美人な姉の、醜い添物(いもうと)
絵麻は徒歩で帰路についていた。
絵麻の通う竹島高校から自宅までは、歩いて二十分程の距離である。
途中、にぎやかな駅ビルがあったりするのだが、絵麻は誰とも一緒ではなく、ひとりで歩いていた。
目立つような外見の子ではないのに、雑踏の中で絵麻はひとり、周囲の好奇の視線を集めている。
(嫌だな……)
表情は信じられないほど落ち込んでいる。クラスでつるし上げられる前まできれいに澄んでいた茶水晶の瞳が、今はどんよりと濁っていた。
(どうしよう。お姉さんにあんなこと頼むなんて)
絵麻はリュックサックを背負いなおすと、憂鬱な表情で残照に照らされた街を見つめた。
街頭の一番目立つ場所に、かの深川結女のポスターが張ってある。ライトアップされた中で新製品を片手に微笑む結女は、誰がどうみたって天下一品の、優しさと美しさを持つ天使のアイドルに見えるだろう。
でも、その真相は 。
絵麻は一瞬だけ表情を硬くしたが、すぐに元に戻した。
こんな声が聞こえたからである。
「あ、あの子、深川結女の妹だ!」
「あー、ホントだ!! アタシ、ワイドショーで見たことある!」
表情を戻してそちらの方を見ると、遊び帰りらしい女子中学生の団体が指さしポーズで絵麻を見ていた。
『いい? あたしの名前が聞こえたらとにかく笑いなさい。あたしのイメージのために』
心に響く声に従い、笑顔を造る。
「何て名前だっけ?」
「愚妹ちゃんでしょ? 愚かな妹って書いて」
「それは違うでしょうが……でも、ホントにバカだったんだね。ほら、ホントに竹島の制服着てるし」
「全然可愛くないね」
「結女ちゃんに似てない。すっごい暗そう。サイテー」
「しかも笑ってるしぃ。気色わるーい」
少女たちは口々に絵麻を罵りはじめる。
(……)
絵麻は無言で少女たちをみやった。
「あ。こっちみてるよ」
「おーい、深川結女の愚妹さーん、アンタ、全っ然可愛くないよー!」
少女たちは瞳を交わしてくすくすと意地悪く笑うと、我先にとばかり手をメガホンにして叫び出した。
「そんな顔でテレビでて、恥ずかしくない?」
「アンタより絶対アタシのがかわいーぞー」
「ホントに結女ちゃんの妹なの?! 産院で取り違えられたんじゃないの?」
「よくその制服きて歩けるねー」
「お祖母さんのお葬式サボッたんだって?! 人としてサイテーだよ、バカ」
最初の言葉は聞き流していた絵麻だったが、最後の言葉にさっと顔色を変えた。
「違っ……そんなこと!」
反論しようとするのだが、その直後に何があったのかと人が集まってきてしまった。
「何? 何の話?」
「あ、あの子深川結女ちゃんの妹じゃない」
「ホント? やらせじゃなくって?!」
会社帰りのサラリーマンやOL、夕方の買い物に出てきた主婦。みんなみんな集まってくる。
絵麻は言おうとした言葉を飲み込んだ。
大騒ぎになったら、お姉さんに何を言われるか!
絵麻は踵を返すと、アスファルトに靴音を響かせて走り去った。
「あ、お姉さんに撫ぜ撫ぜしてもらいにいくんだ!」
「姉貴が芸能人だからってでかい顔すんなよな、このブス!!」
「バーカ! 甘えっ子!」
その背中に、容赦のない罵倒の声と笑い声が覆いかぶさってくる。
(違う……)
絵麻は必死に走りながら、心の中でだけ呟いた。
(わたしはそんなことしてない。やってない)
いくつ目かの曲がり角を曲がって、絵麻はその角にあった大きくて綺麗な家の中に飛び込んだ。
(やってないのに……)
力いっぱいドアをしめて、玄関にへたりこむ。
大理石のような、高価な白い敷石が引かれたそこが、絵麻の自宅である。
一流芸能人の家らしく洗練されていて、置かれているランプシェードや鏡なども全てブランド物だ。
玄関の鏡に映る絵麻の表情は、疲れてぐしゃぐしゃに歪んでいるのに、不思議と笑顔だった。
目は泣き出しそうなのに。
(なんて顔をしてるんだろう)
こんなこと、日常茶飯事なのに。
絵麻はスカートについた砂ぼこりを払うと、今にも泣きそうな目を無理やりひっぱって元に戻した。
これが、絵麻の日常。
学校に行って、クラスメイトから羨ましがられて当てこすられ、街では姉とくらべられて罵倒される。
けれど、人はみんな笑ってみている。あなたは幸せでしょう? 立派な家に住み、両親や有名芸能人の姉から可愛がってもらっているんでしょう? 大半の人はそう思っている。
「絵麻? 帰ってんの?」
その時、ちょうど上の階から、きれいなソプラノの声が響いた。
「あ。はい、お姉さん」
「帰ってきたんならとっとと上がって来て、早くなんか作りなさいよ。おなかすいた」
「はい、お姉さん」
その声をきくやいなや、絵麻は弾かれたように階段を駆け上がった。
リュックを置きにも行かずに、そのままリビングに直行する。そこには、ソファセットに座って、コーヒーを飲みながら雑誌をめくっているひとりの女性がいた。
黒い夜空を映した、艶やかなロングヘア。暁色の唇。
端正な顔立ちの中から、切れ長の黒い瞳が絵麻を見つめている。
とても、とてもきれいな、まるで冬の女王が人間の形を借りて降りてきたかのような美人だった。
大人びた印象の彼女は、幼な顔の絵麻とは対称的で、全く似ていない。
「お姉さん」
この美女が絵麻の姉にして有名芸能人、深川結女である。
「遅い! いったいどれだけ油売ってれば気が済むの?! 養われの身のくせに」
世界中の人が羨むような美貌の持ち主は、次の瞬間、その形のいい唇から罵倒の言葉を吐き出していた。
「……ごめんなさい」
絵麻が叱られた子犬のように首をすくめる。
「誰のおかげでこんないい暮らしができると思ってるのよ」
「……」
「さっさとごはん作って。あたし、夜からラジオの仕事があるんだから」
結女は高姿勢で叫ぶと、雑誌をつかんでリビングから出ようとした。
その姿は、とても持っている雑誌の表紙で笑うアイドルと同一人物だとは思えない。
「出来たら下に持ってきてよ。三十分以内にしないと、怒るからね」
「……はい。わかりました、お姉さん」
絵麻はぺこりと頭を下げた。
まるで、メイドか奴隷のように。
そんな態度に、結女は満足そうに鼻先で笑うと、階下へと降りて行った。
外では優しい聖女だが、妹に対しては悪女。
これが絵麻の姉 超一流有名芸能人、深川結女の正体である。
ちまたで言われるように、可愛がってもらえるわけがないのだ。
両親だって家にはいない。両親はふたりとも海外支援団体に勤務していて、年の半分以上は海外出張に出ている。
今年も出張していて、まだ家には帰ってきたことがない。
『娘たちは安全な日本にいるんだから大丈夫。それより、可哀想な難民の子たちのために少しでも役に立ちたい』という、善意にあふれた、絵麻たちからすれば実に身勝手な子育て方針を持つ夫妻だ。
ゆえに、絵麻は異常にハードな生活を強いられている。朝は四時起きで朝食とお弁当作り。掃除と洗濯をやって、時間に応じて結女を起こし、朝食を取らせ、流しを片付けて登校。授業を受け、クラスメイトと教師からひとしきりのイヤミを浴びて、町中から嘲られ罵倒されるといった日課をこなし、下校後は夕食の買い物に行き、洗濯物を取り込みアイロンをかけ、もう一度家を掃除してから夕食を作る。結女は仕事の都合上、夕食の時間がかなり不規則なのでヘタをすれば夜中の一時に温め直すといったこともめずらしくない。
今日は運がよかったほうだ。
夕食が終わった後も、後片付けや明日の下ごしらえやらでそうすぐに自分の時間にはならない。
昨年の秋に、結女が東大合格を決め、絵麻が県内で最低レベルの園芸高校に進路を定めたとたんにこうなった。
どうやら、どこからかマスコミにこのことが漏れたらしい。あっというまに蜂の巣をつついたかのような大騒ぎが発生し、気づいたら絵麻のどうってことのない普通の顔も全国版のワイドショーのスクリーンに映ってしまっていた。
望んでも、映ることのできない人は星の数ほどいるというのに。
おかげで高校入学以来、日々見ず知らずの人間から親しげに声をかけられ、罵倒されるのが日課になってしまった。
「好きでやってるんじゃないんだけどな」
好きでテレビに映るわけじゃない。好きで芸能人の妹をやってるわけじゃない。
好きで罵倒されるわけじゃない。
全ては、姉の評判を落とさないために。
だから、どんなにされても絵麻は笑うのだ。
『いい? あたしの人気が落ちるようなマネしたら容赦しないからね!』
この一言がある限り、絵麻はそれこそ殺されても笑っているだろう。
けれど、絵麻にはそんな日々を支えてくれる大切なお守りがあった。
姉がくる気配のないのを確かめてから、絵麻はそっと制服のポケットを探って、そこから手製の小さな袋を取り出した。
口から出ていた銀鎖を引っ張ると、そこからキラキラと光がこぼれる。
それは、青い石がついたペンダントだった。
透明感のない、宇宙の全ての青さをぎゅっと凝縮させた色に、金色の星影を散りばめたような円形の宝石が銀の台座にはめこまれていて、その台座の後ろには『M to E』と文字が彫られている。
これは、絵麻が母方の祖母であるふじえ藤江ま舞ゆ由からプレゼントされたものだ。
どれだけの価値があるかは知るよしもない。このきれいさにケチをつけられる気がして、絵麻は、姉はもちろん両親にも見せずに、ひとりの時にだけそっとポケットから出してながめるようにしていたのである。
「お祖母ちゃん」
祖母の包みこむような優しさを想い出し、絵麻はふわっと笑顔を浮かべた。
それは、さっきまでのものとは全く違った、花のように綺麗な笑顔。
姉の『大人びてきれい』には遠く及ばないが、裏のない、素直な表情である。
この表情を外で一瞬でも見せていれば、絵麻に対する評価はまた変わっていたかもしれない。
「絵麻! まだなの?!」
絵麻が遠い記憶を思い返したその時、階下から結女の声が響いた。
時計の針はさっきの位置より十五分ほど進んでいる。
「いけないっ!」
絵麻ははっと現実に立ち戻ると、大慌てでキッチンに入って行った。