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PHASE.1

バイト帰りの土曜の晩に壁際から伝う、何か硬いものを叩く音。

外の廊下にまで響きそうなコン、コン。なんの前触れもなく突然立ち上がる、リズミカルな二拍。これ、アコースティックギターのボディを拳で叩く音なのだ。

ナイロン弦が軋る音が聞こえ、ついで窓の外の針のような五月雨みたいな細かいコード進行が作り出す音楽。夜のしじまに現れた、淀みのない生演奏。今日は意外にスムーズだ。

が、間もなくいつものところで引っかかる。戻った。やっぱつっかえた。また戻った。ああいらいらする。咳払いして、あれえっ?とかでかい声で言いながら再開したと思ったら、すぐ諦めたのかそこは素っ飛ばして、今度はふかあく息を吸う。

そして始まる。遠慮一切なし、腹の底から一気に歌い出し。

これが午前一時だ。あああもう堪えられない。

僕はついに、試験勉強を放り出して、あいつの部屋に乗り込むことにした。

ここは世田谷区経堂(せたがやくきょうどう)の駅前に、やっと見つけたまだ住居人の少ない新築アパート。春からはここが、僕の新しい城のはずだった。両親に敷金礼金援助してもらったとは言え、稼ぎ出したバイト代その他自己資金で正真正銘、僕が手に入れた一国一城だったはずなのだ。

そう、ふいに来るお泊り客のための寝室兼物置のために、僕が確保しておいた唯一の空き部屋をやつが乗っ取るまでは。

トイレとユニットバスのある部屋の向かい側のドアを、僕はノックもせずに開けてやった。その瞬間、ギターを弾いて大声でおだをあげていた奴は、ひゃあっ、と意外に情けない悲鳴を上げて布団を被った。

「いっ、いきなり開けるなよ!びっくりするだろ!?」

「うるさいっつの。今、何時だと思ってるんだよ」

「一時」

奴は布団を頭から被ったまま、おずおずと壁にかけた時計を見て言う。

「でも、まだ起きてるんだろ、そうやってすぐ気づくんだからさ」

「それは勉強してるからだろ。普通やるか?大学院の試験を控えた兄の横で、じゃかじゃか自作のしょうもない歌を。しかもいっつも同じとこで間違えやがって!」

「だって苦手なんだもん、Fのコード」

「そう言う問題じゃない!…いや、そっちもすっごい気になるけど、そう言う問題じゃない!それにそもそもなんで家弾きであんなに熱唱する必要があるんだよ!?」

「じ、自撮りしてたんだよぉ…動画アップしようと思って、自撮りしてたのに…」

すんすん、と奴は泣きべそを掻いてしまった。そしてなぜか救いを求めるように、僕の方を見上げる。無言だ。

「なんだよ?」

恐る恐る聞く僕に、奴は言った。

「だったら教えてよ、ボクにFのコード進行」


こうなってしまうと、もう逆らえない。当然だ。奴は弟じゃない。女の子だからだ。ボクとか言ってるけど、外見は本当にかわいい女の子な、僕の妹だ。

名前は冴島立夏(さえじまりっか)と言う。十九歳、絶賛引きこもり中だ。春から編入した大学に、どうも馴染めないらしい。去年まで日本人じゃなかったからだ。北米、ボストンに住んでいた。彼女は、母親の再婚相手の連れ子なのだ。つまりは、血のつながらない妹と言う、例の恐ろしい設定である。

しかも立夏の余計なキャラ立ちは、それだけに留まらない。

どうやらアメリカにいるときから、直球インドア系だったらしく、厄介なのは言動及び日本語それ自体も、かなりアニメがかっていることだ。日本語を話すのには不自由はないのだが、無駄に滑舌がはっきりしていて、最初話したとき、声優がアテレコしてるのかと思ったほどだ。中身もかなり、じゃなくて、ほぼ手遅れ級にイタい。ぶっちゃけ見てくれ詐欺である。


「いいっ、痛い!もっと優しく出来るだろ!そんなにボクが気に入らないのか!?」

「何度も教えたじゃないか」

正直、立夏にはギターをあまり教えたくない。修士受けるために、バンドは辞めたから楽器は触らないと決めたのにぐいぐいそっちに引き戻される気がするからだ。

しかも、立夏は見様見真似で出来ないために結局、僕が指の形を作ってコードを追ってやることになる。その際、必然的に僕は立夏の指に触らなきゃいけないわけで。

「ふふん、やれば出来るじゃないか。ほらどうだ。ボクにも弾けたぞ」

「それはこっちの台詞だ。て言うかそろそろ指、離していいか?」

「わあっ、やめろよ。離したらF押さえられないだろ!?」

こいつ、わざとやってるのだ。恐らく血の繋がらない自分に手を出させるよう仕向けて僕を、告訴して不利な立場に追い込む気なのだ。絶対そうだ。さすが訴訟大国アメリカから来ただけのことはある。

「じゃあ次、このコード進行だ。(コードブックを開く)さあ、遠慮なくやってくれ」

「…なんでそんな偉そうなんだ」

とか突っ込みつつもそんな時に、やけに潤って艶めいた光沢のある長い黒髪が、しきりに僕にかかってくる。人形みたいに細長い手足や、軽くもたげた首のかよわさ。華奢だけど、意外に丸みを帯びた、まだ薄い身体の線とかもろもろ気になる。血迷う。

引きこもりの癖に、ちゃんとこう言うところは女の子してるのだ。シャンプーと何だか甘ったるい危険な匂いがするたびに、僕は全力でケインズ経済学及び日本の公共財政政策について組み立てた論理を考える。

日本の財政赤字は、二〇一三年度六月末でついに一千兆円を突破したのだ。

それはさておき。

母の再婚相手も在米邦人なので、立夏はまあ、ほぼ純日本人だ。しかしハーフと言う強化要素がないのに、このように外見は、びっくりするほどかわいいのは反則と言う他ない。これでイタくなかったら、間違いなく僕は、立夏を血のつながらない妹なんて扱いにはしなかっただろう。


「…よし、それじゃあついでに今度は歌詞の方を見てもらおうか」

「なんだよ、それじゃあ、って。こっちは勉強の途中だ」

A4のリングノートを差し出しながら、立夏は唇を尖らせた。

「そんなに邪険にするなよ貴教(たかのり)、まだ日本語が怪しいんだ。歌詞、チェックしてくれるって約束してくれたじゃないか」

ったく、外では電柱に隠れて歩いている癖に、なまじかわいいのをいいことに家では堂々お姫様気取りだ。貴教は僕の名前だが、思いっきり呼び捨てにしてくる感性も、欧米流、などと言う言葉では納得できない。たぶん、便利な小間使い扱いされてる。

立夏もかなり叱りつけて買い出しや風呂の支度くらいはするようになったが、後は基本、試験勉強に忙しいはずの僕に丸投げである。にしてもまさかこんな深夜、アニメ好きの義理の妹の書いた歌詞の怪しい日本語までチェックさせられるとは思わなかった。

「いいんじゃないか。大分ましになったよ。あくまで国語としてな」

「漢字も自分で調べたんだ!」

二秒ほど見て適当に言った僕に立夏は、誇らしげに言う。小学生か。

まあ最初、こいつが書いた日本語の歌詞を読むのは色んな意味で苦痛でしかなかった。文法的な問題はさることながら、その暑苦しい内容だ。ばっちり心から、感性がアニソンなのだ。いや、アニソンに罪はないのだが。

大体、『避け得ぬ運命のごう火』とか『燃えたぎる熱い正義の心』とか『強くにくむ悪』は、僕たちの日常生活にほとんど使用する機会がない文例である。まあアニソンで使えば違和感はないのだろうが、立夏の恐ろしいところは普通にそんな感性でラブソングなども、書いてしまうところだ。

「冴島りっか☆」

とか平仮名にすれば可愛い名前なんだから。歌えばいいのだ、もっと女の子女の子した、歯が軋むほど甘いラブラブ彼氏と自分大好きソングを。だが、こいつには無理らしい。立夏の感性では外の世界は、悪が蔓延る戦場なのだ。そしてどう転んでも悪を排除する正義の心で、運命で前世から決定された相手と吹き荒ぶ荒野で、拳と拳で語り合うようなアツい恋愛をしなくてはならないみたいだ。

「表現も大分上達したはずだ。今回から全編日本語のタイトルも、ものにしたぞ」

「ああ、この『境界線上の悪魔』ってやつね」

高度成長期時代の本格推理小説のタイトルみたいだ。恐らく新幹線とか飛行機とかの乗り換えを駆使した、アリバイトリックものに違いない。

「他のも読んでくれ。ほら、これも、こっちも。まだあるぞ」

と、次々にイタイ歌詞世界を展開してくる立夏。血のつながらない妹の手料理とあれば、無理しても食べるが、こういうのは最初のでお腹いっぱいだ。

「どうだ、貴教。ボク、才能ありそうか?」

「う、うん…」

確かにここまでやると、ある種の才能はある。それはたぶん、立夏自身が望んでない類のものだろうが。


まあそもそも、歌でも書いてみたらとギターを渡したのは僕だ。あくまで日本語の勉強と社会に出るリハビリの一環である。

話を聞くと立夏の引きこもりは、去年秋の終わりにアメリカから編入したての頃、歓迎コンパで日本人社会のデビューに失敗したのが主な要因のようだ。立夏は日本人のアニメ観を誤解した挙句、『イタかわいい』と言う、本人にはありがたくない、いじられキャラとして認識をされてしまったようだ。それが立夏にとっては、えらく不満らしい。

「みんな、ボクを誤解してるんだ」

と、立夏は今でも口癖のように言うが、結構向こうでもそうだったのがまた痛かった。黙ってれば可愛いのに、どこでも浮くキャラなのだ。たまに向こうの友達と話していることがあるが、それもたぶん一人か二人しかいない。

文化的難民と言ってもいい。立夏は、日本人とアメリカ人の境界線を右往左往していて何だか、いつまで経ってもどこにも居場所がないみたいなのだ。


「貴教、さっきから聞いていると内容に関するコメントがないな。ボクの歌詞観はこの三日間で、劇的な成長を見たはずなんだ。貴教に言われた通り漢字以上に頑張ったんだ。今回の歌は僕の内面や日常の些細な発見についても描けているはずだぞ?」

「ああ、この『HEART FULL OF MINE』って言う曲とか?」

「そうだ」

直訳すると、『地雷いっぱいの心』である。どんだけ地雷まみれな女なんだ、お前は。確かに内面は描けているかも知れないが、これでは一生友達が出来ない。

「要はこれ、話しかけてくるな、って歌だよね?」

「つ、次のはどうかな?」

「ああ、この『MAGGOTS IN MY MOUTH』ってやつ?」

『口の中蛆虫(うじむし)だらけ』、って歌だ。確かにロックだが、そんな日常を送っている奴はいない。埋葬されてんのか?

「日本に来てから、何だか口の中がむにゃむにゃするんだ」

「それは、ただの花粉症だ」

立夏にとっては日常の発見かも知れないが、普通にニッポンの常識だ。またもや惨敗だった。まあ、身内に本気の恥ずかしい歌詞を読ませる、って時点ですでに間違いなんだけど、コミュ障引きこもりの奴にそれは口が裂けても言えない。

「分かった。じゃあ、総評を言います」

面倒くさくなった僕はノートを閉じて言った。この調子で夜明けまでやられたら、堪らない。そもそも立夏の新しい歌詞については、総じてこの三つの感想で片がつくのだ。

「暗い、怖い、イタイ。冴島立夏先生の次回作に期待します」

それから立夏は口も利かなくなって部屋でヘッドフォン被って、アニメ動画を一気観し始めた。戦果は予想以上だった。まるで死人のように静かだ。それからはスムーズに勉強が(はかど)った。

しかし相手もさるもの、それで終わらなかった。明け方、小腹が空いて缶のミネストローネスープを温めようと思ったら、立夏に全部飲まれていた。缶は、三人分の分量だったはずだ。小食のはずの立夏が飲まなかった分はどこへ行ったのか。明確な意思を持った報復テロの可能性が高かった。


「なあ、聞いてくれ。昨日、練習をしながらちょっと考えてた。どうしたら、立夏ちゃんのいる部屋に、お前の代わりに住めるか、と言うことについてだ」

いつも思う。かつてバンドをやっていたばっかりに、僕はこんな奴に出会ってしまったのだ。ファミレスで会った途端、なんの前置きもなく北原光成(きたはらみつなり)は僕に、不毛な持論を展開しだした。

「最近な、事故で異世界に行くって言う展開が実写のドラマや映画とかでも、なんの違和感なくやってるだろ。要はあれって案外、ありうることなのかも知れない」

「んなわけあるか」

「まあ聞け。異世界があるとしてな、そこに行ったりすればさ、山とか海とかで失踪しなくてもいいし、何より上手くいけばお前だって死体にならずに生きたまま帰ってこれるんじゃないかと、俺は考えたわけだ」

「で?この鍵はどこの鍵なんだ?」

僕は奴の差し出した古ぼけたキーホルダーを拾い上げる。どうも異世界に行けるほど、大仰な造りのものには見えないが。

「ああ、それ。俺が前乗ってたスクーターの鍵。ブレーキ壊れてるんだ」

僕は振りかぶって、思いっきり奴にキーを投げ返してやった。

「んなの乗ったら普通に事故死するだろうが!」

「そうか、それは困る。死体が出たら後味悪いじゃないか。第一立夏ちゃんが可哀想だ」

「可哀想なのは、紛れもなく僕だ」

「で?見せてくれよ俺にも、立夏ちゃんの新しい詞」

スマホで僕が送った立夏があくびしている画像を眺めながら、北原は言う。こいつも色んな部分が重症だ。忘年会で奴を立夏のいる家に招くんじゃなかった。惚れやがったのだ。自分は僕と違ってそこそこ売れてるインディバンドとツアーに出たりして、女の子には不自由してないはずなのに、手近を漁るとは手癖が悪いにもほどがある。

「そもそもお前、付き合ってる子いたじゃないかよ」

「心配するな。あの子はいなくなってもらった。あの部屋を明け渡すことを条件にな。今、中野辺りに新居を物色中だ。お前が失踪したら、立夏ちゃんを受け入れる準備をしなくてはならないから大変だ」

「素直にフラれたし、彼女に家も追ん出されたって言えよ」

今は、実家にいるらしい。こいつの家は、国立の大地主だ。お蔭で奴は、二十四を控えて、立派な社会の落伍者を満喫している。こいつの内情を知って同棲をOKする保護者はまずいないだろう。実家は金持ちだが、要は純然たるヒモである。

まあ確かにギターは凄腕だし、ルックスはこの日本に場違いなほどにいい。しかし派手なのは見てくれだけで、中身はがたがたもいいとこだ。こいつも見てくれ詐欺男(さぎお)だ。まるで地方のバイパスによくある、パチンコ屋の大看板みたいな男なのだ。

「忘れてないよな。立夏ちゃんの引きこもりで困ってるお前に、音楽をやって人前に出る気持ちにさせてあげたらどうだと提案したのは、何を隠そうこの俺なんだ」

「ああ、お前が音楽にかこつけて立夏を口説くためにな」

見え透いた魂胆過ぎて、今さら、突っ込む気にもならない。野獣を招き入れる口実を設けたくないから僕がギターまで教えてやってるだけのことだ。

「んなこと言ってお前、上手くやってるんじゃねえの?じゃなかったらあの部屋にいる限り、あんな可愛い子が、いつまで経ってもノーマークだもんな」

「お前みたいな社会常識と性格が破綻してる人間に話しても判らないだろうけどな、こっちには切羽詰まった事情があるんだよ」

義理の父親に、僕はくれぐれも立夏のことを、と頼まれている。つぶしの利きそうにない経済学の講師生活に踏み切ったのも、この人の援助があってこそだ。

「いや、そこであえて手を出すのが、ロック、って言う」

「だからお前はいつも、宿無し金なしになるんだ」

ロックと言うより、無宿浪人(むしゅくろうにん)だ。立夏と僕の経済事情のためには早くこいつを、江戸八里処払いにした方が無難に思える。

「見たよ」

突然、北原が言った。こいつ、無駄話をしながら立夏の詞をすらすら読んでいたのだ。

「お前はぼろかす言うけど、大分いい感じになったと思うけどな。英語詞だって、元ネタ知らなきゃ結構かっこいいし、日本語の言葉選びだってその辺の女の子の感性とは違うのが分かる。かなりユニークだ」

特に、と北原は言うと、ページを一枚預かっていいかと提案してきた。

「これ、しばらく借りるぞ」

「いいけど、どうするんだよそんなん」

「訊くか、普通」

北原が持って行ったのは、『境界線上の悪魔』と言うタイトルの詞だった。


しかしまあ、根気よくやってはいるなあと思う。

立夏のことだ。最初、黙ってればかわいいと言う北原の言うことを間に受けてか、部屋から一生出ないでネットアイドルになる、と言う、しょうもない進路を選びそうになったので、僕があることないこと吹き込んで、何とか路線転換させたのだ。今もちゃんと、大学に行ってほしいと言うのが偽らざる本音だ。でも嬉しくはある。


「やだよ。ギターなんて。ボク、器用じゃないし、第一飽きっぽいし」

思えばこれが最初に僕が使っていたアコギとコードブックを渡したときの、立夏の第一声だ。

「歌は嫌いじゃないんだろ?」

家族として会ってから、僕たちは家族で何度かカラオケに行ったことがあった。そのときはむすっとしてほとんど歌わなかったが、来日してからしばらくは、憧れの一人カラオケを満喫していたようだ。

「楽器は弾けない、と言ったんだ。大体、貴教に教わるのか?偉そうなことボクに言っといて、貴教はちゃんと弾けるんだろうな?」

僕はその場で立夏の好きそうなアニソンのタイトル曲を、アレンジして演奏してみせた。立夏の顔が初めて明るく見えた。いつも仏頂面の立夏と、やっとちょっと打ち解けたかな、と思えたのは、唯一そのときだと思う。


一般的に初心者がつまづくFの壁で右往左往しているくらいだから、ギターの腕はまだまだだけど、立夏は声が通る。独りカラオケに行ってるだけあって、歌の上手さには安定感があるのだ。

思ったより、向いてはいるんだろう。

しかし立夏の歌が上手すぎることによる、最大の弊害を僕は被っている。

何より気持ちに響くのだ。壁越しに熱唱されると立夏の暗く、怖く、イタイ歌詞が。勤め人ばっかのアパートなので、昼間は思いっきり歌いやがる。するとてきめんだ。

こっちまで気が滅入ってくる。

「お前、明るくなれ」

無理を承知で部屋に乗り込んで言ったら、ギターを抱えたまま、立夏は目を白黒させていた。

「そっ、そんなの無理だ!」

「無理じゃない。出来るはずだ。もうちょっと、顔と名前に見合ったキャッキャウフフした歌詞を書くんだ。ネットアイドルになるつもりだったんだろ?お前の歌を聴いてると、こっちまで巌窟王(がんくつおう)にでもなった気分になる」

夕方、立夏が歌詞を書いてきた。無理な作り笑顔が痛々しかった。ネットアイドルは無理だ。ちなみに渡されたノートには新曲『毎日死にたくなるほど辛いけど、あなたが好き☆』が書かれていた。しかしこれが読んでいて、ちっともときめかないばかりか、目から止めどなくしょっぱい水が出そうな怪作だった。僕は諦めた。やっぱりどうあがいても、見てくれ詐欺子(さぎこ)ちゃんがこいつのキャラなのだ。


花粉症の季節が過ぎても、Fのコードにつまづいても、立夏は脇目も振らず練習をしている。引きこもりだけにその練習量と集中力は凄まじいものだった。頼むから、そろそろ学校に行ってくれ。

そんな僕の想いとは裏腹に立夏は短い間にみるみる上達していった。

元々安定感があった歌も、少しなら弾き語りしながら歌えるようになってきたし、新しいコード展開にも果敢に挑戦しているようだ。

そこで一つ、困ったことがある。

立夏の主な練習場所の自室が、僕以外の人間もばっちり住んでいるアパートだと言うことだ。上手くなると練習は余計長く、歌はよりうるさく、時間帯を問わなくなってくる。そろそろ苦情が回るに違いない。

そんな心配をしていた矢先、北原から連絡があった。

立夏に、自分が出入りしているリハーサルスタジオに来てほしいと言うのだ。


ところは、三軒茶屋だ。

嫌がる立夏をだましてすかして連れて来たが、雑居ビル地下のスタジオのブースが、立夏にとって電気生楽器、初めての洗礼になった。

「よう、立夏ちゃん。久しぶり元気してた?」

入るなり、漆黒ボディのポールリードスミスのギターを首からかけた北原がこっちに歩いてくる。ぴったりとしたジャケットを着た北原は、ルックスも雰囲気も浮世離れしている。立夏は自分も浮いている癖に、警戒心を隠さなかった。

「だっ、誰だあんた!?」

しかも憶えてない。北原のこと知ってるからついてきたんじゃないのか。

「ひっどいなあ。ま、いいか。立夏ちゃん、冴島の妹、義理ね」

またざっくりした紹介を、北原はする。

「北原さんいつものコレかと思ったら(北原は嘘大げさ紛らわしいの言動がすごく多いのだ)、すっげえかわいいじゃないですか。え、なになにギター始めたばっか?」

皆一気に興味津々だ。面子は、北原が出入りしているインディバンドのメンバーたちのようだ。北原が吹き込んだらしく、立夏が目当てで参加してくれたらしい。見た顔ばかりだ。

「だっ、だましたな貴教!全然知らない人ばっかりじゃないか!?ボクは、センサイで傷つきやすい引きこもりなんだぞ。皆で、寄って集ってボクに何する気だ!?」

「繊細、って漢字で書けるようになってから言えよ」

突然色んな人に話しかけられて、立夏は半狂乱だ。やっぱ連れてくるんじゃなかったかな。北原は僕の心配もよそに、上機嫌の極みだ。

「どう、ギターの方は。上達してる?」

「あ、あんた、なんでそれを知ってるんだ」

北原は僕を睨んで、激しく舌打ちをした。教えてたまるか。

「ここさ、思いっきり練習できるからやってきなよ。壁のうっすい貴教の貧乏アパートだと、騒音とか大変だろ?」

「だからあんた、どうしてそれを知ってるんだ?」

開放弦のGで、北原は立夏の怪訝そうな声を吹っ飛ばして見せた。生のアンプから飛び出すエレキギターの音の圧力に、立夏は思わず身を縮こまらせた。

「わっ、なにするんだいきなり!?」

そのまま指鳴らしをした北原はドラムスにカウントの合図をして言った。

「まずはちょっと、おれらの練習だけさせてくれ」


それから二曲、ぶっ続けで演奏が始まった。

さすがに何枚もアルバムも出している面子だ。新曲らしかったが、ほとんどつっかえたり、戻ったりすることなく、そのまま曲として聴けた。アンプからの容赦なしの爆音で会話も出来ないので、立夏は無言だ。でも、感想は不要だった。

「すごい」

顔がそう言っていた。僕が立夏にギターを弾いて見せたときと同じ顔をしていた。

「どうだった?」

得体の知れない北原に嫌悪感すら抱き始めていた立夏だが、演奏が終わる頃には、対応が一変していた。北原がマルボロの箱を取り出したら、ライターじゃなくておずおず灰皿を差し出していた。よく分からないリスペクトだった。

人間としての需要は限りなくニッチだが、北原はバンドマンとしての需要は引く手あまたなのだ。立夏ほどの初心者でも、北原の凄さは肌で実感出来たに違いない。

「次、やっていいよ。ギター持ってきたんだろ?どんな曲?」

ぶんぶんと、顔の前で手を振って立夏は遠慮した。

「さっ、最後までまだちゃんと弾けませんから。ボ、ボクなんて初心者ですから」

敬語になってる。て言うか、敬語使えたのか。

「おれら、演奏するから、歌だけでもいいんだよ。やってみ。カラオケで歌うのと、かなり勝手が違うから」

ぶんぶんとかぶりを振った後、立夏は救いを乞うような目で僕を見てきた。

「なんだよ。誰にも文句言われずに、思いっきり歌いたいんだろ?」

「そっ、そうだけど!恥ずかしい…こんなすっごいとこ、ボク、下手なのに」

躊躇する立夏に僕はアコギをケースごと渡してやった。

「いつも練習してるみたいにやればいいだろ。みんな、そっぽ向いてるから」


そう言われて、立夏はようやくじゃかじゃか弾き出した。最初は調子が出なかったが、やっていくうちに集中しだしたのか、家でやっているように、コードを弾きながら精一杯声を張って歌いだした。

「思ったより、すごいじゃん」

北原は立夏にばれないように、こっそりその様子を覗き見ていた。

「ああ、様にはなってきたな。そう言えば昔、父親にマンドリン習ってたんだってさ」

「馬鹿、違うよ。歌だ」

北原は苛立たしげにあごをしゃくった。

「あれなら、ましなものが出来るかも知れない。かなりましな、な」

ひとしきり弾かせた後で、立夏を呼んで北原は魂胆のある笑みを浮かべ、

「次、ちょっと見てなよ」

と、言ったが最後。


五分後の立夏だ。半分、気絶していた。肩掛けしたギターのストラップが、ずり落ちていた。

「な、何、この曲…?」

北原が演奏したのは、僕も今までに聴いたことのない楽曲だった。歌詞なしの仮歌(しかも北原の似非英語だ)なのに、得体のしれない力があった。一発で耳に入る魅力と、一歩気圧されるほどの迫力を兼ね備えていた。

「自分でもびっくりだ。立夏ちゃんのお蔭さ」

北原は言うと、コード譜とルーズリーフが入ったクリアケースを手渡した。

「これ…?」

目を丸くする立夏に、北原は言った。

「この曲は『境界線上の悪魔』だ」


さすがの立夏も興奮を隠せなかった。

「これ…ボクの詞で作った曲…?」

「ああ、君の詞で俺が作ってみた」

これには僕もびっくりした。立夏の詞を持って行って何をしていたのかと思ったらこいつ、作曲していたのだ。しかも、すでにパートのアレンジまでしてあるとは。

「でもね、この曲、一つ問題点があるんだなあ」

北原はクリアケースを立夏に返すと、悪戯っぽくうそぶいた。

「この詞じゃメロディに乗らない。だから、仮歌を入れてあるんだ」

「ボ、ボクが書いた詞で作ったんだろ!?」

「うん、イメージでね。でもさ、あくまでイメージだから。つーかそれね、使えないんだ。ぶっちゃけボツだから立夏ちゃんに返すわ」

「ひっ、ひどいっ!利用するだけ利用して、いらなくなったらポイかっ…あんた、やっぱり最低の男だなっ!?」

大概当たってる。そのせいか、誰もフォローする人間はいなかった。

「まあ聞けよ、立夏ちゃん。それでも俺は、紛れもなく君の詞でこの歌を書いた。でもつまりはさ、その詞はまだこの曲に追いついてないんだ。他の歌詞も、俺は冴島からもらって見てるけど、君はもっと書けるはずだし、もっとこの曲を活かすものが出来るはずなんだ。だからまずこれは、君のパスからの俺の返答として聞いて欲しいからやってみた。どうだ、君は?この曲は自分の詞のイメージとは、全然的外れだったか?」

立夏は大きくかぶりを振った。

「そんなことない。…それに、かっ、かっこ、よかったよ、あんたの曲」

北原は薄気味悪いほど、にんまりした。

「そうだ、そう言うことはどんどん言ってくれ。俺は天才だからな。でも確かに、君の詞がこいつを生んだ。だからこれは立夏ちゃんの曲なんだ。で、産み出したら今度は育ててあげなくちゃ。それとも何か、君は生んだ子供を育てもしないで、子育てポストに置いてくるような、そう言う奴なのか?」

立夏は黙ったまま、また強くかぶりを振った。

「いいだろう。しかも、こいつはすっげえ奴に成長するかも知れないんだ。それには立夏ちゃん、君の詞に懸ってるんだ。どうかな、やる気出ただろ?」

息を呑んだ立夏は意を決したように、拳を握った。

「詞を…もっといい詞にすればいいんだろ…?」

「ああそうだ。それね、立夏ちゃんにしか出来ないんだ」

「ボクに出来るかな…」

歌詞を突っ返された立夏は、すがるような目で僕を見た。僕にどうしろと言うのだ。

「しめろよ、そこは。冴島、最後になんとか上手いこと言えよ」

「なんで僕が…」

仕方なかったので、僕は適当にしめた。

「冴島立夏先生の次回作に期待します」

グーで立夏に殴られた。


帰ってから立夏は、ずっと部屋に籠りきりになった。北原がくれた仮歌の入った演奏データをiPodに入れるとヘッドフォンをし、お供の電子辞書を片手に、うんうんいいながら、トイレ、キッチン、バス、部屋、と言う自宅警備員の黄金巡回ルートをゾンビのように往復するそんな毎日。僕との会話は一切ない。以前のような騒音に悩まされることはなくなったが、これはこれで、精神的にきつかった。

「立夏、お前、大丈夫か。いいんだぞ、そんなに頑張らなくても」

僕はある日、堪え切れなくなって立夏に声をかけた。

「…引きこもりニートよりましだろ」

せっかく僕が作った上出来のポトフをぞんざいに啜りながら、立夏は死んだ魚の目で言いやがった。

「あのなあ、現状は何にも変わってないぞ」

北原の宿題は学校の課題でも、レポートでもないのだ。保護者代理の僕としてはどちらかと言えば、そっちを頑張ってほしいし、そもそも大学に行ってほしい。

「お前、バンドやりたいわけじゃないだろ。ギターやり始めたけど、人前はやなんだろ?」

「うん、そんなの想像しただけで吐きそうになる」

「しかもバンドなんて、ステージに立って演奏するんだぞ?お前に出来るか?ギター持って、お客さんと話して。それもやるとしたら、あの北原とだぞ?」

「ばかっ、あんなちゃらい奴とどうしてボクが!?」

だからいい加減諦めてほしいのだが、立夏はなぜか聞く耳持たない。

「…そう言う問題じゃないんだよ。だってあれはボクの曲、なんだろ?だったらボクが育てなくちゃじゃないか?」

そう言われると、さすがに僕は言葉に詰まってしまった。僕だってなまじ、バンドをやっていたから。確かに曲りなりにも、立夏の詞は初めて評価されたのだ。義理の兄の目から見ても、この日本に来て立夏の数少ない嬉しかったことだとは思う。

「あの曲、ボク好きなんだ」

「…まあ、北原が作ったにしちゃ、あの曲はいい曲、だとは思うよ。でも立夏、あれはさ、たぶん、北原がバンドのために書き下ろした曲でさ」

「言われたよ」

そうやって、と立夏は僕の言葉を遮って言った。

「詞が完成しなかったら、今のバンドのメンバーに頼むって。そいつが歌詞を書いて発表するんだって」

「だったらいいじゃないか」

立夏は頑なに、かぶりを振った。もうこうなったら、勝手にしてくれだ。

「まったく。じゃあ、どうしたいんだよ?歌いたくないけど、詞だけは書きたい、ってそう言うことか?」

「別にいいだろ。あいつと、勝負なんだ」

真剣な声で立夏は、言った。

(勝負、か)

僕は呆れて物も言えなかった。

要は北原の挑発に、意地になっているのだ。やってくれたものだ。いくら音楽をネタに北原が立夏を落とそうとして、やる気にさせようと考えているにしたって、やり過ぎだと思う。そもそも、この素人に毛が生えたような立夏をバンドに入れる気など、北原は毛頭ないはずなのに。

「分かったよ。やれるだけ、やってみればいいじゃないか」

仕方なく僕は言った。歌詞も、演奏も北原の水準にかなうとは到底思えないが、確かにやることがないよりはましだ。現実の壁にぶち当たれば、限界を感じて学校にも行くと言い出すかもしれない。

「やってみるさ。ボクにだって意地があるんだ」

カイワレかスプラウトくらいの貧弱な意地の癖して。でも生えてない芽よりは、ましかも知れない。

「まあがんばれ、それじゃ」

「それじゃじゃないよ!?貴教、冷たくないか?引きこもりニートの義理の妹が、やっとやる気を出してやりたいこと見っけたのに、なんにも応援してくれないのか?」

「応援って…」

それはむしろ、僕の方がもらう立場な気がするが。修士課程の試験だって、この秋口に迫っているのだ。本来、立夏のイタイ歌詞にダメ出ししている暇だってないのだ。

「パパに言うぞ。貴教が受験勉強のストレスで、毎日ボクにセクハラしてくるって」

「うわああっ、おまっ、それっ」

言っていいことと、悪いことがあるぞ!?

「ふふん、どうやらやっと分かったみたいだな。この家の本当の主は誰か」

「それは紛れもなく僕だ」

家賃一銭も払ってない奴が何を言う。

「いいんだぞ、パパに貴教は、えっちな日本語しか教えてくれないって言うから」

「分かった、分かったよ。今まで通り、詞はチェックしてやるし、ギターは教えてやるからっ、それで手を打て、なっ!?」

「それじゃ、今までと同じだろ。ボクが北原に勝ったら、何かご褒美くらいもらわないと」

「つけあがるのもいい加減にしろよ、お前…」

八百屋のおばちゃんにもびびって挨拶出来ない癖に、どんな態度の豹変だ。

「あ、今日パパとママとスカイプで話すんだ。何か欲しいもの考えておけって言われてたんだよなあ♪下着を送ってもらおうかなあ。最近、知らない間に無くなっちゃうんだよね~♪」

「根も葉もない嘘を拡散するのはやめろ!」

洗濯物は分けてるし、僕は立夏の下着に手も触れてない!

「分かったよっ、約束してやるよ。もし北原に勝ったら、立夏の言うことなんでも聞いてやるからっ」

勢いに負けて僕が言うと、今度は立夏の目が点になった。

「なん…でも?」

妙な奴だ。自分でねだった癖に、立夏は信じられない、と言う風に訊き返してきた。

「ああ、何でも(どうでも)いいよ」

この場を逃れるには、差し当たりこう言うしかなかった。どうせ何でもって言ったって、立夏の欲望はたかが知れているのだ。森の小動物並みだ。例えばアニメイトで気の向くままに買い物をするか、大好きなお寿司(サビ抜き)を桶でとるかくらいに違いない。どっちにしても僕のただでさえ薄いお財布が痛むが、ここは、背に腹は代えられない。

「その代りお前、気が済んだら学校に行けよ」

「あっ、ああっ…ああっ、いいともっ、行くともっ!」

立夏はなぜか奮い立った。

「でもなあっ、忘れるなよ。ボクが北原に勝ったら、貴教はボクの言うことなんでも聞くんだからなっ!」

「ボツったら、学校に行くんだぞ」

「いいだろう!だがなっボクが北原に勝ったら…」

と言うような不毛なやり取りを繰り返し、僕の受験はますます不利になっていくのだった。


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