PHASE.2
「あれぇー、冴島くん、何か痩せたみたい?」
図書館帰りに大学の構内でおろしハンバーグとエビフライがサービスのBランチを楽しんでいると、隣の席に親子丼の乗ったトレイが置かれた。研究室の先輩だ。
「ここ、いいかな」
僕は黙って、頷いた。いいもなにも、もうトレイが置いてある。
それにだ。彼女との同席を拒否する男子学生など、この構内に存在しない。
通称美人過ぎる博士助手、藤谷円華さんだ。
これでも我が研究室の教授が期待をかける財政学の優秀な講師だ。学者にはどう見ても不相応な女子アナ系ルックスで公務員になりたい男子大学生を貧困な講師生活に血迷わせるのが、教授から与えられた特命だと、もっぱらの噂だ。ちなみに僕も藤谷さんに惑わされて学者になろうと考えたりは断じてない、とは口が裂けても言えない。
「冴島くんには期待してるんだよ?勉強に行き詰って困ってるなら、何でもわたしに相談して欲しいんだ。あ、そうだ今度、経堂にアパート借りたんだって?」
「は、はい。まあ、親に援助してもらって」
「いいよね、独り暮らしって。ご飯、ちゃんと作って食べてる?わたしね、こう見えて結構、料理得意なんだけどなあ」
恐るべき上目遣いだ。これで手でも握られたら、まさか来る気じゃないかと勘繰ってしまうレベルだ。日本有数の経済学者の卵にして、業界屈指の魔性の女である。
「やっぱり貴重なんだよねえ、冴島くんみたいな学生さんて。ほら、みんな、何だかんだ言って公務員志望じゃない?」
藤谷さんが今いちぱっとしない僕をロックオンしている理由はまさにこれしかない、とつくづく思う。日本の大学では、いぜん続く公務員人気を反映してか、やたらとこの手の講座が多いのだ。公共経済政策コースだの、公共福祉政策コースだの、他学部にも星の数ほど。大学は経営及び営業があるが、運営側はいい加減、うんざりしているのだ。
そのほとんどは公務員志望の人気取りか、公務員に中々なれない人たちのための、進路の暫定的な受け皿として機能しているに過ぎないからだ。
「でもねー、この勉強、公務員になるんだったら何の意味もないんだけど。ほら、公務員に求められるのは専門性じゃなくて、汎用性でしょ?これ毎年言ってるんだけどねえ」
公務員に求められるのは、別に専門性じゃない。
それは色んな進路を選んだ先輩を見てからこそ分かる。
そもそも基本的にほとんどの公務員は、ほぼ数年で全く畑違いの配置に飛ばされる仕組みになっているのだ。大学の専門課程で福祉政策について専門論文を書いたからと言って、福祉の専門家として、国は決してその人を採用したりはしない。むしろそう言う立論提案は邪魔なのだ。広く浅く、問題を起こさないゼネラリストであることが公務員に最も求められる人材らしい。
ちなみにこれはエリートと言われる一種の国家公務員から地方自治体のお役人さんまで同じ仕組みだ。
要は同一部署で権力を揮わせると癒着の温床になるからと言うことなのだが、これこそがポストだけ預けられて何も知らない、どうせ異動なのだから何も仕事をしない、そんな公務員を量産する仕組みになっている。ちなみにこれが行政を無駄に肥大化させ、財政赤字の弊を生む第一の要因なのだと言うのが、藤谷さんの持論なのだ。
「だから逆に聞いてみたくなっちゃうんだ。冴島くんてさ、どうして財政学に興味持ったのかなあ?」
「は、はあ…それは成り行きと言うやつで」
たぶん、DNAだと思う。肉食系と言う言葉が生まれる前から、がつがつの母親は日本の大学に在学中にMBAをとって、外資系金融会社に入社、今や国際派経営コンサルタントだ。僕も一応その道筋をたどって学術の世界に入ろうと言うまでは良かったのだが、母親のように学んだことを世間に通用させたいと言う戦国大名な欲望が、生まれつき薄いみたいだ。
それで公務員も目指さず、就職もせず、消極的な学界デビューなのだ。間違っても人に誇って話せるようなことじゃない。
「講師は講師で大変だけどね。まあ先生のために、徹夜でデータ集めしたりするのは見てると思うけどさ」
僕よりもはるかにリーズナブルなランチを頬張りながら、藤谷さんは愚痴る。
ちなみに藤谷さんも都内一円だけではなく、地方大学に講座を持っている。大学生の僕たちがだらだらしている一コマごとに移動につぐ移動、新幹線で一日出張もざらだ。これで給与はかつかつだと言うのだから、泣けてくる。でもこれでオファーがあるだけましと言うのだから、これまた厳しい世界だ。
それでも徒弟のように教授に仕えていれば、いつか花実が咲くときもある。メジャーデビューが唯一の希望だ。クローズアップ現代や一流企業のシンポジウムでの単独講演こそが、バンドよろしく経済学者にとっての武道館なのだ。考えてみると学者も、ロックな商売である。
本だって売れれば大きい。ベストセラーを出すことだって夢じゃない。本屋で平積みの学術書なんて、健康医学関係の他は、経済学くらいしかないのだ。無論爆発的に売れなくてかつかつでも僕は、別に構わないのだが。
「でもいつも、思うよ。経済学やってるのにどうしてお金稼げないのかな、とかさ」
経済学は、お金を稼ぐための学問じゃない。
学部にいて、痛感する。本当にお金持ちになるには、関数を使って雇用調整の計算をしたり、絶対損しない投資の仕組みを考えたり、資本主義経済に対する労働の価値を考察したりする必要は、全くない。ただ自分の武器を持って戦場に出ればいいのだ。そして僕たちはそう言う人たちに、本を売って生きていく。いわば免罪符や保険を売る商売なのだ、とつくづく思う。
「冴島くんてさ、バンドやってたんでしょ?メジャーデビューしたバンドって今も儲かるのかな?」
「さあ、音楽の稼ぎ方も色々変わってますしね」
CDアルバムの衰退で、音楽産業は構造変化を迎えている。などと言うが、レコード会社とバンドの蜜月は、それより前から疑問符がつけられているのだ。元々、ステージに消えてしまう音楽を製品にしようなんて、水物稼業と言う言葉が似合うこの商売に合うこととは言えない。ベテランやビッグネームだってCDよりも、ステージで稼いでいる世の中だ。
それでも音響システムやレコーディング技術の向上で特にロックバンドはその恩恵をばっちり受けてきた時代の寵児だったとは思うが、今やリスクばかり大きくコストのかかるバンドに、レコード会社は中々旨味を感じにくくなっているのが現状だろう。
とにもかくにも、メジャーデビューやら武道館やらがバンドの到達点ではなくなっていることは確かだ。そしてこっちは経済学をするより、よっぽどコストもリスクも大きい。だから僕はバンドを諦めたのだ。
「よく言いますよね。まあ聞かれるのも逆にうざいですけど。ロックは、死んだ、って」
「ロックは死んだ、か」
藤谷さんは難しい経済用語を反芻するように言う。しかしこれ、うんざりするほど繰り返されてきた台詞だ。もはや鉄板である。バンドをやっていたと言うと、必ず聞かれる定番のフレーズなのだ。ジャズやらフォークやらR&Bやらは、なぜ言われないんだろう?
「でもさあ」
親子丼の玉葱をうるさそうに箸ではねのけながら、藤谷さんは言う。学食の丼物の玉ねぎは半生なことが実に多いのだ。藤谷さんはそれを忌々しそうに眺めながら、これまた実にうんざりした口調で言うのだ。
「経済学も、死んでるよね」
反論出来なかった。
ちなみに試験は九月だ。春に一度落ちているので、あんなこと言われるとさらに混沌とした気分になってしまう。はあ。
一度落ちて、迷いの出てきた僕に較べ、立夏は一心不乱だった。もはや学校のことなど、頭に一ミリもなかったに違いない。夜昼構わずギターを弾き、一日数回のペースで僕に詞を運び込んでくる。嫌な生産ラインだ。
とりあえず周りを配慮する気持ちは出来たのか、ギターの練習は外へ行くようになったし(スタジオ代わりに楽器持ち込みで演奏可、と言うカラオケを見つけたのだ)図書館に足を運ぶなど、引きこもりとしては目覚ましい効果を上げつつあるのだが、その行く末が社会復帰に繋がるかと言うと疑問符だ。
立夏は別に、バンドをやりたいわけじゃないのだ。そもそも、へたれが服を着て歩いているような立夏に、ステージに立つなど、スカイダイビング並みのスリリングな状況だと言うのは火を見るより明らかなのだ。
それでも北原に渡されたコード譜で練習をし、がりがり詞を書くのはひとえに、反骨の一心である。立夏から見て悪の首領、北原にぎゃふんと言わせるための、闘争心なのである。立夏にとって不動の世界観、アニメ特撮の図式どんぴしゃなのだ。
しょうむない。
が、と言って確かに以前の立夏よりは遥かにましなので、自分の邪魔にならない限りは現状維持でいいやと放置する僕は、立夏から見れば事なかれ主義の典型的日本人であるに違いない。お蔭でこっちの勉強だけはそれなりに進んでしまった。
バイトから戻ると、キッチンのテーブルにこれ見よがしにルーズリーフの束が置いてある。添削しろ、と言う意味以外にない。たまには手料理でも振る舞ってくれると嬉しいのだが、フライパンを空焚きして火災報知器を発動させるほどの使い手である立夏に、そんな女子力を求めてはいけない。
缶詰のトムヤンクンを温めながら、僕は詞を読んだ。しばらく見ないうちに、日本語は洗練させてきて、言葉つきも確かに歌詞っぽくなってきた。参ったな。キッチンの電灯の下で、僕はため息をついた。でも多分これは駄目だろう。作詞をした人間なら、誰でも思い当るふしがある。上手くなることで出てくる最大の弊害に立夏の詞は、正面切って追突しようとしているようだ。
「うん、参ったねェこりゃどうも、どっかで見たようなのばっかだ」
再び三軒茶屋スタジオ。ルーズリーフをまとめて北原に突っ返された立夏は、困った顔文字みたいな表情をしていた。予想は的中した。
「たっ、貴教は良くなったって言ってくれたんだぞ!?」
「いやだから、あくまで日本語として、な」
「あっ、あんだけ持ち上げておいて責任とらない気かっ!?」
「持ち上げた覚えはない。て言うかそれを書いたのは、僕じゃない、お前だろ」
立夏は一気に涙目になった。
かなりオブラートに包んだつもりだが、オブラートの部分しか消化していなかったらしい。無理もない、日本人の会話に慣れていないのだ。はっきり言ったところで、今みたいにだんまりになって、また夜食のスープの缶詰を棄てられても困るから黙っていたのだ。
「ううん、もうそろそろ待てないな。来月、ライブでも演奏することになってるからなあ。ちょっと苦しいけど、坂本くんが書いてきたこっちにするしかないか。『チャーハンズのテーマ』」
「ふざけるなっ!なんだよそのチャーハンズって、中華料理か!?」
「坂本くんは中華料理屋で働いてるんだ。新しいバンドが、テーマソングを欲しがってる。立夏ちゃんが要らないならあげちゃおう。それゆけチャーハンズ!」
「やっやめろおっ、チャーハンズなんて絶ぇっ対認めないからな!分かったっ!分かったよ!その坂本って言う奴より、ボクがいい詞書くから!絶対書くから!もう一回チャンスを下さい!下さい!」
立夏は土下座までしていた。て言うか知ってたんだ、土下座。
「…なんであんなに粘るんだ?」
まさか土下座までするとは。しかも北原相手にだ。そう長い付き合いではないが、あんなに必死な立夏、初めて見た。
「向いてるんじゃない?」
北原があごをしゃくる。僕は練習を始めた立夏の手慣れた様子を見て、納得した。こいつもたまには真面目なことを言う。本人の意思はともかく、確かに立夏はバンドをやるのに向いてはいるのかも知れない。
前回と同じメンバーで、打ち解けたらしい。立夏はギターを持ち出して、今度はメンバーとセッションまでしようとしている。弾きながら歌う歌も前のようにたどたどしさがなくなっていた。僕の知らないうちに一気に進歩したものだ。
「たまに練習に参加したいって来るぜ。あの子」
僕は声を上げそうになった。そうか。メンバーと打ち解けて見えるのは、結構頻繁に会っているからなのだ。
「どうでもいいけどお前、立夏のアドレス悪用するなよな」
「心配するな。立夏ちゃんのアドは俺だけのものだ」
狼はにたりと笑う。
いや、それが一番危険なのだが。
「お前の話もよく聞いてくるよ。どうしてバンド辞めたのか、とかな。立夏ちゃんのこと、もっとよく分かったよ。だからこそ言わせてもらうけどさ、立夏ちゃんが頑張るのって、それだけじゃないと思うんだよなあ」
北原はなぜかまじまじと僕を見る。
「要は好きなんだよ」
「なっ」
ぎょっとした。今の一言は何か思わせぶりな言葉つきだったからだ。
「何がだよ!?」
「気づかないかなあ、じゃあもう一度言うぜ。立夏ちゃんは、好きなんだって」
何を言うのかと思っていると、北原は自分に向かってサムズアップしてみせた。
「俺が」
「お前がかい!」
天地がひっくり返ってもそれはねえ!
アンプが張り裂けそうな声で、僕は突っ込んでやった。
春を過ぎ、季節は五月を通り過ぎていく。
葉桜に紫陽花の葉も新緑の装いからみるみる生命力を増してきて、初夏のぬるい五月雨を受けて力いっぱい生きている。新社会人にとっては、ようやく一段落した頃だろう。やっぱり普通に就職活動をするか、公務員試験でも受ければよかったかな。日々進んでいくカレンダーを見ながら、僕は思い悩んでいた。
そんな矢先だ。低気圧が嵐を連れて来た晩だった。そろそろシフトの顔ぶれも変わり始めて居心地が悪いバイトから帰ってきた僕は、部屋に明かりが点いていないのを訝った。立夏がこんな日、外出しないはずがない。
電気をつけてびっくりした。ばっちり間近にいやがったのだ。キッチンテーブルにまるで、午前様の旦那を待つ奥さんのように、凍った表情で。
「なんだよ!?電気くらいつけろよ!心臓に悪いだろ?」
「たあ~かあ~のお~りい~」
幽霊の真似かと思った。でも違った。立夏は僕を見たら、ぐすぐす泣き始めたのだ。
まあ、ぴんとは来た。ついに生産ラインが止まったのである。矢折れ、刀尽きたと言うことか。
「明日、だめだったらもうチャーハンズにするって言うんだ」
「チャーハンズか…」
あの曲調でチャーハンズは厳しいと思うが、北原だったら何でもやるだろう。
「もう何をどう書いていいか、判らなくて」
ふと僕は、立夏の目の前の伏せてあるルーズリーフに気がついた。なんだ、一枚書いてあるんじゃないか。それをぺらりとめくって恐ろしく後悔した。
『ピラフズのテーマ』だった。
「みっ、見るなよ!?」
言うにことを欠いて、ピラフズのテーマだって?
「随分、日和ったな。だったら、チャーハンズでいいんじゃないのか」
うるさいっ、と言って立夏は筆記用具を投げつけてきた。もう無茶苦茶だ。
「なっ、なあ、ちょっと待てって。立夏があの曲をさ、チャーハンズに取られたくないのは、別に、北原に勝ちたいからじゃないんだろ?」
核心をついてやると、立夏はぴたりと動きを停めた。分かってる。バンドをやりたいわけでもないこいつが、北原の対抗心だけでここまでやってこれたはずがない。
「好きなんだろ」
ずばりと言うと、立夏は、はっとして目を剥いた。
「この曲が」
「この曲かよ!?」
あれっ、違ったのか?そう思ってると、立夏は何かに気づいたのか、あわてて首を振って、
「ちっ、違わないよ!違わない!違わないに決まってるだろ!あれはボクの曲だ!ボクの詞をイメージしてあいつが書いたんだから、なにがどうあっても、絶えっ対ボクの曲なんだ!」
「じゃあ、そう言うのを書いたらいいんじゃないか?」
僕が言うと、立夏は苦しげに眼を瞑って首を振った。
「そうだけど」
立夏はぽつりと言って、口ごもった。
まあ、気持ちは分かった。あれだけの長い期間、大っ嫌いな北原の怒涛のダメ出しに堪えて、立夏はまさに新しい詞を書き続けようとしたのだ。そろそろ自分がどうしたいのか、あの曲に対して初めにどう思ったか、と言うことすら、見失って混乱しているに違いないのだ。
「元のタイトル、『境界線上の悪魔』だったっけ?」
そのタイトルを言うと、立夏は初めて気づいたような顔をした。やっぱりだ。
「元々はさ、どんなことを書きたかったのかそれを思い出したら?今さらかもしれないけど、スタートしたとこを思い出してみなよ」
そう言ってやると、立夏は僕をすがるような目で見た。
「お前の詞だから、僕には中身は何とも出来ないぞ」
僕はそこは厳しく言った。
「でも立夏が諦められない気持ち、僕にもちょっとは分かるよ。知ってると思うけど、僕もさ、昔、北原がプレイするバンドで詞を書いてたから」
あの頃、北原の追い込みは凄まじかった。ぶっちゃけ何度も酔っ払って喧嘩したものだ。
「貴教なら分かるだろ?どうやったらボクは、北原に勝てるのかな…」
「まずそこが間違いなんだよ。北原に勝つとか、そう言う問題じゃないだろ」
唇を尖らせて、立夏は何か言おうとした。でもちゃんと気づいてくれたのか、弱音を口にする前に、口ごもった。
「とにかくもう一回好きに書いたら?日本語で書きづらいなら、英語でさ」
「でもっ」
立夏は反射的に言い返してから、黙り込んだ。
「せっかく貴教に教わりながら、ちゃんと日本語で…詞、書けてるのにそれじゃ逆戻りじゃないか」
「日本語の勉強じゃなくってさ、歌詞として立夏が本当に描きたいって言うなら、話は別なんだ」
僕もちょっと本気になった。きっぱりと言った。
「言葉は、本当は関係ないんだよ。日本人だってさ、普段使わない英語を無理やり使って、歌詞書いてる人もいるわけだしさ。無理やり描くならともかく、表現したいことがあれば、方法はなんでもいいはずなんだよ」
立夏の戸惑いを察して、僕はいきなり尋ねた。
「ぶっちゃけ立夏はさ、どっちのが自分のこと書ける気がする?日本語、英語?」
「分からないんだ。…本当に分からない」
瘧を患ったように身体を震わすと、立夏は押し殺した声でそう言った。やっぱりだ。立夏が口ごもった原因はそれなのだ。彼女の言葉にはまだ、自分の中にあるものに入り口を作る能力がないのだ。
しょうがない。僕は意を決して言った。
「とりあえずは使い慣れた英語で書いてみたら。なんだったら僕が、それを日本語に訳してあげるから」
「ほっ、本当かっ!?」
受験勉強中だが仕方ない。こいつがここまで頑張っているのだ。
「いいの書こうとか、誰かに見せつけてやるとかじゃなくて、普通に書けよ。見栄張ると立夏のこと知ってる人間にはちゃんと伝わっちゃうからな?」
ぶんぶんと首を振ると、立夏は怒涛の勢いで自室に駆け込んで行った。ったく、現金な奴だ。
立夏がこうして朝までに書いてきた詞は、一編だけだった。
タイトルは『MARGINAL SAVAGE』と書かれていた。
辞書を引くとMARGINALは、端境の、ぎりぎりの、境界線上の、と言う元の辞書の意味だ。続くSAVAGEが『悪魔』じゃないことに気づいて、僕はこの詞が何を現しているかに気づいた。
結局あの詞は、立夏自身のことを示していたのだ。
「誰と居ても、口が利けない野蛮人になったみたいな気がする」
立夏はMARGINAL SAVEGEをそう歌う。
日本語と英語の境界線。表現したい気持ちは真ん中にあるのに、いつも自分はその境界線をうろうろしてしまうのだと言う。
伝わらない、ただもどかしい。身近にいる人に、その身近にいるぐらいの距離感で、ただ真っ直ぐに気持ちをぶつけたいのに。
それがまさに今、立夏が歌いたいことだったのだ。ちゃんと歌詞になってるじゃないか。僕は勉強の空き時間で、立夏の言いたいことを日本語の歌詞にまとめた。やったことは大したことではない。重複する部分やくどいところを抽出して、いわば無駄な枝を払っただけだった。それだけで十分だった。
「タイトルは変えなかったぞ。『MARGINAL SAVEGE』。まんまでいいんじゃないか?」
言うと立夏はちょっと嬉しそうだった。自分から言わなくても僕に、何となく詞の意味が伝わったからだろう。
これがたぶん立夏の、『境界線上の悪魔』より以前の、紛れもないスタートの言葉なのだ。
「気になるところあったら遠慮なく言えよ。こう言うニュアンスじゃないとか、そう言うの大事だからな」
「大丈夫」
押し被せるように、立夏は言った。
「これで北原のとこへ行ってみる」
立夏にとって最後のチャンスだ。まあ、心置きなくやれたらいいと思った。
でもだ。この詞がこれから、とんでもない事態を巻き起こすのだ。
それとは、さすがの僕もこの時点で気づくはずもなかった。