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PHASE.3

北原と会っているだろう、その日は朝から一日、土砂降りだった。また験の悪い日を選んだものだ。やっぱりやめとけばと言ったのに、立夏は雨合羽を着こむと、ギターケースをビニールでぐるぐる巻きにして抱えて飛び出していった。決死の表情だった。まるで密書を抱えた御用飛脚である。

僕はその間にゼミ発表の準備をしていた。もはやバンドマンではない僕の本来は日々が、日本の財政について考える貴重な時間なのである。わが国危急の折、財政学に課せられた問題は山積している、と言うのは教授や藤谷さんの受け売りである。

とは言え、この国には利息も返し切れないほどの借金がありながら、社会保障の費用他ほか出費は嵩む一方だと言う事実は目を背けえない。だがまあこの現実は、本当に経済学と言う学問だけで伝えきれることなのだろうか。

ふと思う。

実際、国債費の増大は、日本の戦後史のダイナミズムを捉えきらなければ、現状の政策の是非だけで論じられる問題ではない。まず国が借金をすると言うのは、本来非常事態に限る、と言う事実を把握し切れないのだ。

ちなみにほとんどそれは、戦争、と言う事態にまつわる事柄に限る。例えばクリントン政権時代に湾岸戦争の赤字をようやく解消したアメリカだが、ブッシュ政権以降の中東政策ではその黒字を見事に借金一途の火だるま状態にしてしまった。それをなぜか我が国は、外征も内戦もない戦後の百年足らずでやってしまっている。このからくりを解く鍵は、自民党政権が構造的に孕んだ行政肥大の弊害や、公共事業への費用対効果への懐疑、などと言う末節の分析だけでは決して捉えることは出来ない。

そしてそうこうしているうち日本は、解消されることのない世界史でも未曾有の借金国として歴史に名を刻むことになるわけだ。而して国は経費節減を叫ぶが、いざ破産になったときの国家の状態を誰も論じない。国がつぶれる、なんて誰も信じないからだ。

げんに南米やヨーロッパでデフォルトが起きようと、外債取引でもしていない限り僕たちの生活には何の関係もない。だから、想像もつかないのだ。破産を宣言したこれらの国よりも、この日本が、世界史上どの国も負ったことのない負債額を抱えていたとしてもだ。

とまあ、話は大きいがその僕たちは実際、億単位の金も動かしたことはもちろんない。勉強したり他のゼミ生たちと議論に興じていると麻痺して、十億くらいの金がはした金に見えてくる。家に帰って玄関に十億円届けられてたらたぶん、その場で気絶するだろうに。この国ばかりじゃない、僕たちも、何かが狂っている。

そもそも平凡な僕たちにとっては人の世のどこかが騒がしいだけで、この世界だって顔を上げれば、こともなく平穏だ。現にここはこっそりと紙をめくる音と、外の雨のかすかな音しかしない。シャーペンの先でノートの端をつつきながら、僕はいつしか天窓のガラスの向こうに広がるどす黒い雨雲を見ていた。

立夏のやつ、大丈夫かな。また北原に凹まされて、泣きながら帰ってきやしないだろうな。

と、電話が鳴った。立夏からだ。僕はノートと参考書を畳んで、一旦外に出た。

「たっ、たかのり」

受話ボタンを押した瞬間だ。切迫した立夏の声が、飛び込んできたのだ。

「なっ、何だよどうした?」

答えはなかった。風の音がする。外にいるのだろうか。そして背後に聞こえる甲高い音。これ、救急車のサイレンの音じゃないか。

「来て、三茶のスタジオ。北原が」

ぷつ、と、電話は誰かがいきなりもぎとったみたいに切れた。

何か事故だろうか。それから何度かけても、電話は繋がらなかった。立夏の声は強張っていた。北原が、と言ったところで通話は無遠慮に壟断(ろうだん)された。あいつが、まさか。

取るものもとりあえず、僕は飛び出した。三軒茶屋のスタジオに、一目散だ。しかし雨の中、傘もさす間もなく到着すると、そこに救急車はいないし、騒ぎが起きているとすれば騒然としているはずの通りも、何だかいつも通りな感じだった。

北原たちはいつものスタジオを借り切って、のほほんとやってやがったのだ。僕が入ってくると、金属質のハイトーンで救急車のサイレンの物真似をしているあほがいた。鎖チェーンに革ジャケットのヘビメタだ。そいつを見て、皆で爆笑しくさってやがったのだ。

「おっ!冴島、来た!騙されてやんの!?見てみてっ、駒込のロブ・ハルフォード、ハイトーンヴォイスの蓮村くん、特技は救急車とパトカーのサイレンの物真似!」

ちなみに補足する。へヴィメタルをやってる人は、やたら高音が出る人が多い。中には五オクターヴくらい出る人もいて、こう言うサイレンの物真似が出来る人もいなくはないのだ。ふざけんな。

「立夏お前、僕を騙したな」

僕が睨みつけてやると、立夏はしれっとしている。

「嘘は言ってないじゃないか。三茶のスタジオに来て、って。北原が面白い人連れて来たから見に来れば、って言おうとしたんだけど途中で切れちゃって」

「肘が当たって」

「肘で携帯が切れるか」

だったらそもそも立夏と北原。二人とも、そのしてやったりの顔はなんだってんだ。ああ、むっかつく。

「帰るぞ。こっちはゼミ発表の準備で忙しいんだ」

「そーんな釣れないこと言うなって、冴島」

スタジオを出て行こうとすると、北原が両手を広げて立ちはだかった。

「実はな、ベーシストの岡林くんが、富士登山に挑むと言って自転車で東京から出かけたまま帰ってこない。ベースが来ないと練習できないんだ」

「別に僕じゃなくたっていいだろ」

ベーシストなんてその辺に腐るほどいる。それこそ北原のつてだったら、僕よりいくらでも凄腕をヘルプで呼べるじゃないか。

「大体さ、岡林くんから連絡あるまで待った方がいいんじゃないのか。その人、かわいそうじゃないか」

「岡林は戻らないよ。携帯三日もつながらないんだ。たぶん、富士山で遭難したんだ」

だったら尚更心配してやれよ、と言いかけた僕の前に、北原は一枚のレポート用紙を掲げた。これ、立夏が持ってた『MARGINAL SAVAGE』じゃないか。

「立夏ちゃんの詞、見たよ。すっげえ完成度だ。立夏ちゃんのキャラや、内面や、普段考えてること、言いたいこと、ばしばし伝わってくる。いやびびったよ。でもさ、なーんか出来すぎじゃないか?」

「そんなことないだろ」

「そんなことあるさ。だって、すっげえしっくりくんだ、この言い回し。どっかで見たことある文体なんだよなあ」

「だから…どうだって言うんだよ」

別に後ろめたいこともないのに、北原のいやらしい当て擦りのせいで僕はいつの間にかそう言う口調になっていた。

「ぶっちゃけて言おう。ゴーストライター疑惑が浮上してる。まっずいなあ音楽界、こう言う不祥事は。バンドにいない人が作詞に参加しちゃまずいと思う人!」

はいはい、と全員が息を合わせたように手を上げる。立夏まで!どうなってるんだ。

「もう一度言うよ。バンドにいない人が詞を書いちゃまずいよな。なあ皆!」

「いや、だからそれ、別にいいだろ」

だったら、楽曲や詞を提供したりしてる人はなんなんだ。

「あっそう。じゃあ、こうなるとゴーストライター疑惑があるこの歌詞は、お蔵入りだなあ。せっかくゴーサインが出たのに。立夏ちゃんが寝ないで毎日、頑張ったのに!義理のお兄さんがケチだから、立夏ちゃんはもうバンドで歌えない。冴島のせいで明日っからまた引きこもりニートのもやしっ子に逆戻りだ。こんなに頑張ったのに!」

立夏はその場で目薬を差すと、わざとらしく涙を拭った。

「みいんな、貴教のせいだ!あーあ、また死にたくなってきたなあ!」

「おっ、おいおいちょっと待て!」

どんな論理の飛躍だ。

「と、言うわけでいいんじゃないか、ちょっとベースを弾いていっても。ほれ、これ」

と北原は僕に、無理くりありあわせのベースを押し付けてくる。

「僕は勉強中だ」

「大丈夫、一日くらい。立夏ちゃんが人生に絶望してもいいのか?ほら」

立夏は泣き真似する用意をしているし、北原たちは退きそうになかった。こりゃ四の五の言わず、一曲付き合ってさよならした方が話が早い。

「分かったよ。いいか、今日一回、練習に付き合うだけだぞ」

僕は仕方なく、テキストの入ったカバンを置くと、ベースのストラップを首からかけた。

「進行分かるか?」

「ちょっと時間くれれば」

渡されたベースパートの譜面を見ながら、僕は言った。一応、立夏の詞を書き換えるのに、譜面を読んではいる。それに長い付き合いだ、北原のやりたいことくらい、何となく分かる。

僕はルート弾きしながら指を慣らしつつ、再び譜面を目で追った。このしっくりとくる感触。ああ、嫌だ嫌だ。こうして僕は今日も勉強できなくなってしまうのだ。にやにやしながらギターをちゃら弾きしている北原と、ちらちらと僕に興味本位の視線を送る、立夏、この二人の悪魔のお蔭で。

「貴教、ギター弾けるのにベースなのか?」

空気が読めない立夏は、無邪気に過去のトラウマを掘り起こそうとしてくる。

「ああ、ギター勝負で昔俺にぼろ負けしてな」

うるせえな。

「そろそろいいよ。一回合わせてみよう」


ドラムのカウントとともにアンプの爆音が炸裂する。

一瞬茫然とするような音の波が、無遠慮に降り注ぐ。

下腹部に響くその重低音に呑み込まれて、僕の世界は思わずたたずみそうになった。忘れていた、この感覚。そうして僕の感覚は狭いフレットの上と、バンドのメンバーたちとの呼吸の中の、ただそれだけの世界になる。

シンプルだ。

色んな付箋や修正ページをくわえ込んだ、僕の現実世界よりも何よりも。

シンプルすぎて、かつての僕はこうやって、現実を忘れてしまっていったのだ。

竜宮城に迷い込んで、いつの間にか周りから取り残されて。

そして今、僕はまたその世界の中にいる。

僕はここからずっと先の地点に、すでにいるはずなのに。

こいつら僕を浦島太郎に戻す気なのだ。冗談じゃない。

と言いつつ、僕の時間は確実に立ち戻っていった。

北原が選んだバンドに、僕は違和感なく溶け込んでいった。腐れ縁の北原が作ったバンドだ、まあ、当たり前なのかも知れないが。

北原のギターは変幻自在だが、決してアンサンブルから外れることはない。リズムは正確に刻むし、バッキングのフレーズも絶妙だ。そしてソロでノリ一発、とんでもないことをする。そのスリルとタイミングが僕にも刻まれている。この曲にもばっちりその刻印が焼きつけられている。

(これが、MARGINAL SAVEGEか)

何度かつっかえつつ、最後には通しでやったが、演奏はなんの違和感もなかった。いつしか僕は、買ったばかりのシャツに汗をにじませながら、北原が紡ぎ出す音楽に我を忘れて身を委ねていってしまったのだ。

にしても、立夏だ。

こいつの横でベースを弾く。そんなことになるなんて思いもしなかった。あの引きこもりの立夏がギターを抱えて弾き語りしながらメインボーカルを取っているのだ。その三度下を、北原と僕がコーラスを入れてハーモニーを作る。即席のバンドにしては、よく出来たものだ。

「どうだ?大分イイ形になってきたろ」

思わず、僕は頷いていた。チャーハンズのテーマにならなくて、本当に良かった、とそのとき僕は、不覚にも心底から思ってしまったのだ。


通しで一度終わると、北原は再び曲を部分ごとにばらした。これでまだ完成じゃないのだ。骨格が出来上がったら、各フレーズをメンバーで再検討する。これぞバンドのアレンジだ。立夏もアイディアを出していた。あんなコミュ障だった立夏が、堂々と。

「貴教も何か言ってよ」

その立夏が僕に振ってくる。北原は顔を上げて、僕に言った。

「冴島、お前も意見あるだろ。ここのパート、まだ固まってないんだ」

「あ、ああ」

流れで僕も、つい意見を出してしまった。もちろん僕はメンバーじゃないので何パターンかフレーズを弾いて、それを岡林さんに選んでもらうことを条件にしたが。

確かに、楽しかった。楽しすぎた。楽しすぎてすぐ帰るつもりが、どんどん時間が経っていくじゃないか。それがただ、怖かった。この変な居心地の良さが。

悪くない。悪くないけどもう、ここはもう、僕の世界じゃないのだ。


「貴教はさ、どうしてバンドをやらないんだ?」

帰りの電車の中で立夏は初めて、僕を見据えて尋ねた。車窓から外のネオン明かりが追いすがるたび、長い睫が少し震えて見えた。立夏は僕を真っ直ぐに見上げていた。はっきりとこっちを見られたのは、これが初めてな気がした。

「なんでって言われてもな」

「北原みたいに、プロになりそうなところまでいったんだろ?あいつと、バンドも一緒にやってたって」

「まあな」

大学時代はほぼ、それ一色になったようなものだ。お蔭で僕は留年したし、北原は留年したまま海外放浪に行き、ついには大学をフェイドアウトしてしまった。それで得た形あるものと言えば、何かあるだろうか。

「音楽好きなんだろ。だったら、今からでも遅くないと思うけどな」

すがるように、立夏がつぶやいたのに僕は応えなかった。途中駅に停車していた電車のドアがまた、音を立てて閉まった。

「立夏はさ、音楽好きになれた?」

話題を僕は露骨に変えた。

「どうかな。分からないけど」

と立夏は言下に口走ると、

「バンドの皆といるのは、楽しいよ。ボク、あんなに大勢の中で笑って騒いだりしたこと、あんまりなかったから」

「そっか」

今のはこの義理の妹を持った兄の僕にとって、最上の答えだった。

「最近毎日楽しいよ。北原は嫌な奴だけど、あそこに行くの、好きだし、楽しいから」

「良かったな」

僕は言った。それは少し突き放した言い方になったかも知れなかった。確かに、立夏にとっては好きが見つかって、本当に良かったのだ。でも僕はもう、その好きの向こう側にいるのだ。彼女に今それを説明してしまうのは、ただ酷な気がした。


僕の葛藤をよそに、北原は絶好調だ。あれから僕はずるずる、北原たちの練習に引き込まれたのだ。お蔭で爆音(かまびす)しいスタジオで、僕はケインズ経済学の本を読まされている。

「ロックは死んだ、って言うよな?なあ言うよな?」

と、今日も北原はカールスバーグのビール瓶を片手にほざく。

「ロックやってます、バンドやってます、って言うと、冷やかし混じりに浴びせられる言葉だ。あれさ、ただ死んだ、って言わせたいんだよな。でもさ、俺はここで言い返すんだ。お前たち、それを聞くんならまず、これに答えられるようになってからにしな」


ロックはどうやって生まれたんだ?


「生まれ方も知らなければ、死に方だって分からない。どうやって生まれたかも分からないやつが、死んだかどうかなんて、どうやって判定するんだ?これが監察医だったら、生体解剖で弁護士に訴えられちまうかも知れない。ロックンロールと言う言葉はどこから生まれたのかな?はいっ、そこで冴島くんの答え!」

俺かよ!?

「ほら今日、十一日だし。出席番号十一番だったろお前」

「勉強中なんだけど」

「勉強中の奴は、ちょくちょくスタジオ来てベース弾いたりなんかしない。さあ答えろ、ロックンロールの誕生について」

ぱちぱちぱちぱち…と皆がまばらでぞんざいな拍手をくれた。極端にやる気がなくなった。なのにここで、それでも話さなくてはいけない、と言うこの事実。どうにかしてくれ。

「分かったよ。じゃあ言うけど、ロックンロールと言う音楽は、本当は存在しなかったんだ。ただ単に、黒人のリズム・アンド・ブルースを現す言葉だった」

そう、ロックはただのR&Bのことだったのだ。チャック・ベリー、リトル・リチャード、そして、B・B・キング。当時黒人のブルースでも様々な奏法が発達したエレキギターを用いたステージマンの音楽が、続々とレコードになった。

大音量のアンプから出されるこうした新しいR&Bはただの酒場のBGMとしてではなく、それ自体が魅力的なショーとして持て(はや)されるようになったのだ。しかしまだまだそうしたショーは、黒人だけの娯楽に過ぎなかった。

「それを白人の世界に持ち込んだ男がいる。アラン・フリード、本名アルバート・ジェームス・フリードだ。ペンシルバニア州に生まれた彼はダンス音楽に傾倒し、自分でトロンボーンを演奏してジャズのバンドを率いていたが、耳の病気でプレイヤーを断念、大学在学中からラジオのDJを志すことになる」

ラジオのスポンサーである地元レコード店で当時のR&Bに夢中になる白人の若者たちを見て衝撃を受け、フリードはそうしたR&B音楽を白人の若者たちに紹介する看板番組を持つことを決心したと言う。そしてそのフリードが志した番組は、一九五一年に日の目を見ることになる。

「その年の七月十一日、フリードは担当番組だった『レコード・ランデブー』を改変した。それが『ムーン・ドッグズ・ロックンロール・パーティ』だった。フリードは自らDJ『ムーン・ドッグ』を名乗り、当時最新の黒人音楽を白人の若者たちに紹介し始めた。番組は二つの意味で大反響を呼んだ」

いわゆるいい(グッド)ニュースと悪い(バッド)ニュースだった。前者は言うまでもなく、画期的な成功だ。番組は瞬く間に、当時新しい黒人音楽に飢えていた白人のティーンエージャーたちの爆発的な支持を受けたのだ。そしてその反面、フリードは当時吹き荒れた人種差別問題の軋轢の真っ只中に首を突っ込んでしまうことになる。

「フリードは人種問題と言う、アメリカの逆鱗に触れてしまったんだ」

その最高潮は公民権運動が吹き荒れた六十年代だが、終戦直後のこの時代にすでに軋轢の萌芽が芽生えている。過酷な兵役と引き換えに市民権を得たマイノリティたちが、白人至上主義だったアメリカ社会に不平等の声を上げ始めたのだ。

弾圧も苛烈だった。五十年代、すでに南部ではKKKクー・クラックス・クラン団がテロ活動を始め、黒人の活動家などをリンチして葬ったりしていたのだ。

フリードはユダヤ系の白人だった。当然、こうした白人の人種至上主義者たちには、裏切り者として目の敵にされた。

「もちろんフリードは放映当時からその反発を予想していたようだ。そのために、黒人の音楽であるR&Bに代わる違う呼び方を考えて、それを番組で放送している音楽だと称した」

それが、番組のタイトルにもなっている『ロックンロール』と言う呼称だ。

「じゃあ、そのアラン・フリードって言う人がロックンロール、って言う言葉を考えたんだ?」

立夏の問いに、僕は首を振った。

「いや、正確には違う。これはすでに黒人同士のスラングの中にすでにあった言葉だったんだ。ダンスパーティに行く若者たちの合言葉だった。『楽しもうぜ』。それくらいの意味だった」

しかしこのアラン・フリードが白人音楽に与えた影響は、絶大だった。ちなみにこの、黒人の新しいR&Bに傾倒する白人のティーンエージャー文化はイギリスにも伝番して、僕たちが誰もが知っているロック黄金期のバンドたちを産んだことは言うまでもない。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、さらにはレッド・ツェッペリンを初めとしたハードロックグループ。人種問題の渦中から離れることで、発達した彼らが逆輸入的に全米をツアーしだして、ロックンロールは一気に市民権を得たのだ。

「例えばジミ・ヘンドリックスはアメリカ人だけど、デビューしたのは、イギリスだったんだ。アメリカほど人種問題が苛烈じゃなかったイギリスこそが、いわばロックンロールと言う言葉の育ての親だった」

だがそうした黄金期のミュージシャンたちも、アメリカの黒人音楽を紹介する番組がこれほどに隆盛を極めなくては、産まれはしなかっただろう。

「ちなみにアラン・フリードは死後の一九八六年、『ロックの殿堂入り』を果たしている。これは、二十五年以上活動しているミュージシャンたちにしか与えられない栄誉なんだ」

楽器を演奏しない人物としては異例である。しかし、ここまで聞けば誰もが納得するだろう。アラン・フリード、彼こそがロックンロールを産み出し、育てた人なのだ。

「いやあ、凄いよ冴島君。さすがはご立派な学業を目指すお方だ」

最悪なことに気乗りしないプレゼンが終わって第一に与えられたのは、北原のぞんざいな拍手と皮肉だった。

「毒を吐く気なら、最初っから振るなよ気分悪いな」

「いや、ボクは面白かったけどな!」

興奮しているのは、立夏くらいのものだ。ちっ。そう言えば帰国子女の人の中は、たまに人種問題に過敏な人がいる。立夏にも、僕たち社会的事実関係でしかこの物事を捉えきれない人間と違って、リアルな覚えがあるのかも知れないと、僕はふと思った。

「じゃあ、ご高説が終わったところで、一般教養じゃなくて冴島くん自身の意見を聞いてみよう。はてさてロックは死んだのか?」

ったく、まだ喋らせる気か。僕は顔をしかめて北原を睨みつけてやると、さっさと話をまとめにかかった。

「ああ、政治的なステイトメントや社会的背景と言う文脈ではね。その後のヒッピームーブメントやパンクの登場以降、ロックにそうした社会派な含みはなくなった。もちろん、一部では政治活動や社会的主張をしているバンドもいるけど、それが主流とは言えない。どう捉えるかは自由だけど、ロックは、ただの音楽の一形式として一般化したんだ」

「ふうん」

と、北原は鼻で笑いやがるが、僕自身の観点から言えば別に、これは悪いこととは言えない。よく見ればジャズやブルースだって同じような社会的背景を背負っているし、戦前はげんに盛り場の音楽としてロックと同じような位置にいたのだ。ただ単に、社会に溶け込むのが歴史的に早かっただけだ。

「社会性やイデオロギズムがなければその音楽は死んだ、と言うのは大きな偏見だし、現代では全くの見当違いの意見だと僕は思うよ。例えば日本の演歌だって元を辿れば、明治時代の自由民権運動の壮士節(そうしぶし)が元になっているとも言うし。でも皆、関係なく歌っているし、楽しんでるだろ?」

それにだ。ブルースやジャズにも白人のミュージシャンが名を残していると言う経過から考えれば別に、ロックと言う音楽の社会的効用は死んでいないとも言える。アラン・フリードを初めとしたDJたちや無数の名盤レコードたちが、白人社会に黒人音楽の流行を作ることがなければ、それは存在しなかった現象なのだ。

「まあ冴島、大概はお前の言う通りだ。だがそれは批評家の意見さ。バンドマンからすれば外野のご意見もいいところだ。お前も、プレイヤーだった癖に分かっちゃいないなあ」

北原は皮肉たっぷりに言うと、首をすくめてみせる。この野郎、立夏の前でこれがやりたかったのだろう。何度このパターンで喧嘩したことか。でも僕はバンドマンじゃない。乗ってたまるかってんだ。

「そうだな。僕にはこれ以上のことは分からない。バンドをやってるわけじゃないし、今さらロックの生き死にの問題に、さらさら興味ないね。ただお前が、無理やり聞くから、無理やり答えただけだ」

「ふふん、無理やり答えさせた割には模範解答じゃないか。でもな、無理してるのは、別のことじゃないか。俺はさ、本当はそれが言いたいんだよ」

「勝手に言ってろよ。付き合いきれないな。立夏、僕は先に帰るぞ」

苦りきって僕は飛び出した。出ていくのにちょうどいいきっかけになったが、後味悪いったらない。スタジオを出るとまるで誂えたように、雨まで降ってやがった。


細かい雨に荷物を庇って歩いていると、あわてて追いすがってくる奴がいる。立夏だ。僕がいなくなると思わなかったのか、とるものもとりあえず、とにかくギターケースを担いで出てきた感じだった。

「貴教、ボクも帰るよ」

立夏は(かたくな)な声で言った。その、深刻な表情。どうも何か誤解があるみたいだ。

「馬鹿だな、僕は用事があるから出てったんだぞ。ゆっくり練習してくればいいのに」

「…見てられなかったから」

と、言うと、立夏は沈黙した。こいつ、僕と北原がやりあってると思って、気まずくなったのだろう。慣れている人たちはまったく気にしないが、考えてみれば立夏にはその免疫がないのだ。さぞや、気を揉んだに違いない。

「あのな、北原はああ言う奴なんだよ。お前にもそうだけどさ、自分の好きなようにバンドをやりたいから、人を挑発して、怒らせて、自分のペースに巻き込もうとしてくるだけなんだ。いちいちあれに目くじら立ててたら、こっちが疲れるだけだぞ?」

気楽に話したつもりだが、立夏は思いつめたままの表情を変えない。

「何だよ、どうかしたのか?」

立夏が立ち止まったので、こっちも立ち往生だ。仕方なく聞いてやると、立夏は僕を思いつめた目で見てこう言った。

「知ってる」

「え?」

「訊いたんだ、北原に。貴教がバンドを辞めた理由」

「そりゃ聞いてるだろ」

北原からだけじゃない。立夏は、僕の母親からも正式に訊いているはずだ。

「無理やりなんだろ?財政学の大学院に行くのも、バンドを辞めたのも」

「そんなこと」

いや、ないとは全く言い切れないが、自然の流れだ。

しかし次の立夏の言葉に僕は息を呑んだ。

「死んじゃったんだろ?貴教のせいで、好きな人が」

「え…」

僕は絶句した。あまりに衝撃的すぎて、言葉にならなかった。

「まさか、北原か。そんなこと言ったのは?」

どうにか僕が尋ねると、怪訝そうな気配を感じたのか立夏はこわごわと、頷いた。

「何回か、それとなく話をしてくれたんだ。今、貴教が出てったときに詳しいこと、教えてくれたんだ。貴教には幼馴染の、ずっと親しくしてた恋人がいて。北原も知ってたんだけど、その人は貴教には普通に、就職して欲しかったんだろ?」

立夏は話を続けた。

「でも貴教はバンド辞められなくて、その子とも喧嘩別れしたままだったって。でもある日のライブの晩」

近くで救急車の搬送があった。路地裏で飛び出し事故があったのだと言う。

「通り抜けをしようとした車に、はねられたんだろ?彼女は路上で頭を打って、そのまま目は覚まさなかったって。バッグの中に、貴教たちのバンドのライブのチケットがあって、彼女、こっそり見に来ようとして、そのせいで事故にあったんだって?」

それから、僕はバンドをきっかり辞めることにした。大切な人の気持ちを(ないがし)ろにしておいて何が音楽だ、何がバンドだ、と思ったのだ、と。

「立夏、それさ」

「勝手に立ち入って悪いとは思ってるよ。でも、無理やりバンド辞めなくたっていいじゃないか。貴教が結局、音楽好きだからその人も、こっそりライブに来ようとしてくれたんだろ?」

「分かった、落ち着いて聞いてくれ。その話だけど」

僕は重いため息をして、それでも告げなくちゃならない残酷な真実を告げた。

「僕もそれ、今初めて聞いた」

「ええっ!?」

立夏の目が点になった。まあ、無理からぬことだけど、仕方ない。

「あいつのまともな話は、ほとんどまともな話じゃない。あいつは外身もそうだけど、内面はさらなる見てくれ詐欺男(さぎお)なんだ」

「えっ、だって…あっ、その」

僕がこれだけ話しても嘘のファンタジスタ、北原の魔術が解けず認知的不協和を起こした立夏は、しどろもどろになっている。見ていると、かわいそうになってきた。

「忘れるなよ。北原の発言は嘘大げさまぎらわしい、そしてアドリブで出来ている。あいつとこれ以上付き合うなとは言わないけど、注意しろ。あいつの得意技はその場で話を作ることだ。僕もそれで、何度も騙されたんだ。あいつの言うことは、まず疑ってかかれ。このまま北原とバンドを続けるって言うなら、僕が言えるのはそれだけだ」

立夏はそこから、ついてこなかった。しかし路地を曲がるとき、彼女はこう僕に叫んできた。

「だったらバンドなんで辞めたんだよおっ!?」

僕はそれに何も応えなかった。

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