音にすら強い個性を持っていた」
エレキギターの音色に影響を及ぼしたのは、エフェクターと言う『音を歪ませる』機械だった。
「本来、電気楽器にとって、生音を歪ませる『ノイズ』の存在は、技術的にも排除すべき宿敵だった。しかしロックを志したミュージシャンたちは、それを逆手に取ることでバンドサウンドにオリジナリティを産み出すことに成功した」
その代表的なものは何と言っても、クリームのエリック・クラプトンだ。
ギターの神様とまで言われたこの男は、五七年モデルからレスポールのボディに搭載された、ハムバッカー・ピックアップとマーシャルアンプを組み合わせると、ギターの音が今までにないくらいのノイズとサステイン(音の伸び)の効いた、パワフルなサウンドになることを発見した。
これがロックンロールが、他の音楽に抜きんでてテクノロジーを最大の味方につけた瞬間と言える。
「クラプトンの時代から七〇年代いっぱいまではそうした、実験的なテクノロジーと音楽の融合を追及するバンドやミュージシャンたちの全盛期だったんだ。迫力あるレスポールサウンドをさらに一歩進めたレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ、ファズと言うエフェクターで唯一無二のサウンドを築いたジミ・ヘンドリックスが二大巨頭と言えるが、音を聞いただけでそれと判るギタリストが、この時代にはごまんと出た。こうして気づけば、ロックンロールとエレクトロニクスは切っても切れない存在になっていたのさ」
以降、八○年代、九○年代のギターヒーロー時代に至るまで、オリジナルの奏法と音質をものにしたギタリストは、数えるのもうんざりするほどだ。
「つまりは?エフェクター発明した奴が偉いって話かい?」
「それはギターの世界についての話だけだろ。もっとすごい奴らを忘れてる」
僕は北原の話を打ち切ると、話を続けた。
「確かにテクノロジーの発達によって音楽には、革命が起こった。その直系の申し子で立役者がロックンロールであり、ロックギターはその主役だったことは間違いない。しかし、もっと重要なことがある。
実はそのテクノロジーを味方につけることを、全く別の側面から究めた連中がいる。バンドサウンドをテクノロジーでいじることの、さらに上をいったんだ。結果、彼らはレコードのスタジオ録音はステージの魅力に劣る、と言う事実を根底から覆してしまった」
言うまでもなく、それがビートルズだ。
「奴らは、エレクトリックサウンドを追及するばかりでなく、それを録音するオーディオ技術で遊びつくした」
別々に録音した音をつなぎ合わせたり、逆回転した音をバックに使ったり。ステージの生演奏では出来ない不思議な音響を、ビートルズはアルバムと言う形にして残らず封じ込めたのだ。
驚くことにデジタルで音源が管理、編集できる時代には常識になってしまったことを、ビートルズはオープンリールデッキの時代にすでに追及していたのである。
「結果、スタジオ録音を収めたアルバムは、ステージの音楽から離れてミュージシャンたちの一個の『作品』になったんだ」
くわえてレコードの表紙を彩るアートワークの多様化、収録曲の長時間化。例えばそれらは一枚丸ごと一つの楽曲にしてしまうコンセプトアルバムなどを産み出し、アルバムと言う音楽の発表形態を一つの独立した音楽文化にした、と言っても過言ではない。
現代においては音楽のデジタル配信でどうしても個別の一曲だけがクローズアップされる形になるが、一発で耳触りのいいキラーチューンばかりでなく、じっくりと聴きこめるアルバムは、創作を続けるバンドにとって一つの顔になりえる。
「アルバムはまるで一冊の本と言ってもいい。お蔭でビートルズの音楽は海を渡って全世界を席巻できたんだ。何しろ演奏したことのない地域にまで、その歌と顔が知れ渡ってしまうと言う大快挙は、ロックアルバムの成立なくしては為しえなかった」
「アルバムは一冊の本…か。確かにそうだな。全盛期、ジョン・レノンはこんな発言をして、ひんしゅくを買ったことがあるらしいな。『俺たちは今や、キリストよりも有名人だ』」
北原は口の中の牛肉を飲み下すと、うがい薬を飲むみたいにワインを飲み干した。
「そして俺の楽器も電気がないと、うんともすんとも言わない。ロックバンドは停電に弱い。電気がなきゃ、迷子の野良犬みたいになっちゃう、と」
「正解なら正解、って素直に言えよ。こっちはお前と、そんな議論したくて、話してるわけじゃないんだ」
僕が皮肉を刺すと、北原はフォークとナイフを置いて、大仰に拍手の雨を浴びせかけてきやがった。
「ご高説ありがとう。実に素晴らしかったよ。だが残念、堂々の不正解だ」
やっぱりだ。こいつにはなからそんなつもりはないのだ。僕は、腹立たしげにため息をついた。
「言うと思ったよ。下らない。わざわざ、茶番に付き合ってやったんだ。せめて俺が、立夏を思いとどまらせる邪魔くらいは、しないでいてくれるんだろうな?」
「義理の兄妹デスマッチを含め、ケンカするのは、自由だ。止めないさ。だけどなあ、お前に立夏ちゃんのやりたいことを止める権利があるのかどうか、よく考えてみるんだな?」
北原は自分の胸に拳をあてると、じろりと僕を睨み上げた。北原にしてはそれは、いつになく、真面目で意味ありげな口ぶりだった。
「どう言うつもりだよそれ」
北原は何も応えなかった。その代り、とでも言うようにジーンズのポケットから一枚だけ、くしゃくしゃのチケットを取り出すと僕の前に置いた。
「残念賞だ。極秘情報を漏らしてやろう。今度下北沢でチャーハンズが対バン張るときに、俺たちも飛び入りで三曲、やらせてもらうことになってる」
「立夏が歌うのか?」
当たり前だろう、とでも言うように北原は肩をすくめると、大儀そうに立ち上がった。
「トイレだぞ。俺はここでかっこよく去るわけじゃない。全然、普通に戻ってくる。そこに残ってる肉に一切れでも手を出したら、俺はお前を一生許さない」
どう考えてもかっこよくない捨て台詞を吐いて、北原はいなくなった。
そこで雨が、しとしと降り出していることに僕は、初めて気がついた。確かにそうだ。自分に立夏のやりたいことを止めるようなそんな資格は、あるんだろうか。あの北原なんかの言葉が、胸に響いて離れなかった。
ちょうどライブのある次の週の土曜日は、バイトもゼミ会もなく、スケジュールが空いていた。僕の予定を、事前に調べ上げたかのようだ。立夏は今日も部屋にいない。あわただしくしているのは、ライブが近いせいだとようやく分かった。僕に水を差されるのが嫌なのか、最近は顔を合わせるのも避けられているようだった。
話をしたのは、金曜日の晩ご飯のときだ。
「明日は暇なんだよな?」
立夏は確認するように尋ねてきた。僕が北原からチケットをもらったことを、立夏は知っているに違いなかった。僕はそうだな、予定はないかな、と曖昧に答えた。
土曜日の朝は、一緒にご飯も食べなかった。遅い休日の朝、起きるとすでに流しに洗った食器がまとめて置かれているだけだった。立夏はもう部屋にはいない。コンロの上に放置された鍋に、立夏が開けたじゃがいもの白いスープが、冷えて固まっているだけだ。
ああ見えて北原はリハーサルを含めた段取りは、延々と綿密にやる。今頃、絞られているところだろう。
薄暗い部屋で雨の音だけを聞きながら、僕は日中を独りで過ごした。
当たり前のことだが、立夏は戻って来なかった。
僕は朝から知っていた事実を今確認したかのように、午後五時を回る台所の時計の針を見ていた。僕はため息をつくと、シャワーを浴びて出かける支度を始めた。
はっきりしない雨が上がって夕方は、落ちる陽の気配を感じた。急なにわか雨の孕んだ黒い雲が、濃いオレンジ色に染まっていた。空気がまるで動かないのが分かるほど、蒸し暑い夕暮れだった。あわただしく家に帰る人たちの群れの中を電車に揺られて僕は下北沢を目指す。それでもまだ家に帰ってこない家族を迎えに行くような、そんな気持ちでいた。
ライブハウスの所在は、調べなくても分かる。駅からそれほど遠くない雑居ビルの一階、満員で五十名ほどの小さな箱だ。昭和時代から張り替えていないような剥げかけたタイルの外壁に、無遠慮に粗末なフライヤーが貼られている。北原がここのオーナーと親しいのだ。そう言えば何度も、ここに連れて行かれた気がする。
入口には開場待ちのファンが、まばらな列を成している。実はチャーハンズ、意外な人気らしい。前の二人の女の子がファンらしく、楽しそうにバンドの話をしていた。立夏たちはたぶん、頭に出るのだろう。マニアックな音楽ファンは殊の外、自分の好みにうるさい。ことによると、出だしは入らない客が多くて見やすいかも知れない。
まだ午後六時まで間がある。軽く何か腹に入れておいてもいいかも知れない。もちろん、楽屋には顔を出すつもりはない。しかし、久しぶりのライブだ。僕は思ったより、自分が浮足立っていることに気づいた。こう言うの、身体が覚えているのだ。
「こおら不良学生!」
小さくため息をついたところで、ばん、と背中を叩かれてびっくりした。振り向くと、藤谷さんがいたのだ。予想外の事態に僕は唖然として、思わず返す言葉を喪った。
「やっぱ冴島くんだと思ったあ。バンドやってたんだっけ?チャーハンズ好きなの?」
「えっ、ええ、まあ」
さすがに焦った。まさかこんなところで見ても、美人過ぎる助手である。
「チャーハンズの坂本くんね、わたしの高校の後輩なの。後で楽屋に顔出してみようかと思うんだけど来る?」
意外なつながりがきた。誰かが仕組んだわけでもなく、こう言う偶然な出会いが案外、あるからライブハウスのコンサートは侮れない。そして藤谷さんと楽屋なんかに顔を出したら、えらい騒ぎになる。
「い、いや自分そう言うのはちょっと苦手なので」
僕があわてて固辞すると、藤谷さんは不思議そうな顔をしたが、
「あ、そうか。冴島くんもバンドやってたんだよねえ」
「ええ。だからあんまり、知り合いに会いたくないんですよ」
ふとこんなとき、立夏や北原が通りかかったらどうしようかと思って、僕はそわそわ辺りを見回してしまった。
「ふーん。でもさあ、冴島くんもこういうとこで演奏してたんだよね。その頃、観に行けば良かったかなあ」
藤谷さんは、列の向こうを眺めながらぼやいた。普段の知り合いにこう言うところで会うと何だか居たたまれない。にしても、バンド時代を知られてなくて良かった。
ちなみに藤谷さん、なんと一人だった。ジャケットの下はマニアックな海外バンドのシャツ、細い足に履き古しっぽいダメージジーンズだ。意外やロック姉ちゃんが板についている。
「言ってなかったっけ?わたしね、結構こう言うの好きなんだよ。研究者ってストレス溜まるじゃん。こう言うとこで滅茶苦茶叫ぶのって、なんか気持ちいいでしょ?」
「は、はあ」
藤谷さんがストレス解消になると言うのはもっともだが、まさかこんな感じな人だとは、夢にも思わなかった。
「とりあえずまだ開演前だし、何か食べに行こうか。わたし一人ならコンビニで済ませようと思ったけど、どこかいいお店ないかな?」
と、スマホを検索する藤谷さん。このそつなさといい、ライブ慣れしてるのが、よく分かる。財政学にもロック。何か複雑な気分だった。
それにしてもだ。
(立夏のやつ、大丈夫かな)
北原のことだから、観れる風には仕上げてあると思うが、初めてのステージって何が起こるか分からない。それでなくても元々、人前における立夏の精神状態はぎりぎりなのだ。ある意味、予測不能のライブになることは十分あり得る。
陽が落ちきってきた開演前、入口には人だかりが出来始めている。
「もう、始まってるみたいだね」
藤谷さんといそいそと入口に行こうとして、僕は目を見張った。中はなんと、もうすでに満員に近かったからだ。
まばゆいバックライトが降り注ぐステージで、北原がギターを爪弾いている。出てきただけで歓声だ。北原はちょっとだけ手を振ると、音合わせのふりでちょっと小難しいパッセージなんかを弾きやがる。ああやって女を引っかけるのだ。しかし上手いのは上手いから、誰も文句は言わない。こんな小さな箱だと、硬い弦が擦れるその感触まで分かってしまうようにすら感じる。
「おっと。違う靴を履いてきちまった」
もうパフォーマンスに入っているらしい。北原は、足元を見ると、わざとらしい口調で言った。歓声が上がる。やはり北原のバンドのファンなどが、噂を聞いて駆けつけているのだろう。
「よう、皆。こんな感じで。今日は違うバンドだったりするんだけどいいかな?」
女の子の黄色い歓声がまとめて上がる。こんちくしょう。ワンドリンクなので、藤谷さんが飲み物を持ってきてくれた。北原を知っているのか、声を張る藤谷さんも目が輝いている。
そこに立夏が登場する。眩しそうにライトに顔を歪め、赤いペイントのギターを首から下げた立夏は、完全に普段着だ。薄いデニムの下は、生地の薄いTシャツ、足元はひらひらのスカートだった。長い髪の毛をまとめて束ねて、ポニーテールにしている。朝の情報番組とかで主題歌を歌いそうな感じだ。
ボーカルが立夏だと言うことを告げていなかったのか、出て来ただけで大きな歓声が上がった。無理もない。立夏自身がびっくりしたのか、ちょっと顔が強張ったが、それも実に好意的な目で受け止められている。ともすれば反感を買うようなサプライズを、北原は涼しい顔でやってのけた。
「冴島立夏ちゃん!ボーカルは去年まで、エアロスミスがいたボストンにいた帰国子女さん!」
北原はそれ以上、余計な説明はしない。立夏がおずおずとスタンドに設置されたマイクを握ったのを見届けて、上手く会場の間を持たせる。
「はい、じゃあ今日、歌姫から一言!」
「ええっ!?ええっと、がっ、がばっ、がん、ばります…」
立夏のコミュ障なコメントも、北原が板に上げるとキャラが立つから不思議だ。
「こんな感じの『ギリギリ歌姫』です。ってなわけで、バンド名も、MARGINAL DIVA!!」
北原の合図で、ドラムのカウントが入る。照明が色を変えて明滅し、ザクザク気味のエレキギターのリフが重ねられる。のっけから、飛ばしている。イントロのソロは、たぶん北原のアドリブだ。
「『HEART FULL OF MINES』!」
曲タイトルを聞いて僕は、声を上げそうになった。『地雷まみれの心』。立夏が持ってきた詞の中に歌じゃないか。
歌詞は全編、英語詞だ。しかし、そんなこと考える間もなく曲が続く。
全力疾走のイントロが引いてドラムだけになったミドルテンポ、ついに立夏は歌い出した。さすがに歌の入りで少し音程が上擦ったが、声量は安定していて、歌は、不思議な存在感がある。ためを活かした曲作りは、紛れもなく立夏のボーカルの力量を信頼してのものだ。北原はじめ実力には定評があるバックの演奏を活かしつつ、未評価の立夏のボーカルにばっちりインパクトを与える。バンドの名刺代わりとしては、絶好の一曲だ。
立夏自身も、十分その期待に応えようとしている。パフォーマンスはなく棒立ちだが、マイクに掴まってしっかり歌っていた。ギターを弾くのは忘れていたが、歌で十分補っている。バッキングの強烈な重低音にも決して負けずに歌の内容を表現していた。
ドラムのキメ一発で余韻は断ち切られ、曲つながりに次へ行く。
コールされた曲タイトルは『MAGGOTS IN MY MOUTH』だ。しかしそこに、形になった楽曲を聴く限りでは誰も花粉症の歌だとは思うまい。
二曲でもうばっちりアピールできている。
やられた。
今夜はとんでもないライブを観た、と言う人が過半だろう。それほどに北原の読みは、ばっちりと図に当たったのだ。
立夏のステージングは不器用そのものだが、演奏にマッチして不思議と歌詞のテンションが入ってくる。客の顔を見れない分、立夏は楽曲に入り込んでいるのだ。不器用なりにその集中力が、よく伝わってくる。
その未完成なプレイキャラクターを絶妙に支えているのが、北原はじめ、安定したバッキングだ。北原が選んだ息の合ったミュージシャンたちの安定感あるプレイが、おっかなびっくりの立夏を支えて、むしろいい味にしている。立夏は立夏として、すでにステージに立つべき要件を十分に備えている。このバンドは、音楽経験のあるミュージシャンたちには、もはや作れないバンドだ。そして駆け出しの勢い重視のバンドにも、到達できない地点に存在している。
北原の狙いはまさにそれだったのだ。まだ局地的にしろ、ある程度、認知度と定評を獲得しているバンドに、ある意味でアヴァンギャルドな穴を開けて風通しをよくする。
お蔭でMCが出来ない立夏でも、ステージはちゃんと成立する。楽曲勝負の気迫が、むしろ直接伝わってくるのだ。現にチャーハンズだけを見に来たはずの藤谷さんが、惹きこまれて熱狂していた。
「すっごいねえ!あの子、誰!?かっこいい!」
藤谷さんも大喜びである。これで僕があいつが誰か、言ったらえらいことになるな。北原の奴、特にものすごく喜ぶだろう。顔が見えないように人波にまみれている僕を後目に藤谷さんは、積極的に周りの人の興奮に巻き込まれている。
「ねえねえ、あれ、北原くんだよねー」
ふいに藤谷さんがインディーズでは有名な北原のバンド名を口にする。うわっ、まずい。こっちも知ってるのだ。僕は爆音に声が紛れたふりをして、ステージ脇の客の中に紛れこんだ。
「ありがとうございます!」
壁のような歓声の中、あの立夏が声を張って返す。
本人がどう思っているかはともかく立夏はもう、完全にステージマンとして機能している。しかし、あのコミュ障の立夏が。人前が嫌で、他人をリードすることなんて、考えるだけで気持ち悪くなるような立夏がだ。
僕はそれを、どこか複雑な気持ちで眺めていた。
二曲、終わった瞬間に照明が落ち、羽虫のはばたく音のような電気楽器の余韻が薄れる。ちょっと間をおいて三曲目だ。未知の客たちは軽い混乱に陥った。
しかしイントロのフレーズをクリアトーンで紡ぎ出した北原に蒼いライトが当たったのを見て、どよめいた空気は冬の夜みたいに鎮まった。
いよいよあれだ。
次の展開を知っているのに僕は、思わず息を呑む。圧して圧す二曲のインパクトから、絶妙な緩急なのだ。
「最後の曲です。MARGINAL SAVAGE」
闇の中で立夏はぽつんとつぶやくように、曲タイトルをコールする。間髪入れずドラムのフィルイン、バンドの全力疾走だ。これほど烈しい爆音が迫ってくるのに胸に詰まるほどに、切なく儚いメインメロディに思わず会場のそこかしこにため息が漏れる。
バッキングの北原のフレーズに寄り添われて立夏が、僕と作った最初の歌詞をついに歌い出す。そのとき、なぜか僕の胸の中で、出血を伴うような痛みがちくりと刺したのが、はっきりと分かった。
「いやー、ごめんれごめえん!飲みすぎちゃったあ」
続く打ち上げで、藤谷さんの酒量は凄まじかった。いつもゼミ会のときは抑え目で、酔っ払った大学生の介抱が主な役割なのに、今日は遠慮なしのフルスロットルだ。こんな藤谷さん初めて見た。幻滅、とは言わないがある意味衝撃だった。
結局、終電過ぎるまで付き合わされちゃったのだ。どうにか戻ってきたのは、夜中の二時である。腰が砕けてしまって家に帰れない藤谷さんを、どうにか運び込んできたのだ。重たい布団みたいになった藤谷さんだ。誓って言って、下心はない。
(立夏のやつ、どうしてるかな)
ふと思いさしたがあまり気にしなかった。今夜の出来だと、北原の打ち上げに同行して、たぶん夜が明けるまで帰ってこないには違いない。
しかし、暗い部屋の鍵を開けて驚いた。なんと、立夏が待ってやがったのだ。誰もいない真っ暗なリビングでレンタルDVDをはしごしていた立夏は、僕がぐでんぐでんの女性を家に連れ込んだことで、大激怒した。
「なっ、なんだよ貴教!この女の人!?」
「研究室の先輩なんだ。偶然、会場で一緒になっちゃってさ」
あまり言いたくはなかったのだが、僕は立夏のライブに足を運んだ経緯を話した。北原にチケットをもらい、あの晩、会場にいたのだと言うことも話した。するとみるみる立夏の毛が逆立つようになって、僕は容赦なしの怒声を浴びたのだ。
「なっ、なんだよ!?あそこにいたんなら、そうやって言ってくれればいいだろ!?なんで顔出してくれないんだよ!そんな女の人なんかと、いちゃいちゃして!」
「いちゃいちゃしてたわけじゃないんだ。大学の先輩だって言ったろ!?」
僕は必死で言い募ったが、藤谷さんはトイレで吐いている。それどころじゃないのだ。まったく、とんでもないことになった。
「ああそうか!分かったよ!貴教はさ、女の人にもてたいから、財政学なんてやってるんだろ!?なんだよ!?財政学の勉強が聞いて呆れるよ!」
「だから言ってるだろう。藤谷さんとは偶然会場で会って…」
それ以上何か言う前に、ビンタが飛んできた。避けるつもりはなかったが、酔っている僕は、反応すら出来なかった。
「だから貴教はボクと、バンドなんか、やりたくなかったんだろ?」
僕は、はっとした。
それが分かったのか立夏は泣き腫らした顔で、僕を睨みつけていた。
「分かった。もういい!」
両手で僕を押しのけると、立夏は自分の部屋に飛び込んだ。鍵をかける音がした。次の瞬間、半開きのトイレのドアから爆酔した藤谷さんが倒れ込んでいた。
(最悪だ)
熱を持った藤谷さんの身体を担ぎ上げて、僕は酒臭いため息をついた。ったくなんてことになったのだ。
ソファで寝て翌朝、立夏はいなかった。ギターと衣類と、戸棚にあった菓子パン類がまとめて持ち出されていた。みんな開けっ放しだった。えらいことになった。
僕はシーツをのけてソファから起きると、譲り渡したベッドルームの気配をうかがった。その部屋の空気はいぜん淀んで重たく、完全に意識を喪った藤谷さんの甘ったるい酒気が充満していた。
ああもうなんて言ったらいいか。
コンロの鍋には三つのスープの缶が、一緒くたにぶちまけてあった。ミネストローネとグリーンカレーとコーンクリームだ。よく混ざってなくて前衛芸術みたいになっていた。僕はそれを片付けて、二日酔いの藤谷さんのために味噌汁を作ることにした。
僕もまだ息に酒が残ってる。頭痛とため息は、限りなく重かった。