麗らかな春
「誠に僭越ではございますが、乾杯の音頭を取らせていただきます。勇気君 、愛さん、ならびにご両家のご親族の皆様には心よりお祝いを申し上げます。それでは、お二人の末長いお幸せとご両家ならびにご臨席の皆様のご健勝とご多幸をお祈りいたしまして、乾杯!」
今まで仕事柄たくさんの結婚式を見てきたけれど、今日ほど辛い日はなかった。
しかし、今はそんな事を考えるべきではない。
幸せそうにグラスを手にして腕を組み、カメラに笑顔を向けている新郎新婦には関係のないことだ。
私は今、自分のするべき事をするだけ。
前菜の皿を持てるだけ持ち、担当のテーブルにサーブしていく。
***
私は今日、結婚式を挙げている筈だった。
1日1組限定の洒落たゲストハウスを10月の大安吉日の土曜日に予約するのは結構大変だった。
料理も、引き出物も、演出にもこだわって、招待客に「さすがだね!」なんて言われる結婚式になる筈だったのに。
ドレスも、オーダーで仕立てるためデザインの打ち合わせを何度もしてやっと採寸、後は出来上がるのを待つだけだったのに。
エンゲージリングだって、マリッジリングだって何件も何件も店を回って、こだわってやっと決めたのに。
友人や家族、親戚や上司に「おめでとう」って祝福される筈だったのに。
実際は、他人の披露宴で配膳のアルバイトをしている私。
虚しい。虚しすぎる。
八重山 麗。29歳。
あと数ヶ月で30歳になる。
専門学校卒業してから9年間、ウェディングプランナーとして働いてきたが半年前に退職。
勤め先は2回ほど変わっているが、プランナーとして多くのカップルの結婚式に携わってきた。
半年前に、いわゆる寿退職というやつをした筈だった。
職場の仲間に、お祝い兼送別会までしてもらったのに。
有給消化中に、事件は起こったのだった。
***
私は自宅マンションで引越しの準備をしていた。
かつて、両親と姉と住んでいた3LDKのマンション。
5歳年上の姉はもう10年以上前に結婚して家を出ているし、両親は3年前、定年で退職したのを機に憧れだった田舎暮らしを始めた。
両親がいなくなった代わりに、うちに転がり込んできたのは恋人の博之だった。
博之は、高校時代のクラスメイトで私がずっと片思いしていた人。
成人式の時に再会して、当時はお互い別の恋人がいたのだが、私は性格の不一致で直後に付き合っていた彼と別れた。
その後、博之の恋愛相談を受けるうち、お互い惹かれあってしまい、私と博之は付き合うようになった。
付き合って6年目で26歳にもなれば、結婚の話も出てくるわけで、同棲に関しても、両家の両親からあっさり過ぎるほど簡単にOKがもらえた。
マンションのローンは払い終わっていたし、両親は私に甘かったため、家賃らしい家賃も払う必要はなく、その分を結婚資金に回して、3年後を目処に入籍、結婚式を挙げる約束をした。
同棲して2年経った頃、博之が転勤となり、離れて暮らすことになった。
その半年後、つまり今から約1年前には結納を済ませた。
結婚式は、博之の住む街で挙げる事になっていた。
博之の父の実家がそちらで、親戚が多く住んでいることや、博之の仕事関係の人も招待しやすいから…という理由で。
結婚式の準備をスムーズに進める為、私は結婚式の半年前に仕事を辞め、博之の住む街へ引っ越すのだ。
私の住んでいたマンションは、築20年程だが、立地が良く、いずれは地元に帰ると言う博之の希望もあったので、手放さず、私たちがいない間は人に貸すことが決まっていた。
結婚式場の予約は式の1年半前におさえ、指輪も、ドレスも、新居も決まっていた。あとは引っ越して、それから諸々の準備を進めるつもりだった。
***
その日、私は3日後に迫った引越しに向けてせっせと荷造りをしていた。仕事を辞めてすぐは、地元を離れるということで、友人に会う約束が続いており、手付かずで、ここ数日は寝る間を惜しんで荷造りや大掃除をしていた。
確かその日は土曜日で、近所のベーカリーで土日限定で販売されているパイを買って、遅めの昼食にしていたんだ。
来客の予定もなかったのに突然鳴ったインターホン。
訪ねてきたのは、博之と博之の両親。
明らかに様子がおかしい。
いつも優しい笑顔の博之の父の顔は今までに見たことがないほどに険しく、いつも綺麗にしている博之の母は、髪が少し乱れ、メイクが崩れ、目も腫らし、酷く疲れ果てた顔をしていた。
そして、博之の顔には大きな痣ができていた。
「片付けの途中で本当に散らかっていますが…。」
謙遜でもなんでもなく、本当に散らかっている家に博之の両親を招き入れるのは気が引けたが、玄関で立ち話というわけにも、近所の喫茶店でお茶でも…という雰囲気でもなかったので、ダンボールだらけの部屋へ案内した。
その部屋を見た途端、博之の母は取り乱し、号泣してしまった。
そして、博之の父は、博之の頭を床に押しつけると、父本人も土下座で謝り出した。
私一人が状況を飲み込めず、呆気に取られていた。
「麗ちゃんには本当に申し訳ない事をした。」
博之の父は頭を下げっぱなしだった。
「あの…頭を上げて頂けませんか?一体、何があったのでしょうか?」
私がそう言うと、博之の母は余計に酷く泣いてしまった。
顔を上げてもらった博之の父も涙を流していた。
「博之との結婚の話をなかった事にして欲しい…。」
まるで死刑を宣告された様な気分だった。
後ろから頭を思いっきり殴られた様な衝撃。
気がつくと、私は病院のベッドの上で点滴を打たれていた。
そばには私の両親と姉がいた。
過労と心労だと言われた。
その後、数回に渡り、私の両親と博之の両親との間で話し合いが行われ、私と博之の結婚の話は白紙に戻った。
私が博之に会うことは無かった。
***
博之は浮気をしていたらしい。
転勤して半年後、丁度今から1年前、結納を済ませた直後から。
相手は、9年前に別れた元彼女だった。
転勤先で再会したらしい。
私が、かつて博之から相談を受けていた彼女だ。一応、博之とその彼女がきちんと別れてから私と付き合いだしているが、「別に好きな子が出来た」と言う理由で博之は分かれているため、彼女からしたら取られた彼氏を取り返しただけ。
その元彼女は、博之の幼馴染み。
ご近所で、親同士そこまで仲が良いわけではないものの、それなりに付き合いがあるらしい。
そして、彼女は博之との子供を身籠っていた。
それを聞いて、私の両親も白紙に戻すことを了承したそうだ。
私は、結婚を決めてからの3年間、2人で一緒に貯めた貯金全額を受け取った。半分は元々私のお金。残りはいわゆる手切れ金。
しかしそれと引き換えに様々な物を失った。
大好きな博之。
幸せに満ちた結婚生活。
憧れの結婚式。
悩みに悩んで選んだ指輪。
オーダーメイドのドレス。
夢。
希望。
仕事。
住む家。
仕事は今までの経験を活かしてプランナーの仕事を探す事も考えたが…婚約破棄された私では縁起が悪すぎて雇ってもらえないだろう。
この家は、住む人が決まり、契約を済ませて入金までされている。
今更やっぱり貸せませんなどとは言えない。
博之の荷物は、博之の両親に来てもらい、引き取ってもらった。
博之との思い出も処分したら、私の引越しの荷物はすごく少なかった。
両親は一緒に暮らそうと言ってくれたが、田舎に行って仕事がある訳でもなく、知り合いがいる訳でも無いのでずっと一緒に暮らすことは断った。
しかし、しばらくは両親の世話になる事になった。こんな事があったのだから1人にしておいて自殺でもされたら困ると半ば強制的に連れて行かれることになったのだ。
私の荷物はとりあえず、私の生活の目処が立つまで姉の家に置かせてもらうことにした。
長年住んでいた家を出て、両親の元で1週間ほど過ごした頃には、随分落ち着きを取り戻していた。
仕事柄、何度か私の様なケースを見ていたので、どうしたら良いかは把握していたし、するべき事がありすぎて、感傷に浸っている暇はなかったからだ。
そして、何よりも、元はといえば、私が彼女から博之を奪ったのだという事実が引っかかっていた。
きちんと段階を踏まえてから付き合ったとはいえ、博之に恋人がいるうちに惹かれあってしまっていたし、別れた直後から付き合い始めたのだから、言い訳なんて出来ない。
結局、自分がしたのと同じ事を相手にされただけ。
自業自得。
身から出た錆。
そんな私が嘆き悲しんで良い訳なんてない。
***
婚約破棄から1カ月ほど経った頃。
私は、結婚式に招待する予定だった元上司や友人、親戚を訪ねた。
諸事情により、という何とも歯切れの悪い理由で結婚を取りやめた事を伝えたのだが、友人や親戚は既に話を聞いていたのだろう。
皆、それ以上の事は聞かず、「きっともっと良い人が見つかる」だの、「籍を入れる前に分かって良かった」だの言われた。
元上司だけは、
「まぁ、珍しい事でもないしね。それより、今後の仕事はどうするの?」
そう言って、今後の心配をしてくれた。
「もうプランナーは出来そうにありません。」
雇ってくれる所が無いということ以上に、私の精神面を考えるととても無理だ。
「そうよね。何か困った事があったら言って。飲食のサービスなら紹介出来るかもしれないし。」
***
その後、私は姉の家に居候させてもらい、アルバイトをしながら仕事を探した。
結婚式場の配膳のアルバイトを決めた時には、両親も姉夫婦も絶句したが、派遣で割と自由がきくことと、今までの経験を活かせる事、時給がいい事を説明すると、どうにか納得してくれた。
中学生の姪っ子に本気で心配された時には自分が情けなくなってしまったが、イマドキの中学生のませた発言は面白くて、思わず笑ってしまった。
そんな生活を続けながら就職活動をしているうち、来月からのレストランのサービスの仕事が決まった。
偶然にも、元上司の知り合いが採用担当者で、口利きをしてもらったわけではなかったのだが、履歴書と退職理由で、「君が噂の…」と言われたところを見ると、元上司が私の事を世間話レベルであるが話していたらしい。
再就職先の近くに、単身者用のマンションを借り、一人暮らしも始めた。
仕事が始まるギリギリまで、私は相変わらず結婚式場のアルバイトしていた。
そして、自分が結婚式を挙げる予定だった日に、敢えて仕事を入れた。
これに対して、両親と姉夫婦が絶句していたが、私には確固たる理由があった。
その理由を彼らには話していない。
「やだなぁ…すっかり忘れてたよ!」
なんて明るく笑い飛ばしてごまかした。
予定がなかったら、博之の結婚式に乗り込んで滅茶苦茶にしてしまいそうだから…なんてとても言えない。
***
それから冬がやって来て、新しい年になった。
年明けに、高校時代のクラスメイトと集まって飲む機会があった。
博之はいなかった。
「そう言えば、博之、子供産まれたらしいなぁ。」
私と博之に結婚の話があった事を知らない浅井くんは呑気にそう言った。
この席にいる、大半が知っていたので、その場の空気が一気に凍りついた。
それにすら彼は気付いていない。
高校時代から、天真爛漫すぎて空気が読めない、結構いい奴なんだけど残念な男。
「博之の同僚がたまたま知り合いでさ、そいつから聞いたんだけど、長いこと付き合って、結納まで済ませた彼女がいたのに、浮気相手だった今の奥さんの妊娠で婚約破棄したらしいぜ?」
皆の顔色がどんどん青くなっていくが彼は気付かない。
「なんかさぁ、その別れた彼女と挙げる予定だった式場で、挙げる予定だった日に結婚式挙げるとか、奥さんも良く耐えられるよな。もっと酷いのはさ…これ、奥さんも知らないらしいんだけど…」
彼は少し声のトーンを落とした。
「婚約指輪も、結婚指輪も未使用だけど使い回しなんだって。偶然にも、サイズもイニシャルも一緒だったから…別に使ってないんだから合理的だろ?ってその同僚に博之が言ってたらしいぜ?結構最低だよなー。」
彼の笑い声だけが響く。
「奥さんの名前、『海夏』さんって言うらしいんだけどさ、イニシャルがUなんてなかなかいないよな。俺の知り合いでも…八重山しかいねぇし。っていうか、冬田 海夏ってシャレみたいな名前だよな。名前の中に冬と夏って…マジないわ。」
彼はこの場の重い空気に気付かず、私がその指輪を貰う予定だった事も知らない。
「本当にすごい名前だよね。それに『う』から始まる名前ってあんまりいないよね。梅子とかウメとかおばあさんにはいそうだけど。」
私は満面の笑みで彼に言った。
博之は合理主義だ。
それにしても、まさかここまでとは思っていなかった…。
結婚式場をキャンセルするのにもお金がかかるし、気候も時期も丁度良いし、妊娠中の彼女と一から会場を探して準備をするのは彼女の負担にもなるし面倒だから…と私が気に入って選んだ洒落たゲストハウスで式を挙げたらしい。
新居だって、もう敷金も礼金も手数料も払っているからと、私と住む予定だったところで暮らしているそうだ。
おそらく私と一緒に選んで買い、新居に届くように手配した家具や家電もそのまま使っているはず。
でもまさか、エンゲージリングとマリッジリングまでそうだったとは思わなかった。
「その同僚によるとさ、婚約破棄した彼女の方が断然美人で家事全般も得意だったらしいぜ?そいつ、手料理食べたことあるらしいんだけど、元彼女のは超美味かったって。奥さんは…結婚式の写真見せてもらったけど…まぁ良くて中の下だな。カエルに似てる。しかも飯マズって博之どうしちゃったんだろうな?」
「きっと夜のお相手が上手だったんだよ…。浮気して妊娠させちゃうくらいだもん。」
「八重山、お前結構言うことキツイな!そんなキャラだったっけ?すげぇウケるけど…。」
「うん、昔からこういうキャラだよ?」
私は浅井くんと大爆笑した。
皆は苦笑している。
私の中で何かが吹っ切れた。
きっと、私と博之は結婚すべきじゃなかったんだ。
おそらく、彼の合理主義な所についていけなくて、遅かれ早かれ結婚生活は破綻する事になるのだろうと思った。
式場と新居の件でも引いていたのに、私の思いが詰まったエンゲージリングとマリッジリングをそのまま使い回す男なんてこちらから願い下げだ。
「浅井くん、ありがとう。なんかすっきりしたよ。笑い飛ばして元気になった。皆、ごめんね。もう大丈夫だから。」
「よくわからないけど、まぁ、楽しく飲もうぜ!」
私の心からの笑顔で場の空気も和み、その後は皆でワイワイ楽しく飲んだ。
浅井くんが未だに気づかないのに、皆が呆れていた。
***
「昨日は本当にどうなっちゃうかと思ったよ…浅井くん、相変わらず空気読まないよね。」
「でも、逆にそれが助かったよ。リングの使い回しは流石に引いたし、一気に冷めた…。事実を知って、随分吹っ切れたし。良いきっかけになったと思うよ。」
「それなら良かったけど。」
「それに…あまりに合理的すぎて…元々そういうところあったけれど…想像をはるかに超えていたし…。もし、博之とあのまま上手くいって結婚しても、いずれそういうところは受け入れられなくて何かしらのトラブルになってたと思う。それに元はといえば、彼女から私が奪った訳だし。」
昨日の飲み会に誘ってくれた貴子とショッピングモールをブラブラしていた。
彼女は私の親友で、博之との事をほぼ全て知っている。
「それ…実は違うんだって。9年前、麗が奪ったんじゃないよ。博之が振られたんだよ。」
「え?…博之は振ったって…。」
「実は、カッコ悪いから黙ってろって言われてたんだけど…もう時効だよね?本当のところは、彼女の方に他に好きな人が出来て振られたらしいよ。」
私の知らなかった事実。
そんなくだらない博之の見栄のせいで、私は苦しんでいたのかと思うと、馬鹿馬鹿しくて情けなくて笑うしかなかった。
「麗?大丈夫?」
貴子には本気で心配されたけれど、私は平気。もう未練なんてものはない。
こうも簡単に消えてしまった事に自分でもびっくりした。
その時、前方から、まだ首も座っていない様な赤ちゃんを抱いた女性と博之が仲睦まじ気に歩いてきた。
博之の奥さんの海夏さんに会うのは初めてだった。
写真ですら見た事がなかった。
浅井くんの「カエル似」という表現がしっくりくる、小柄で、産後間もないせいかぽっちゃりした女性だった。
「あ…久しぶり。」
無視されるかと思ったら、博之は声をかけてきた。
「うん、久しぶり。」
私は、ごく普通に返した。ただの顔見知りに会った時のように。
「あの、これ、嫁の海夏とこないだ産まれた息子。柊って書いてシュウって言うんだ。」
奥さんに促され、博之は奥さんと子どもを紹介してくれた。
海夏さんは、私が彼にとってどんな存在なのか知っていたのだろう。軽く会釈をすると、余裕たっぷりの笑顔で私に微笑みかけた。
「産まれたんだね。おめでとう。…ご挨拶が遅れました。海夏さん、初めまして。冬田くんと高校で同じクラスだった八重山です。」
そんな当たり障りのない挨拶をした私が意外だったのか、海夏さんは少し不服そうな顔をしていた。
他に話す事もなかったので、適当に理由をつけて別れた。
彼女の左手の薬指には、2つの指輪が輝いていた。
それは紛れもなく、私が悩みに悩んで選んだ指輪だった。
やっぱり、重ねづけしたら綺麗だな…。重ねて付ける事を前提に選んだそれは、2つの指輪なのにも関わらず、まるで1つの指輪であるかのように、ダイヤが美しいカーブを描いていた。
「あれが噂のリングね…。」
私の拘りも、思いも貴子は知っている。
マリッジリングの内側には、溝があって、そこに毎年、小さな石をはめ、増やしていこうねと約束していた事も。
実際、奥さんの指にはめられた指輪を見たら、博之と私は性格的に合わないのだな…と思う冷ややかな私がいた。
長く付き合っても、同棲しても、分からないものは分からないのだという事を知らされた。
冷静で、理論的で、のめり込んだら周りが見えなくなる事もあったけれど、優しくて、真面目な博之が大好きだった。
大好き『だった』のだ。
甘くもなければ苦しくもない。
すごく気持ちが楽になっていた。
昨日、飲み会に参加するまでは、博之に会うことも、まして奥さんと挨拶を交わすことなど、恐ろしくて考えられなかったのに。
そこには、とてつもなく大きな恐怖と苦しみ、そしてほんの少しの甘さがあるだけ。
ほんの少しの甘さのために博之に会いたいと思う程、私には勇気も度胸もなかった。
でも、やっぱり心の何処かでは寂しくて、会いたくて、やり直せたらどんなに良いだろうと思う自分もいた。
それが今は微塵も感じられない。
私と博之は他人。
ただそれだけ。
「麗…少し良いか?」
貴子と別れ、1人でブラブラしていると、声をかけられた。
博之だった。
コーヒーショップでラテでも飲みながら少しだけ話す事になった。
今までの経緯と、謝罪の言葉を改めて彼の口から聞いた。
彼は海夏さんに堕胎させ私と結婚するつもりだったと聞いた時には寒気がした。
今でも忘れられないと言われたが、どうしろと言うのだろうか。
愛人になれとでも言っているのだろうか。
こうなって本当に良かった。
心からそう思った。
そして、私は博之にもう気持ちがないことをはっきり告げ、最後に盛大な嫌味を言って別れた。
「あの指輪、有効活用してもらえて本当に嬉しいよ。」
***
『八重山ぁ、本当に悪かった。申し訳無さすぎて、なんて詫びたら良いのかわからねぇ。まさか、博之に婚約破棄されたのが八重山だったなんて知らなくてさぁ…本当にごめん!』
知らない番号からの着信に恐る恐る出ると浅井くんだった。
「良いの。むしろ浅井くんが教えてくれた事実で随分救われたから。目が覚めたんだよ、指輪使い回す男なんてあり得ないし。こうなって良かったんだから…。」
『本当、申し訳ない!お詫びと言ってはなんだけど、今度飯を奢らせてくれ!マジで、そうじゃ無いと俺の気がすまないから!』
気にしないで欲しい、そう何度言っても食いついてくるので、1度はご馳走になる事にした。
浅井くんは、相変わらず天真爛漫だった。
自由で、裏表が無くて、感情をストレートに出すので、すごく楽だった。
一緒にいるだけで笑顔になれる、春の陽だまりのような暖かさ。
いつの間にか、私の心の中には浅井くんが居座るようになっていた。
***
「麗らかな春の日…か。俺たちに本当にぴったりだな!」
「もう…春ちゃんたら…。でも、本当に今日はそんな感じだね。」
「当たり前だろ?何しろ今日は記念すべき日だからな!」
桜の花が咲き誇り、空の青と淡いピンクのコントラストが美しい春の日。
雲ひとつない程よく晴れ、暖かく、まさに『麗らかな春の日』だった。
白無垢に綿帽子の私の隣には、羽織袴で顔をくしゃくしゃにして笑う旦那様。
「それにしても、春太郎と麗、2人の名前にぴったりな日だよな。」
「まさかあんな失言の1年後にこうなるとは思わないよね。」
「あの時、浅井くんが地雷を踏んで麗が泣いちゃうんじゃないかと本当にヒヤヒヤしたよ。」
高校時代のクラスメイト達は、去年の正月の飲み会の出来事について笑いながら話している。
私の隣で顔をくしゃくしゃにして笑うのは浅井 春太郎。私は浅井 麗になった。
私の旦那様は、1年前、クラスメイトと集まった新年の飲み会で、博之の婚約破棄した相手が私だと知らずに笑って喋っていた浅井くんだ。
「危うく冬田 麗になるとこだったんだもんな…。やっぱダメだよ、麗らかなのは春じゃないと。麗には春太郎って決まってたんだよ。博之じゃダメだったんだよ。」
「こんなめでたい日にその名前を出すか?」
「良いんじゃないかな?春ちゃんらしくて。それに私は今が幸せだからそれで良いの。」
「麗、愛してるよ〜!絶対幸せにするから!」
春の麗らかな日。
私は幸せな花嫁になった。