緋色の破壊・黄金色の救済
突然背後で轟いた雷鳴に、絵麻は走るのを止めて振り返った。
それは、絵麻が走ってきた方向から響いてきた。
「……翔?」
絵麻の脳裏に、ふと自分の料理を食べて笑ってくれた青年の笑顔が浮かぶ。
絵麻は即座に唇を噛んで、考えを打ち消すように首を振った。
考えちゃいけない。
あの人達はわたしを道具扱いしたんだ!!
絵麻はぎゅっと目を閉じ、また走りだそうとした。
その行く手を、牙をむいた狼の群れが遮る。
「!!」
絵麻は立ち止まって、思わずポケットに入れてある祖母の形見のペンダントを握りしめた。
狼に表情があるわけではない。それでも、彼らは絵麻を恨んで憎しんでいるように見えた。
赤い瞳をそれらの感情でぎらつかせながら、狼は絵麻を八つ裂きにしてしまおうと狙っている。
「や、やだっ!」
絵麻があげた悲鳴を合図がわりに、狼の群れがいっせいに絵麻に飛びかかってきた。
その動きが恐怖のせいか、必要以上にゆっくりと流れる。
「こないでぇっ!!」
自分の肩を自分で抱えこむようにして、絵麻は絶叫した。
その時、押さえていた肩から濃緑の波動がわきあがり、それは飛びかかってくる狼たちに取りついた。
濃緑の波動は狼たちを包みこみ、体をえぐっていく。まるで鋭いかぎ爪のように。
狼の死骸が山を作るまで、時間はさほどかからなかった。
「あ……」
絵麻と、まだ生きている狼たちの間を、高々と積まれた死んだ狼の骸が隔てている。
無造作に積み重なった狼たちの、ガラス玉みたいな目。そこからは先ほどまでの憎しみが綺麗にぬぐい去られている。
「……!」
先ほどの目は怖かった。けれど、この空虚な目はもっと怖い。
――わたしが殺したんだ。
その事実を認識した瞬間、絵麻はその死骸に背を向けて、元の方向へと走り出していた。
その視界に入った全ての狼たちに濃緑の波動が取りつき、敵意や殺意に関係なくその体を貪っていく。黒い毛並みに、内容物の緋色が毒々しく映える。
僅かな光に、臓物がぬるりとした感触を生々しく反射させ、それがどんどん積み重なっていく。
さっきよりももっと酷い、もっと惨い断末魔が響き渡る。
絵麻はぎゅっと瞼を閉ざした。それなのに、瞳にはまだ、臓物の緋色があざやかにこびりついている。
絵麻は、今までずっと料理をしてきた。採れたての魚の頭を落とし、捌いて調理したことだってある。日本での暮らしは安穏としていたけれど、死の気配に鈍感だったわけではない。
(わたし、とんでもないものを持っているの……?)
走っているうちに、次第に息切れがしてきた。
頭が重く痺れ、手足の先にも感覚がなくなってきている。これ以上走ったら、足がもつれて倒れてしまうかもしれない。
絵麻は目についた茂みに転がりこむと、身を隠した。標的を見失った狼たちが、周囲をうろつきまわる音がする。
「はあ、はあ……っ」
絵麻はその場にうずくまり、荒い呼吸を必死に押さえつけた。
体が鉛のように重い。今襲われても走れない。
あの波動が狼に憑き殺すところも、見たくない。
その時、絵麻の目の前の茂みががさがさと揺れた。
「な、何?」
絵麻はあとずさり、背後の木に体を押しあてた。そのまま、じっと揺れ続ける茂みを凝視する。
(狼だったら、どうしよう)
茂みがひときわ大きく揺れ、中から現れた者が夜の微かな光に金色を反射する。
そこにいたのは、声なき声で呼びかける金髪の美女。
リリィ、だった。
*****
「リリィ……」
絵麻の言葉に、リリィが安心したように微笑する。
夜の微かな光の中でも、その微笑みは氷の彫像のような美しさで輝いていた。唇だけが動いて、何かを告げようとする。
「……」
絵麻は答えられない。
言葉がわからない。それに、彼女の美貌が怖かったから。
あの冷たい玄関で首を絞めてきた、姉を思い出すから。
リリィが心配そうな、哀しげな色を緑の瞳に浮かべて、絵麻に一歩近づく。
絵麻は逃れようとして、背中をもっと木の幹に押しあてた。
リリィが、また一歩近づこうとする。
「こないで」
絵麻の声が震えた。
「こないで!! お願い!!」
リリィは動くのを止めると、今度はじっと絵麻を見つめた。
「……こないで」
絵麻は目をそらし、首を振る。
リリィの足が止まった。彼女はもう近づいてこなかった。その場に奇妙な静寂が落ちる。
沈黙が怖くなった絵麻がおそるおそる目を上げると、リリィはまだ絵麻のことを見つめていた。彼女の目の中の、哀しげな色は強くなっているように思えた。
「……?」
リリィは、今にも泣き出しそうな目で絵麻を見ていた。
『どうして私を怖がるの?』
そう、無言で語りかけられているように思えた。
絵麻はその時ようやく、リリィの本質に気づけたように思った。
意味もなく自分だけが除外されれば、悲しいに決まっているではないか。絵麻だってそうだった。学校で理不尽に友人達の輪から弾き出されて、とてもとても悲しかった。
「……なんで、泣くの?」
彼女の碧色の瞳が、哀しみの色に染め抜かれる。彼女は唇を動かしたが、やはり声にはならなかった。
「何を……言っているの?」
絵麻には、無音のその言葉はわからない。いくら耳をすませても、聞こえてはこない。
リリィは何かを探すように瞳を巡らせたが、やがて白い喉に手をかけた。
その手は夜の光量でもわかるほどにぶるぶると震えていた。それでも堪えるように目を閉じて、リリィは唇を動かした。
「・たし・・くらきらって・・・も・・・ない」
発されたのは、美しい外見と似合わない、がさがさに掠れてひび割れた声だった。
表情は歪み、無理をしているのがはっきりとわかる。それでも絵麻は彼女を留めることができなかった。
「翔は・なたをたすけ・・・・てた・。ほんと・よ」
掠れてひび割れた声で、リリィは続けた。
「翔が、わたしを助けようと? ……それは違うよ」
絵麻だって、本当は信じたい。彼が自分にくれた優しさと温かさを信じていたい。でも、彼は自分を利用しようとしていた。そのことを、翔は先ほど否定しなかった。
「い・っ・・なや・で、だれ・・かんがえ・たの。どうぐに・しないよ・に」
リリィは、絵麻の翔に対する負の気持ちを解こうとしてくれていた。
白い喉に手が食い込み、激しく咳き込みながらも、彼女はまだ続けようとした。
「わたし・、あなたに・うおも・ても・・いから」
リリィは辛そうに喘ぎながら、それでも言葉を止めようとはしなかった。
その様子は、ひどく痛々しかった。
「・・・、翔の・と・は・きらわないで。いい人・・から。信じて、良いから」
最後の声は激しく掠れたが、絵麻の耳にはっきり届いた。
「無理しないで!!」
気がついたら、絵麻は悲鳴をあげていた。
背中を押しつけていた木から離れて、リリィのショールに包まれた肩に手をかける。
「もう止めて。もういいから! そんなに、辛そうにしないで」
絵麻は自分の表情が歪むのを感じた。
「どうしてそんなにしてくれるの? 綺麗な顔、ぐしゃぐしゃにして……そんなことをわたしなんかのためにする必要ないのに」
日常の、ほんのささいなことすら話すことができない人だ。彼女にとって、話すということは、絵麻が考えているよりずっと体に負担がかかることなのかもしれない。
「リリィ……」
うつむいた絵麻の髪に、そっと暖かい手が触れる。
浅い息をつきながら、リリィが絵麻の髪を撫ぜていた。
唇が動いても、もう声は聞こえない。けれど、瞳をみれば何を言いたいのかはわかる。
大丈夫――そう言ってくれている。
「ごめんなさい。ごめんなさい……リリィ、ありがとう」
絵麻は彼女の肩を抱いて、幾度も謝罪と感謝を繰り返した。




