二人の願い
パンドラは苦しむ絵麻を、冷めた顔で見つめて言った。
「ま、アンタは放っておいても死ぬし。苦痛は充分に与えてあげたしね。
次はそっちのばん」
パンドラの赤い視線が、倒れたままの翔たちに向けられる。
「!」
倒れたままではあるが、翔はぐっとパンドラを睨みつけた。
「特にアンタ」
ささやかとも言える抵抗を嘲笑するかのように、パンドラが翔の前に立つ。
「その目。気にくわないわ」
「あんたに気に入られる目にした覚えはない」
反論しながら、翔は悟られないように右手をジャケットの内ポケットに伸ばした。
上手くやれば、これが自分達の命を救うはずだ。
「武装兵はみんな、あんたの気にいる目にしてるの?」
「フフ、アンタも知ってるでしょ? 私は気に入らないものは全て叩きつぶす」
「それはご苦労なことで」
言葉で必死に時間を稼ごうとする。
少しの時間でいい。少しだけで――。
「だから、今はアンタのやろうとしてることが気にくわない」
が、パンドラは翔のその行為を嘲笑うかのように、にっと赤い唇をひいた。
「それは、どういう根拠?」
「右手が体の下敷きになってる。攻撃で動けないフリのつもりだろうけど」
パンドラが無造作に翔の右肩を蹴り上げる。
「!」
はずみで、体の下に隠していた右腕が飛び上がる。
その焼け爛れた指先には、戻り玉が二つ握られていた。
「アンタ達が移動に使ってるボール。スキをついて、あの子に投げつけるつもりだったんでしょ? 私がそれに気を取られた時に、もう一つのボールで自分たちも戻るって算段で」
パンドラが満足げに、自説をといてみせる。
(読まれてたか)
実際その通りだったので、翔はこういうしかなかった。
「ご名答」
「ホントに油断のできない奴らね、あんたたちは」
パンドラは翔の右手を踏み付ける。強い衝撃に、しっかりと握っていたボールが反動で芝生に転がった。
「っ!」
ボールの軌道を目で追ったが、拾うことができない。
体に負担がかかりすぎていた。最初に絵麻の強い波動を受け、術を何度か使い、極めつけがパンドラの闇の波動だ。情けない話だが、こんな小細工でも精一杯だったのである。
「フフフ」
パンドラは苦もなくボールを拾った。未だ血の滴る手の中で、それは闇に包まれて燃え上がる。
「さて、そろそろ消えてもらいましょうか?」
パンドラが翔に向けて、闇に満ちた手をかざす。
防ぐ方法のない今、正面から闇を受ければ体を粉々に砕かれてしまうだろう。
(まずいな)
翔は唇を噛んだ。
所詮、道具として造られた命だ。未練は残るが、もとから命乞いをする気はない。
ただ、ここで死んだら――。
翔は目だけを動かして、血まみれになってぐったりしている絵麻と、倒れたままのリリィとを見た。
(二人とも、まだ死んでいないはずだ。時間さえ稼げれば)
少しでも時間が経てば、おかしいと思った信也たちが探しに来てくれるかもしれない。
そうなれば五対一。この圧倒的に強い化け物を倒すことはできなくても、逃げることは可能になるはずだ。
あちらには、瞬間移動のできる唯美がいる。回復のできるリョウがいるから、深手を負った絵麻を治してやることができる。
「殺さない」という約束を、かろうじて守ることが出来る。
自分は、絵麻に約束をした。それは打算や保身が混ざった、決してキレイではないものだったけれど、彼女を失いたくないという気持ちは本当だから。
成功する可能性の薄さを知りつつも、翔は最後まで悪あがきをすることにした。
「消える前に、少しだけいい?」
「アハハ。またお約束ねぇ。でもきいてあげましょうか」
「なんで世界を滅ぼす?」
「気にくわないからよ」
パンドラの声が鋭く跳ねる。今まで愉快そうに笑っていたのが嘘のように、彼女の赤い瞳は憎悪を宿していた。
「何もかもが気にくわない! アンタは、こんな世界に満足しているの?」
「別に満足はしてないけど、壊したいとまでは思いつめないな」
「たった一握りの権力者の一存で、簡単に、何十万の人の生命さえ操れる。こんな不条理な世界に、一体どれほどの価値があるっていうの?!」
「権力者か。僕だって所詮は雇われの身だから、逆らえないけど」
実際、Mr.PEACEという人間の一存で翔たちの扱いは変わる。
人を守るという大義のためにふるった刃が、一人の言葉ひとつで殺人の汚名に変わるのだ。
「そうやって服従して、のうのうと生きるアンタ達みたいな人種が気にくわないのよ!!」
パンドラの赤い瞳に怒気があふれ、闇が昏さを増していく。
「そういう理由で滅ぼすのか? PCとは無関係に生きる人達を巻き込んで? それじゃ、アンタだって、同じ――」
「もう聞きたくない」
翔が続けた言葉を、パンドラが怒りに満ちた声で遮る。
「決めたわ。私の機嫌をここまで悪くしてくれたご褒美に手加減してあげる。体を粉々にするつもりだったけど、ずたずたに引き裂くくらいで止めとくわ」
「死体は汚いだろうな」
「そうよ。めちゃくちゃのぐちゃぐちゃにしてあげる。誰も葬りたくないくらいに!」
想像して悦にいったのだろうか。パンドラのかん高い笑い声が辺りに響く。
(まだ、こないか……)
翔は周囲に気配を配って、小さく息をついた。救援が来る様子はない。
「僕はどうなってもいいから、ほかの二人のことだけは助けてくれないか?」
「アハハ。ホントにお約束ねぇ。でもダメ」
最後の最後の悪あがきとばかりに、翔は言ってみたのだが、パンドラの高笑いが強まるばかりだった。
「わかってんでしょ? 命乞いなんかしたって無駄だって。だって、私は全てを破壊するんだから! アハハハハハ」
とうとう悪運に見放されたのか、舌先三寸を使うための言葉すら浮かばない。翔は瞼を閉ざした。
(ここまでか)
「観念したみたいね! 五数えたら殺してあげる!!」
狂女の高笑いが夜の闇に響いた。
*****
意識が混濁していく。
身体にこびりつく痛みさえなければ、眠るのと同じような感覚だ。
視界が狭まり、周りのことが何もわからなくなって……。
「観念したみたいね! 五数えたら殺してあげる!!」
(殺す? 誰を?)
絵麻は落ちていた瞼を、痛みを覚悟で持ち上げた。
ぼんやりとした視界に、翔が倒れていた。忽然とした表情をしたパンドラが、翔に手をかざしていた。 さっき見た破壊の闇が、その手にあふれかえっている。
「五……」
(翔を、殺すの?)
意識が生々しく鮮明になり、絵麻ははっきりと瞳を開けた。
視界は冴え、パンドラの忽然とした表情までもが刺すように目の奥まで入ってくる。
「四……」
(殺さないで)
動かそうとした手から腹部へ、腹部から全身へと鮮烈な痛みが走る。それでも、絵麻は必死に体を動かそうとした。
「三……」
(殺さないで……殺さないで!)
動かない体がもどかしい。かといって、動けたところで、自分に何ができるわけでもない。
それでも、絵麻は思い続けた。
「二……」
(お願い、殺さないで。その人は……)
裂かれた腹部から、新たな血があふれだす。しっかりとペンダントを握っているはずの指先も、感覚がなくなってきた。
「一……」
(なくしたくないの。だって、その人は……)
ついに体から、完全に力が抜ける。
視界がまた暗く、狭くなる。痛みが消える心地よい一瞬――。
「アハハ、死になさい!」
(その人は、わたしのことを認めてくれた人! だから、殺さないで!!)
いろいろなことがあった。悲しいこともあった。完全に信用できるかと聞かれたら、絵麻は素直に頷けない。
けれど、翔はこんな絵麻のことを守ろうとしてくれた人だ。絵麻の作る料理を、美味しいと言ってくれた人だ。
(翔を……殺さないで……)
遠のく意識で、絵麻は強く願っていた。
強く強く――願い続けた。




